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その週末、地学部員は顧問の鈴木文子を伴って、池袋のプラネタリウムに赴いた。現地に集合したのだが、文子は可知子が光梨を従者のごとく伴っているのを見て、驚きを隠すことができなかった。だが可知子は平然としていたし、光梨もそのような事象に慣れつつあり、愛想笑いのようなものを浮かべただけだった。文子はある程度の情報を部長である雪子から得ていたが、実際その光景を前にして認識を改めた。その日は可知子が全く文子の言うことを取り合わず、文子が光梨に直接尋ねようにも、可知子が冷たさをもってあしらってしまった。
週が明けた月曜日、光梨は文子に昼休み地学準備室に来るよう告げられた。可知子と共に食事をした後、可知子の承諾を得て光梨は地学準備室に向かった。光梨は何故自分が呼び出されたのか、見当がついていた。可知子は何を言われても取り合うことはない、動じるな、と告げた。だが、光梨は自分一人で可知子との関係をめぐる戦いを遂行する自信はなかった。光梨は敵地に赴く心持ちで地学準備室の扉のノックした。文子は当然のことながら笑顔で出迎えた。
「まあ、そこに座って」
「はい」
地学準備室は相変わらず砂岩の臭いが漂っている。湿気がないというわけでもないのに、身体の水分が抜けていくような感覚になる。
「コーヒー飲む?」
「いえ……」
文子は光梨がはじめて来た時のように訊き、光梨も同じように断った。文子は浅く、そしてやや長く、吐息をついた。
「国分さん、目上の人から何かを勧められたら、ありがとうと言って素直に受け取るものよ。もちろん、コーヒーが苦手なのだったらごめんなさいだけれど」
「ぁ、」
光梨は、僅かにではあるが、自分がどうしようもないような間違いをした時のような空虚さを感じた。
「苦手では、ないです」
「そう」
文子は頷くと奥の洗面台の方へ向かう。そして、棚からカラフルな陶器のカップを取り出すと、近くにあったポットの湯で手早くインスタントコーヒーを淹れた。両手に黒いコーヒーが満たされたカップを手にして、文子は光梨の方へとやってきた。
「お砂糖とクリームは?」
「お願いします」
文子は二つのカップを光梨が対面する机に置くと、また洗面台の方へととって返し、溢れんばかりの砂糖とコーヒーフレッシュの入った小さな籠を持ってきた。
「はい。スプーンはこれ使って」
「どうも、すみません」
見ると籠には一本のスプーンが入っていた。どこにでもあるような、ステンレスのティースプーンである。
光梨は目の前に置かれた黒いコーヒーに、砂糖のスティックを二本とコーヒーフレッシュを二つ投入し、スプーンで手早くかき混ぜた。文子はしばらくそれを見ていたが、自分のコーヒーに口をつけた。その間に光梨は時間をかけてコーヒーを混ぜ、ようやく一口だけ口にする。熱かった。光梨が一口飲んだのを見計らって、文子は口を開いた。
「光梨さん。少し訊きたいのだけれど」
光梨は焦った。緊張し、冷たい汗が出た。光梨はカップから口を離し、文子の方を見る。顔色を窺う、という言葉そのままに。
「深井さんの、ことなのだけれど」
光梨はそれを訊かれて、身体の髄が冷えるのを感じた。そう、誰には訊かれるだろうとは思っていた。だが、可知子との関係を、「対外的に」どのように説明すべきか、考えていなかった。いや、考えるのを先延ばしにしていた。回答を、何も用意していない。
「先日の池袋。あと、実のところ、部長の安積さんからも相談を受けていてね。あなたと深井さん、見ていて、ちょっと、心配で。なんというのかしら。傍目から見ていてね。普通、とは言えないわ」
「問題ありません!」
光梨の中から言葉がほとばしった。光梨は文子を見つめてしまう。自分でも予期していない言葉であった。自分でも驚いた。そして焦った。この言葉が適当なのか。光梨の脳裏は白く焼き付き、思考は過負荷で行き詰まった。文子も、光梨の声に驚いた。目を丸くして光梨を見つめる。
