1
彼女の周囲には、肉の腐った臭いが立ちこめている。辺りに広がる芝生や木々の葉は翠に輝き、その生命を謳歌している。胃を抉るような、肉の腐った臭いが漂う中。木立を揺らして吹く風は涼しげで、僅かに草の香をはらみ、爽やかに薫っていた。だがそれにしても消しえない、肉の腐敗臭。加えて鼻につく、血と膿の臭い。誰もが吐き気をもよおすその臭い。それを感じている少女にとっても、最初はそうであった。だが彼女、国分光梨にとって、それは一度受け入れてしまったあとでは愛おしいものとすらなっていた。それは彼女にとって確固とした実存を保証してくれる鍵である。その臭いがなければ、自己の存在に物足りなさを感じるまでに。愛しい、愛しい、腐肉の臭い。
陽光はあくまでも強すぎず、柔らかに辺りを照らしている。光梨は涼しげな木陰に座していた。彼女が膝枕を貸している少女の体温が伝わり、幾らか汗ばむ。半袖の夏服は風を適度に通し、体温を調整してくれている。だが公立の中学校から進学してきた光梨にとって、やや厚手の真っ白なワンピースは、いささか不慣れなものであった。
遠くで、少女たちの歓声が上がる。ゴム製のボールが弾む音が聞こえる。
「こっちに飛ばしたら殺してやるわ」
光梨の膝に枕する少女は、瞼を開くと、そうつぶやいた。
「はい、可知子様」
光梨は笑みを浮かべて答える。
「あなたに殺せて? 光梨」
光梨の膝枕に頭を載せている、可知子と呼ばれた少女が問い返す。鋭い眼光。生来つり上がった、巴旦杏の実に似たその目。そこには鬱積した苛立ちが晴れることなく漂い、不機嫌さを醸し出していた。強い意志を感じさせる真っ直ぐな眉も、眉間に皺が寄り、不愉快さを湛えている。だがそれも片目だけのこと。彼女の右眼は、白い眼帯に覆われていた。その下は頬にかけてケロイド状にひきつり、赤く腫れている。表皮には血と膿の混ざったものが吹き出し、爛れ、半ば固まっている。
「可知子様のためなら」
光梨は心からそう答えた。そう、心から。
可知子が答えに満足したのかはわからない。彼女は再び目を瞑る。眉間の皺は消えることがない。長い間皺寄せてきたため、もはやそれは顔に刻みついていた。光梨はその険のある寝顔のその傷を、腫れた肌を見て満足感を覚える。そう、可知子様には心から応えないといけない。可知子様の前にあって、自分は無謬でなければならない。何故なら可知子様は無謬なのだから。
空の遠くで、雲雀が囀っている。空はどこまでも高い。ボールの音も、歓声も、いつの間にか止んでいた。今はただ、学舎の方から小さくざわめきが聞こえてくるだけ。学校の敷地の外で車の行き交う音も、ひどく遠くに感じる。木陰の周りには、誰もいない。
この時間が、ずっと続いてくれたらいいのに。光梨はこの状況でなら誰もが思うであろうことを、思い浮かべていた。いや、この血と膿と腐肉の匂いは自分だけのものだ。光梨は確信していた。可知子様と共にいるのは私だけでいい。可知子様だけが私の支配者だ。心の底から確信していた。それは事実なのだ。可知子様もそう望んでいる。それは光梨にとって間違いようのない事実なのだ。
「光梨」
唐突に呼ばれ光梨は少し肩を震わせた。声の主はもちろん可知子だ。
「はい、可知子様」
何事もなく速やかに返事する。それが従者の務めだ。
「歌、歌って」
少し、拗ねたような口調。光梨の心に、甘いものが広がる。
「歌」
「歌、ですか?」
子供のような口調の可知子。恐る恐る光梨は尋ねる。
「歌といったら歌に決まっているでしょう。歌いなさい」
そう言って、可知子は光梨を見つめる。光梨は困惑して尋ねる。
「えと、何を歌えばよろしいのでしょうか」
「なんでもいいわよ。中学の合唱コンクールとか。あったでしょう」
可知子は視線を外さない。その瞳はどこか真剣な光を湛えている。
「わかりました、」
覚悟を決めて、光梨は中学校の合唱コンクールで歌った歌を思い出す。二年と三年の時のそれは思いつかないのに、一年の時の歌には容易にたどり着く。
ある日パパと二人で 語り合ったさ
この世に生きる喜び そして悲しみのことを
何故か自然と口から出てくる。音量は小さいが、それはひどく素直で、素朴な歌声となる。
グリーングリーン 青空には小鳥が歌い
グリーングリーン 丘の上には ララ緑がもえる
その時パパが言ったさ 僕を胸に抱き
光梨は気づいた。この先の歌詞を。
「あの、忘れてしまいました。歌詞を、その、」
