表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
腐肉の女王  作者: 資治通鑑
10/28

10

 五月の大型連休が過ぎ去ると、光梨と可知子の組み合わせは生徒の多くが知るところのものとなった。具体的に二人がどのような関係なのか知る生徒はいなかった。情報に疎い生徒は光梨のことを福祉的な介護者と認識していた。幾らか二人のやりとりを知っている人間は、二人が対等ではない関係であろうことを、それが「異様」なものであることを察知していた。だがそれに介入しようという生徒はいなかった。

 薫風が吹き、皐月の陽光もたおやかな日々が続いた。制服は紺の冬服から白の夏服へと変わった。光梨たち生徒の夏服は半袖だったが、可知子のそれは長袖であった。右腕の傷を考慮してのことだろうと、光梨にもすぐにわかった。

 可知子は陽の光を浴びたがった。可知子には、そのような事実がないことはわかっていたが、乾燥することで腐敗の湿り気を解消できるような気持ちがあったからだ。実際のところ、可知子の右半身の皮膚は薄く日射に耐えることができない。五分も日光に晒されたら右半身の薄い皮膚は焼かれて痛痒を覚えはじめる。そうなると彼女は日陰に避難しなければならない。だから日陰に移動するたびに可知子は不機嫌になり、最初光梨はそれを恐れたが、やがてそれは「いつものこと」となっていった。可知子の怒りは光梨にとって恐れの対象から、可知子を独占する特権の保障となり、悦びの対象にすら変わっていった。

 その日の昼休みも、分割教室で食事をした後、校舎から外に出た。五分ほど日なたを散歩してから、可知子の苛立ちと共に木陰に移動した。可知子は軽い疲れを訴え、腰を下ろすと、光梨に膝枕するよう命じた。

 陽光が穏やかに降り注ぎ、辺りは鮮やかな翠をして草木が春を謳歌している。風もそよと吹き渡り、暖かくも爽やかである。その中漂う可知子の肉の腐敗臭。もはや光梨にとってその臭いは不快さを呼び起こすものではない。肉の腐敗臭。それは光梨に安定した実存をもたらしてくれる。この臭いがある限り自分は自分らしくいられる。

 光梨は青臭くも柔らかな下草に正座して、可知子を膝枕する。脛に当たる下草の感触は冷たく、僅かに濡れていて、最初その冷たさに微かな驚きを覚えたが、じきに心地よくなった。可知子の頭が乗せられると、そこには確かな熱と重さを感じる。人間というのはこんなに重いものなのだなと、光梨は実感する。それはその人が確かに存在するということであり、その保証であった。可知子様が確かにここに存在する。自分の傍らに存在する。光梨は生きているという実感を味わっていた。

「それにしても傑作だったわ。あの二人の顔。ブルジョワ風情が」

 可知子が鼻で笑うような声を出す。

「はい、可知子様」

 光梨は応える。可知子が話題にしているのは、光梨が可知子に「忠誠」を誓った次の部活で見せた秋子と絵里のことだ。可知子にとって面白かったのか、何度か話題にしてきた。

 だがそう嗤った後、可知子の言葉は途切れた。可知子の瞼は半ば閉じられている。その下の瞳は特に何かを語るわけでもなく宙に向けられている。

 僅かに時が過ぎて、半ば瞼を閉ざしたまま、可知子は再び口を開く。

「熱いわ。本当、鬱陶しい」

「可知子様。……」

 光梨が可知子の傍にいるようになって、可知子はしばしば右半身の「熱」を訴えた。可知子によると、病気によって明確な痛みがあるわけではないのだという。ただ、右半身の末端が熱く感じられ、僅かに疼痛を感じるのだと。それは、「無視するには強く、意識して対抗するには弱い絶妙な加減」なのだと、可知子は語った。

