元仮面の男:乞い願わくは幸せに
久しぶりの職場。机の上に積まれた書類から逃げるように、胸ポケットからハンカチに包まれたとあるものを取り出す。
手のひらの上で、つぁり、と小さな音を立てたそれは、あの日、研究所に着く直前に少年から預かった、銀のピアスだ。
あの後、彼はすぐに世話役に引き渡され、下っ端だった俺が関われない場所に連れていかれてしまった。
唯一彼の様子を確認する術は、彼についての実験報告書を読むことのみ。実験の度に投与される薬が強いものになっていくのを見ながら、それでも彼が生きていることに少しだけ救われていた。
俺の任務は、あの研究所が行っていた研究内容と目的の全てを把握することと、研究所を取り仕切る人間を洗い出すことの二つ。
一研究員では決して知らされない情報を得るために必死に上の役職にあがり、ようやくまともに情報が入ってくるようになったのは、彼と話をした三年後だった。上司は早いほうだと言っていたが、俺にはその年月がもどかしくて堪らなかった。
そこから更に二年。やっとのことで俺は任務を終え、それと同時に、黒騎士隊の制圧班によって研究員及び関係者が一斉に取り押さえられた。
幸運なことに、あの少年はまだ生きていた。そのとき保護された彼は、取り押さえ直前に投与された薬の影響で昏睡状態だったが、命に別状はないと聞いて、安堵に崩れ落ちたのを今もよく覚えている。
だが、なんとも忌々しいことに、彼が目を覚ます前に新たな任務が入ってしまい、帰ってこれたのはつい先日。今日やっと職場に復帰したが、彼はもう退院していて、結局未だにピアスは返せずに終わっている。
七年。あの日から、すでに七年も経ってしまった。俺はもう三十を過ぎ、彼は確か十六歳になっているはずだ。
無事なんだろうか。どこかに引き取られて、幸せに暮らせているのだろうか。実験体だった人々の居場所は極秘事項になっているらしく、今彼がどこにいるのかさえ俺には分からない。
だが、彼はこのピアスを大事なものだと言っていた。それに、これは彼があの短い時間で俺を信頼して、預けてくれたものなのだ。何とか返したいのだが、どうにもならないまま、月日だけが過ぎていく。
はぁ、と大きく溜め息をついて、ピアスをつまみ上げる。透き通った橙の石は太陽のようで、彼の瞳とは正反対だ。彼の瞳は、夜のように、全てを包み込むような静けさに満ちていた、はずだ。
頭の中の彼の姿が、七年という時間ですっかり褪せてしまったことに気付く。
あぁ、会って、一言でもいい、謝りたい。彼が苦しんでいることを知りながら何も出来なかった俺には、謝る資格もないのかもしれないが、それでも。
いや、これ以上考えるのは止めておこう。許すも許さないも彼の決めること。俺が勝手に想像で決めつけていいことじゃない。
ピアスをまた丁寧に包んで、胸ポケットに戻す。時計を見れば、時刻は11時手前。新しい任務に向けて、11時からバディとの顔合わせがあるのだ。丁度いい、今から集合場所に行けば間に合うだろう。
頭を切り替えるために、よし、と小さな声を吐き出して、立ち上がる。
しかし、職場復帰早々新しい任務だなんて、本当にここは人使いが荒い。書類はいつ片付けようか、片付ける暇は貰えるんだろうか、なんて遠い目をしながら、零れそうになった溜め息を噛み殺した。
――彼の行方を調べるのは、もっと先になりそうだ。
記憶の中の人間に許しを乞うても、返ってくるのは都合の良い微笑みだけ。