光梨は歌をやめ、自信のない震えた声で口にした。最後の方は消え入るようであった。
「嘘仰い」
可知子は光梨を僅かに睨んだ。僅かな視線であっても光梨にとっては十分に恐懼の対象であった。それでも、この歌は駄目だ。
「申し訳ありません、」
震える小さな声で謝罪する。何故よりにもよってこの歌を選んでしまったのであろうか。自分の愚かさに心象が暗澹となる。腹の底に重く冷たい水が溜まる。視線が震えた。
「赦さないわ。歌って頂戴」
可知子の視線はますます鋭くなっていく。その断定的な口調は怒気すらはらんでいた。光梨は可知子の怒りを買うくらいなら、と覚悟を決めた。光梨はわかっていた。可知子は選曲の不備は赦すかもしれないが、命令の違反は絶対赦さないだろうことを。
その時パパが言ったさ 僕を胸に抱き
辛く悲しい時にも ラララ 泣くんじゃないと
グリーングリーン 青空にはそよ風吹いて
グリーングリーン 丘の上には ララ緑が揺れる
光梨は心の底からこの選曲を後悔していた。歌声はかすれ、震えていた。泣くな、など無理なことだった。
あの時パパと約束 したことを守った
こぶしをかため胸を張り ラララ 僕は立ってた
グリーングリーン まぶたには涙があふれ
グリーングリーン 丘の上には ララ 緑がぬれる
もはや、歌のとおり瞼には涙が溢れそうになる。辺りの緑は濡れつつある。せめて嗚咽を漏らさないよう光梨は気を張るしかなかった。
その朝パパは出かけた 遠い旅路へ
二度と帰ってこないと ラララ 僕にもわかった
グリーングリーン 青空には虹がかかり
グリーングリーン 丘の上には ララ 緑がはえる
光梨の声がかすれる。僅かに嗚咽を漏らしてしまう。
*
国分光梨にとって中学校は忌むべき存在であった。都内の、平凡な公立中学校。都内であるから、私立進学校との競合もあり授業には力が入れられていた。生徒たちも意識は高かった。だが少数でも夾雑物はいずれ混じる。光梨は、彼女にとって昭和なる時代の遺物であり残滓たる不良連中に目をつけられてしまった。ひどく些末な理由によって。
光梨はかなり勉学に力を注いだ。進学校である高校に行けばこの手の不良品は一掃される。私立ならなお確実だ。光梨の希望は憧れに変わり、夢想へと昇華していった。
幸い、光梨の家庭は経済的にそれを許した。そして、光梨の知性もそれに見合うのに十分なものだった。
中学校を卒業し、晴れて光梨は私立の女子高に入学することが出来た。日本でも五指に入るとされている、冥志舘女子高等学校である。多くの華族の子女を受け入れてきた、まさに日本の支配者階級のための学び舎である。
光梨の父も一流の企業でそれなりの重責を担う立場にあった。だがこの学校は正確な意味での日本の「支配者階級」、日本の「青い血」のための学校である。光梨の父のような叩き上げの会社員はおろか、かつてはブルジョワですら「身に余る」名門校であった。とうの昔に憲法によって国民の平等が定められたとはいえ、身分階層が社会から完全に消滅するはずもない。
冥志舘女子高等学校は、他の同種の学校組織同様、小学校のみならず幼稚舎からの一貫教育校だ。若年の同性ばかりが集まった集団に、新参者が入ってきたら。水槽の水に油を一滴垂らした様なものであった。
光梨は溜息をついた。今日何度目だろうか。気がつくといつもついている気がする。とある昼休み。昼食も済んでこれといってすることもない。
特に何というわけではない。光梨は教室を見渡す。教室は南面し、日照も良いはずだ。だが光梨にはどこか馴染めないものがあった。柔らかい印象を与えるはずの乳白色の壁は、完璧に過ぎて独善的だ。明るいブラウンの木目調の床は、空々しくて不安感を誘う。濃いクリーム色の生徒机は、主張が強すぎる。どうにも黒板の微妙な消し残しまでもが光梨の心にささくれ立って見えてくる。どれもよい価値を持つはずのものなのに、光梨の心の中でそれらは整合性を保てず、己のものとすることが出来ない。
紺のワンピースの制服も、名門校らしく丈が長い。それに加えて多くの生徒が黒タイツである。光梨には重苦しく映った。光梨の閉塞感が増す因子となる。その制服が二つ、光梨の方へと近づいてきた。
「ごきげんよう、光梨さん。部活、まだ決めていないの?」
話しかけてきたのは一世代前には滅んだような眼鏡をかけた、いまいち貧相な顔立ちの少女だった。鹿嶋礼子。意思の弱そうな眉、しまりのない目つき。光梨は彼女の存在をどうにも受容できなかった。