 再び可知子は沈黙する。その瞼は、今度は完全に閉じられた。学校の敷地の外からは自動車の交通する音が聞こえるが、それはひどく遠い。光梨には、可知子の呼吸が微かに聞こえていた。それによって彼女の身体が膨張と収縮を繰り返すのを感じていた。光梨は幸福感を覚えていた。こうして自分が理想とし、そしてそれを受け入れてくれる人が傍らにいる。光梨の心は満ちていた。

 遠くで生徒たちの高い声が聞こえる。ゴムボールの跳ねる音が聞こえる。

「こっちに飛ばしたら殺してやるわ」

 薄っすらと瞼を開け、可知子は低い声を出す。

「はい、可知子様」

 こうした言葉のやりとりも光梨は楽しくなっていた。

「あなたに殺せて? 光梨」

「可知子様のためなら」

 光梨は即答した。可知子がそれに満足したのか、光梨にはわからなかったが、だが光梨は満足であった。可知子は木漏れ日を見ているのか、瞳を宙に向け、僅かに目を細めている。上空では雲雀が囀っている。光梨も可知子の視線に合わせて上を向く。なんて穏やかで満ち足りた春の一日。そう思うと光梨にとって世界は愛にあふれたものに感じられた。

「光梨」

 呼びかけに、光梨は僅かに動揺した。

「はい、可知子様」

「歌、歌って」

 可知子のその言葉には、どこか幼さが滲み出ていた。

「歌」

「歌、ですか?」

 光梨は、可知子の要求に回答を用意できなかった。

「歌といったら歌に決まっているでしょう。歌いなさい」

「えと、何を歌えばよろしいのでしょうか」

「なんでもいいわよ。中学の時の合唱コンクールとか。あったでしょう」

 可知子は、冷たい、光梨の心を射抜くかのような瞳を向けてくる。これは命令なのだ。光梨はそのことを思い知る。

「わかりました、」

 光梨は意を決して唾を飲む。光梨の心にはすでにもう歌声が用意されていた。何故かはわからないが、歌と言われて、この歌だけが光梨の心に浮かんでいた。


 ある日パパと二人で 語り合ったさ

 この世に生きる喜び そして悲しみのことを


 それはあらかじめ用意されていたかのようにすんなりと出てきた。


 グリーングリーン 青空には小鳥が歌い

 グリーングリーン 丘の上には ララ緑がもえる


 その時パパが言ったさ 僕を胸に抱き


 ここまで歌って、気がついた。この歌詞のその先を。その意味を。

「あの、忘れてしまいました。歌詞を、その、」

 光梨の声はか細く、震えた。その声は後悔の念のうちに消えていった。

「嘘仰い」

 可知子の声は怒気をはらみ、視線は鋭い。可知子は明らかに意思をもって光梨を見つめていた。光梨はそれを恐れはした。だが、この歌はあまりに明示的に過ぎた。

「申し訳ありません、」

 光梨の声は、震えた。光梨の心は後悔の黒いインクで塗りつぶされていた。腹に冷水が溜まって冷たく、重い。恐怖と後悔で心が震えていた。

「赦さないわ。歌って頂戴」

 可知子は目を細め睨んでいる。歌わなければならない。可知子はこの曲の選択の愚かさは赦すであろうが、命令に背くことは赦さないであろう。


 その時パパが言ったさ 僕を胸に抱き

 辛く悲しい時にも ラララ 泣くんじゃないと

 グリーングリーン 青空にはそよ風吹いて

 グリーングリーン 丘の上には ララ緑が揺れる


 光梨の歌声は、震え、かすれていた。脳髄から、温んだ水が溢れてくる。心の襞に染みこんでいく。熱の予兆があった。やがてそれは明確な熱を持ち始めた。その奥底には火傷しそうなほどの熱量が秘されている。脳髄が焼けた鉄のようだ。熱湯が心の奥底から、静かに、だが確かに湧き出てくる。それはそのまま目頭を熱くし、泪になった。


