闇夜に乗じる暗殺者
その日は、月の出ない夜だった。
混じりけのない闇に溶け込むように、木々の間を影が過ぎる。
鳥よりも早く、敏捷に。
全身を黒に染め上げた男は、草木まで眠ったかの如く静まり返った闇夜を駆けた。
目指す先は、もう目と鼻の先。
貴族の子女が学院の厳重な警備を信じて安息の眠りを貪る、学生寮。
その最上階、最も堅固な守りが敷かれている筈の、女王候補の部屋。
そこに『彼』の標的である娘――エルジェベット・アマテラス・バートレーが眠っている。
……はず、だった。
しかし窓枠やバルコニーを伝って壁の駆けあがる途中で、『彼』は計算外の事態に見舞われる。
「……っ!?」
ここは学生寮。当然ながら窓やバルコニーは、施設を利用する生徒らにとって身近な環境だ。昼間は部屋を使用している生徒達が窓にもバルコニーにも頻繁に触れる。
だからこそ、危険なモノなんて何もないはずだったのだが。
まるで狙い定めたように、最上階へと至る最適ルートを塞ぐように。
なんかやったらと硬くて強くて鋭い極細糸が張り巡らされていた。
ご丁寧に、糸は金属製の繊維をより合わせて作られたモノで、しかも細かく砕かれたガラスが塗布されていた。おまけに光を反射することを阻止するためか、黒い塗料で染められている。どう考えても明らかに、妨害目的。子供の悪戯レベルの代物ではない。
これまた厭らしいことに意識の死角を狙ったとしか思えない配置で設置されており、『彼』も自身の手足に傷を作って初めて存在に気付いたほどだ。
『彼』は、玄人だった。
杜撰な素人や新人とは訳が違う。今までに何件もの『仕事』をこなしてきた、信頼できる腕利きだ。
そんな『彼』の隙をつく、設置罠……それもまた自分と同等の技量を持つ玄人の仕事に他ならない。
同業者の気配を察知し、『彼』の緊張が否応なく高まる。
何を意図して設置された罠なのか……決まっている。
糸が張り巡らされているのは、最上階への経路を塞いでいるのだ。
だとすれば、この罠を設置したのは……『目標』が雇った何者かの仕業に他ならない。
それを証明するように。
目標が眠っている筈の、部屋の窓が音もなく開いた。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
張り巡らされた金属糸に連動していた、鳴子が鳴いた。
拙者はそれで待ちかねた『客』の来訪に気付いたでござるよ!
しかし、こんな使い古した典型的な通報装置に引っかかるものでござるなぁ。
訓練以外で実際に使う機会はあまりござらんが、単純であるが故に効果も抜群、ということでござるな。
やっぱり効果があるから伝承されるんでござるなー。
さてさて、迎撃でござる!
昭殿のお話によれば、相手は『暗殺者』でござったか。
この不思議な世界の『暗殺者』……どのようなお点前か、楽しみでござる! にんにん!
当家の家業と似た感じの職業人との遭遇でござる。どのような技をお持ちか、学ばせていただくつもりで拙者は迎撃に向かったでござるよ!
第三多目的室でお休み中の昭殿に代わり、温めていた布団を脱して。
拙者は窓から昭殿へと差し向けられた刺客へと先手を取って行動開始したでござる。
あるとわかり切っていた襲撃に備え、ちゃんと準備も整えたでござるよ!
鏃にたっぷりと小夜殿特製のよくわからない薬物を塗布した弓矢をくらえでござるー!
窓の脇に半分身を潜めながら、弓矢を放つ。
おお! よけられたでござる!
さすがの身のこなしでござるな!
壁のぼりの最中、半ば空中にいるような状態で器用なものでござる。
拙者の父上もあのくらい軽くこなしますがな!
でも大丈夫でござる。
矢はたっぷりたんと準備してるでござるよ!
矢継ぎ早という言葉に違わぬ速度で弓矢が雨あられーでござるー。
ついでにここ数カ月、せっせとこさえたお手製マキビシも雨あられーでござーるー。
「く……っ」
あ、矢が弾かれたでござる。
あの腕、服の下に何か仕込んでござるな。
どこの曲者も同じこと考えるんでござるなぁ。
でもマキビシは小さいから弾くのが大変だったのか、びしびし命中してるっぽいでござる。
ああ、でも投げつけた訳じゃなく、ばらまいただけなので刺さりはしてないでござるなぁ。
しかし速いでござる。こっちが弓で行動阻害しているのに、みるみる上ってくるでござる。
距離はますます近づいて、悠長に射かけるのも難しくなってきたでござる。
この距離なら、普通にナイフでも投げつけた方が、まだマシでござるな。
こちらも小夜殿特製のよくわからない液体を塗布した小刀を、拙者は思いっきり投げつけたでござる。え、ええと、こういう時は……そう! こう! こう言うんでござったな!
「安心するでござるよ、峰打ちでござるから!」
拙者は投げつけた小刀の後を追うように窓から飛び出し、刺客に出合い頭の一発をくれてやったでござる。
取り下りる勢いと重力を乗せて、すれ違いざまに手に握ったハリセンで。
刺客の脳天にすばばばーん! でござる!
壁の継ぎ目に足をかけ、急停止で振り返る。
そこにはハリセンの一打をもらった額に手をやって、驚愕の色を目に浮かべた刺客がひとり。
唖然とした刺客の声が、拙者へと。
「お、王子殿下……?」
……ん?
王子って、なんのことでござるかー……?
何故か刺客は、拙者の顔を凝視していて。
そんでもって、王子なんて呼びかけてきたでござる。失敬な。
拙者はおーじなどではなく、さくま(仮名)でござる!
「ば、馬鹿な……失踪した殿下が、何故ここに。いや、それよりも……な、何故、殿下のその身のこなしは一体!?」
拙者が怪訝な顔をしていることに、気付いているのかいないのか。
刺客殿はなおも拙者が王子だと思っているようでござる。
何故、拙者のことを王子だと……?
……ん? んん?
あ、そういえばこの体、拙者のじゃなかったでござるな。
ふと天啓を得たように、はっと気づいたでござる。
気づけば、一瞬。
拙者は思い至った事実に思わず動きを止めたでござる。
「って、王子って拙者のことだったのでござるか!?」
「他に誰がいると!?」
えっ拙者、王子?
驚き桃の木山椒の木でござる。
でも言われてみれば、遠く記憶の彼方でうっすら忘れていたでござるが、そういえばこの世界で目覚めた時はなんかやたら豪華な内装の豪邸にいたような……あれお城だったのでござるか! いま言われて思い至ったでござる! これ不覚ってやつでござるな! 不覚! でござる!
驚きすぎてポカーンってなってしまうでござるよ。
そ、そういえば……拙者が調略した貴族男子の方々も、何故か拙者の顔を見てポカーンとなっていたような。
驚きすぎて言葉を失うのは序の口でござったな……サンバ殿など、拙者の顔を見るなり跪いて「何か考えがおありなのですね……良いでしょう、この私の未来、殿下の計画に託します」とかなんとか言ってたような。
あの時は意味がさっぱりだったので、な、流してしまったでござる。
しかしそうでござったかー。
拙者が『王子』、でござったかー。
………………拙者、忍者なのでござるが。
王子なんて、心の底から性分じゃないでござる!
王子なんて、やろうにもやれないでござるよー!!