「ごきげんよう、ええ、まだ、決めていなくて」
光梨は慣れない挨拶を、消え入るようにする。こんな挨拶をするのは今時少女小説の中だけだと思っていた。ここでは未だに現役なのだ。光梨にとっては「ごきげんよう」も、下の名で呼ばれるのも、憧れに満ちた挨拶であった。上質な学校のステイタスであるはずだった。実際自分が口にする段になると、それは拙劣な口調に終わってしまう。なにより光梨にとっては、この挨拶をし、下の名で呼び合う相手というのが目の前の冴えない少女しかいないというのが問題であった。入学前の「シミュレーション」では、この挨拶はもっとお嬢様然とした少女とすべき挨拶であるはずだった。下の名で呼び合うのも、もっと光梨にとって「心を通い合わせるべき」存在とでなければならなかったはずだった。
「まだ決まっていないのなら、私達と部活見学に行きません?」
続けて話しかけてきたのは、顔も体格もふっくらした少女だった。ごくまれに光梨が毒づくときの「言ってはいけない」表現でいうならば「デブ」である。彼女は香取郁美。礼子と郁美は光梨が入学してから、高等部中途入学である彼女のことを何かと気にかけて話しかけてきていた。光梨にとっては、それは親切の押し売りであった。
彼女らの好意が光梨に障ったのではない。光梨にとって、この「お嬢様学校」においての華やかなるべき「ご学友」は、このような冴えない子たちではないはずだった。もっと洗練された、気品に溢れた存在であるべきだった。問題なのは光梨にとっての「理想」が満たされないという、どうしようもないわがままなのである。
郁美の方は分家ではあるが、この二人が天孫降臨から続く他に抜きん出た社家の生まれという事実を光梨が知れば、光梨にとっての彼女らの評価は変わったかもしれない。二人はそんなことを言いはしないし、学校の中では「当然の事実」で誰も口にしなかった。
「ええと。いえ。どの部活に?」
光梨は何となく笑顔を作りつつ、曖昧な調子で口にする。礼子は提案を口にする。
「ボランティア同好会とかどうかな、って」
ボランティア! 光梨はおぞけ立った。何が理解できないといって、ボランティアほど光梨に理解できないものはなかった。誰が好き好んで、無償で奉仕などしなければならないのか。諸外国では兵役免除か犯罪者の刑罰として機能しているという、現代の苦役。
「ごめんなさい、ちょっと」
「あら? そう」
「残念だわ」
二人は僅かに眉をひそめる。郁美の口調には幾らか大げさにも聞こえた。
「光梨さんは、外の中学校から来たのよね。部活は何を?」
礼子が尋ねてくる。
「ああ、茶道、を」
「ああ、部活でお茶をされていたのね」
郁美の受け応えに光梨は何となく違和感があった。
「ええ。茶道部に入っていたわ。高校でもそうしようと思っていたのだけれど」
「そうね。冥志には茶道部はないものね」
礼子は、残念なこと、というような表情を浮かべている。
「どういう……?」
光梨は曖昧に問うた。
「えと、やはりこの学校の生徒の皆様は、それぞれの家で流派が違いますし。それに皆さん直接先生について教わっている方が多いのよ」
「私も家に帰ってから直接お教室に行っているもの」
郁美の説明に、礼子が自分の事情を重ねる。光梨はちょっとした衝撃を受けた。公立出の自分とは世界が違う、ということらしい。光梨は腹の底が冷たく、重くなるのを感じた。
「でも、文化祭の時には有志で席を点てるわ」
「そうそう。去年の遠州ご有志のお席は、とても華やかで、まさに綺麗さびというのかしら。それに、あの時は穎子様がご亭主で、」
「ええ、私も行きました。本当、素敵なお席でしたね、あれは、」
礼子が去年の文化祭の話をしはじめると、郁美との間で話が弾んでいく。私、その時いなかったんですけれど。光梨は心の中で毒づいたが、どうしようもない。曖昧な笑顔らしきものを浮かべつつ適当に相槌を打つ。腹の底に何かが溜まっていくのを感じながら。一体どうやって自分は「私の理想の学校生活」をはじめられるのだろうか。そんなことを光梨はぼんやりと思い続けるのであった。
授業がはじまる。私学だから尚更なのか、光梨にとって高校の授業は難しい。とはいえ中学校の時も塾の授業は苛烈なものだったので、それと比べればひどく問題にはならなかった。勉学の点では落伍者にならずに済みそうである。ただ、英語の聴取という面において、公立出の光梨は大きく格差をつけられていた。最低限の義務しか果たす気のない公立中学校でいい加減な日本英語を聞かされている間、この学校では母語話者を招いての日本語の禁止された授業が当たり前であった。光梨の予期せぬ蹉跌であった。