 その朝パパは出かけた 遠い旅路へ

 二度と帰ってこないと ラララ 僕にもわかった

 グリーングリーン 青空には虹がかかり

 グリーングリーン 丘の上には ララ 緑がはえる


 光梨はようやく思い知った。自分が今こうして接している彼女は、深井可知子は、半年後確実に死ぬのだと。半年後には存在していないのだと。もはや眼からは泪が溢れ出ている。歌声は詰まり、嗚咽を漏らす。

死。深井可知子は死ぬ。半年後には、確実に彼女は死ぬ。光梨は今や自分が相対しているものの貌を、ようやく目の前に突きつけられることとなった。死。それは完全な終り。消滅。消えてなくなること。今光梨がこうして膝の上に乗せ、その存在を感じ取り、喜んだこの彼女は、死ぬのだ。半年後には、もう二度と会えない存在になるのだ。


いつか ぼくもこどもと 語り合うだろう

この世に生きる喜び そして 悲しみのことを

グリーングリーン 青空には かすみたなびき

グリーングリーン 丘の上には ララ 緑がひろがる


 歌声は千々に乱れ、切れ切れであった。頬を泪が伝う。熱い。泪が、目頭が、熱い。何より、脳髄が熱い。脳髄から絶え間なく溢れる熱い奔流に光梨は溺れそうになる。光梨は泪が可知子の顔にかかってはいけないと必死に手で拭う。濡れた泪の跡が風にさらされ冷たくなる。だが、その冷たさを感じた次にはまた泪が零れる。顔も、脳髄も熱いままだ。歌はようやく最後までたどり着き、光梨は口元を手で覆った。大きく嗚咽が出る。光梨の脳は発酵し、何も言葉として理解できないでいた。ただ、可知子の死という存在だけが、目の前にあった。

 少しの悲嘆の後、光梨は気づいた。こんなにみっともなく泣いては可知子に叱られる。だが、可知子は何も反応を示していない。泪が風にさらされ、火照っていた顔が冷えていく。溢れていた熱も退潮していく。脳髄は未だ芯は焼け石のように熱かったが、光梨に溜まっていた熱は急速に減衰していった。可知子に注意を払う。聞こえたのは、可知子の規則正しい呼吸音であった。光梨は僅かに安心した。可知子は、寝ている様子であった。

 光梨は頬を緩ませた。可知子の寝顔の、眉間の皺はとれていない。だが、光梨にはその寝顔がとても穏やかなものに見えた。口元からは緊張が消えている。目元も平静だ。光梨にはより可知子への愛しさが増したように思えた。彼女は誇るべき主人であり、愛すべき女王なのだと。光梨の心は暖かかった。可知子が、こうして、寝息を立てている、それだけでとても心が安らぐように思えた。

 光梨はポケットからiPhoneが落ちそうになっているのに気づき、一つのアイディアを思いついた。静かに右手でiPhoneをポケットから引きぬく。そしてカメラを起動させ、可知子の顔を画面に収める。光梨は、自分が今とても愉しいことをしているのだと思った。心が踊っていた。右手でカメラのピントを合わせつつ、左手でスピーカーの部分を塞ぐ。これは、冒険だ。だが、私の可知子様は寝息を立てている。右手をずらし、なんとかシャッターをタップする。音は、僅かに漏れただけであった。可知子は穏やかな寝息を立てている。光梨はゆっくりと両手を下ろす。光梨の頬がまた緩んだ。


 夜の夕食の席で、光梨は父の史彦に最近登校が早い理由を問われた。光梨は、地学部の先輩と待ち合わせをしている、と本当のことを曖昧に答えた。史彦は更に、部活で「深井さん」はどうなのか、と曖昧に尋ねた。光梨としては不本意なことであった。父親に可知子の情報を触れられるのも、その曖昧で真摯さのない口調も不本意だった。だが、その曖昧さには曖昧さをもって答えることで光梨は父親の介入を阻止した。

 会話の最後に、光梨は自分が幼い時に死んだという母のことを父に尋ねようか、そう一瞬思ったが、それを言葉にすることはできなかった。それが父親への反発なのか死というものへの恐れのためなのか、光梨は判断しようとしなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