「そう、問題ない。うん。光梨さん、あれはあなたが自発的にやっている、ということなのかしら?」
文子は自分で確認するように、ゆっくりと尋ねた。光梨は、ようやく自分で何を答えたのか自覚しはじめた。
「はい、そうです。私からああしているんです。ああしたくて、なので、問題、ないです。大丈夫です」
光梨は、視線を落とし、先程とはうってかわって弱々しく、口にした。最後の方は消え入るようですらあった。文子は、それを聞いて、大きく息を吐いた。光梨も、自分の答えに自信を見いだせず、文子の視線を、これから口にされるであろう言葉を、恐れていた。
「そう。では、決して、深井さんに何か言われたとか、強要ではないということ?」
文子は光梨を見据えて質問したが、光梨の方は視線を完全に落としていた。
「はい。そんなことはないです。私の、自発的な、です」
再び文子は吐息をついた。
「そうですか、わかりました。ただ、やはりその、先生から見て、少し。なんというのか、普通なものとは映らないわ。あのような関係は、決して褒められたものではない。国分さん、深井さんには彼女の事情があるにしても、それに引きずられることなく、判断して」
「はい」
光梨は僅かに泣きたくなっていた。泪が滲んでいた。このコーヒーを飲まなければ。コーヒーを飲んで、早くここを出よう。光梨はカップを両手で包む。コーヒーは幾らか冷めていて、すぐに飲むことができそうだった。光梨は少しだけ安心した。
その後光梨は文子とこれといった会話をすることもなく、ただ退出の挨拶だけして、地学準備室を後にした。光梨は早く地学準備室を出ることができ、それで何か安心した。そして出た後では何か誇らしいものを感じていた。光梨は、可知子との関係が「公の」ものになったような気がして、嬉しさを感じた。そう、可知子様は誇りなのだ。光梨にとってそれは後背に射す光であった。
光梨は教室に戻ってきた。どこか凱旋気分があった。だがそれは教室の扉を目の前にして静止した。自分の名前が話題に上がるのが聞こえたからだ。はっきり聞こえてくるのは絵里の声だ。その口調に敬意はない。絵里の声を取り巻くのも、どこか浮ついた、無責任な、それでいて冷淡な笑いを秘した、傍観者の口調であった。
「あら、光梨さん、」
絵里の周りにいた声の一つが、扉近くの光梨を発見した。漣のように、溜息と冷笑の混じった響動きが湧いた。光梨は踵を返すわけにもいかず、乾いた傍観者達の視線の待ち受ける中へと進みゆく。狼狽、若干の恐怖、そして僅かな恥辱の混じった、地に足のつかない歩調で歩いてゆく。
「光梨さん、今日はご主人様のとこにはいかなくていいの?」
笑いを含んだ、おどけたような調子で、絵里が口にする。絵里を取り囲んでいた女生徒たちから、僅かな笑いと、驚きの声が発せられる。光梨は顔に血流がなだれ込んだかのような熱を感じる。先程以上にもはや光梨の足は浮いていた。
「絵里さん、」
誰かがたしなめる。
「ああ、ごめんごめん、」
絵里は軽い口調で、光梨に謝るふうでもなく、口にした。光梨の足は断崖に晒される。
「光梨さん」
教室の奥で、郁美と二人でいた礼子が呼びかける。光梨は、もうその先に道がないと、進路を反転させた。身体を回す時に、絵里の近くにいた綾音の顔が目に映った。彼女は意外なものを見る、驚きと躊躇いの含んだ顔をしていた。ここに地はない。空虚な伽藍だ。ただ光梨の進むべき道は一本の糸でしかない。光梨は前へと進んだ。
「光梨さん!」
郁美がやや強く口にする。光梨の背中で教室は喧騒に包まれつつあった。光梨は前へと進んだ。ただそれだけが許される行為であった。光梨はとにかく前へと進んだ。廊下、階段、廊下、吹抜、階段、廊下。そして光梨が校舎の二階に達したところで予鈴がなり、光梨は教室に戻った。教室は、冷水を湛えた水槽となっていた。
 