「Few words, but to effect more than all yet;
That when we have found the King, in which your pain
That way, I'll this: he that first lights on him,
Holla the other.」
「Ok, Good!」
白人の女性教師が明確な語調で告げる。テキストは手元にあるからまだいい。だが、教師の受け答えも、生徒の受け答えすらも英語でなければならないのだ。
「Next, hmm… Hikari! Stand up!」
「Yes.」
光梨は不慣れな英語で、媚を拭い去れないはにかみを浮かべ教師に応える。英語で呼ばれることが不慣れなら、下の名で呼ばれるのもまた不慣れなことだ。教師は笑顔で光梨が立つのを待っている。すらりとした長身で、いかにも北欧系といった風貌だ。その顔には確固とした笑顔を浮かべている。
「Read Lear’s words.」
「ええっと、Blow, winds, and crack your cheeks! rage! blow!
You cataracts and hurricanoes, spout
Till you have drench'd our steeples, drown'd the cocks!
You sulphurous and thought-executing fires,
Vaunt couriers to oak-cleaving thunderbolts,
Singe my white head! And thou, all-shaking thunder,
Strike flat the thick rotundity o' the world!
Crack nature's moulds, all germens spill at once,
That make ingrateful man!」
「Good!」
光梨は背中に冷たいものを感じる。どうにも英語でのやり取りに慣れる気がしない。
「Hikari. What do you image from this words?」
「え、なんて、」
「No! No japanese, Hikari.」
ああ、まただ。またやってしまった。この英語の教師に何度目だろうか。この、「No! No japanese.」を言われるのは。教師は忍耐強く同じように光梨をたしなめてくる。教師はこういう時怒りはしない。むしろにこやかに光梨の答えを待っている。だが光梨は、今こうして冷や汗をかいている間に、教室中に笑い萌芽しているように思えて仕方がなかった。
「What do you image from this words?」
「ええと。I... I image あーんー。...terrible storm...」
「Terrible. It is right. And any more?」
さすがに、ええと、だの、あーんー、だのといった「日本語」までは何も言われないらしい。そんなことを思いながら、光梨は単語を思い浮かべていく。
「Catastrophy,」
光梨の言葉に教室中から笑いがかさりと起こる。自分は何かとてつもない無様な恥を晒したのではないか。もう背中は冷たい汗が張り付き、目の前が暗澹としてきた。
「Oh, catastrophe. Fantastic.」
「Break, heart...」
光梨は、身体の末端が冷えていくのを感じていた。潰れていく思考の中。また何か余計なことを言ってしまったのかと、なんとはなしに認めるのだった。
「Aha. Lear's heart was broken. Right. And yours?」
「Yes...」
「Good, good work. No worries. Sit down.」
再び教室中が笑いに包まれる。今度は先程と違って、余程確かな明るい笑いだった。光梨は、顔をひきつらせて笑いながら、着座した。いったい自分は何をやっているのだろうか。一体何を自分はやりたいのだろうか。濡れた制服が背中にへばりつき、席がひどく冷たく感じる。