仮面の男:別れ
騎士団は、正義の組織である。騎士団は、正義の下に悪を裁き、人々に安心を与える正義の象徴である。
しかし、だ。騎士団が唱え、民衆が望むお綺麗な正義は、この世界を守るにはあまりに脆い。正義だけではどうにも出来ないことが、この世界には数え切れないほど存在しているのだ。だから、騎士団の中には、そんな暗部を担う組織があった。
俺が所属するその組織に、名前はない。辛うじてあるのは、関係者たちが皮肉って付けた黒騎士隊という俗称のみ。それは、一般人にその存在を知られてはならないからであって、それだけ酷いことをしているという証明でもある。
黒騎士隊の使命は、どんな手を使ってでも、世界を守ること。つまり、騎士団に、正義に解決出来ないことを、ときに金で、ときに血で解決することだ。
黒騎士隊は、正義の組織ではない。黒騎士隊は、悪だろうと幼い子どもだろうと利用する、冷酷な組織である。
がたごとと揺れる魔動車の中、俺は喉までこみ上げた溜め息を押し殺す。今までも何度か人身売買の現場を見たことはあったが、まさか、自分が買う側に所属することになるとは。
俺の隣には、俺より一回りも二回りも小さな少年が座っている。俺の潜入先である研究所が、経営の苦しくなった孤児院から買い取った子どもで、実験体に使う予定らしい。
俺はその子どもが行き道で逃げ出さないように監視する役を命じられ、こんな夜中に子どもを迎えに来たというわけだが、なんというか、想像していた以上にキツい。
脳裏を過ぎるのは、別れ際の、孤児院の院長だろう老婦人の悲痛に歪んだ表情と、それを宥める幼い少年の微笑。
これは仕事なのだと、仕方がないと自分に言い聞かせても、罪悪感を訴える心臓の、そのずきずきとした痛みは誤魔化されてくれない。
今までだって、組織の特殊性から犯罪行為を見て見ぬ振りをしたことは何度もあった。それでも、それらはあくまで他人の起こした、他人事で。同情や良心の呵責はあれど、膜を隔てた別世界の出来事のようにさえ感じていた。
だが、今回は違う。俺の手の中に収まる、小さ小さな少年の手が、その温もりをもって俺の罪を突きつけてくるのだ。
――俺が正義側の人間であれば、彼を、救えたのだろうか。
ふと、そんな疑問が浮かんで、それを振り払うために目を瞑る。そんなことを考えたところで、俺は正義にはなれないし、現状は変わらない。
今の俺に出来ることは、何も無いのだ。そんなことを痛感して、溜め息を吐きそうになったそのとき。突然、手が引かれた。
「ね、お兄さん」
「うおっ」
目を開けると、すぐ目の前に少年の顔があって、思わず体が跳ねる。かなり油断していたせいで、間抜けな声まで出てしまった。
少年は、俺を驚かせるつもりは一切なかったらしく、少し不思議そうに、それでいて可笑しそうに笑う。俺は、それに更に驚いてしまった。
彼にとって研究所の人間は、孤児院と彼を引き離し、彼に酷い仕打ちをするだろう敵のはずなのだ。にもかかわらず、彼の仕草には、敵意も怯えも感じられない。それどころか、友好的でさえある。
「ふは、驚き過ぎじゃないです?」
そんな言葉で我に返った俺は、なるべく平静を装って返事を返す。どうやら彼は院長から何も聞いていなかったらしく、俺に話しかけたのはそれを聞くためだったらしい。
彼が冷静だったのは、その無知のおかげで、事の重大さを感じられていないから、なのだろうか。だとしたら、俺は果たして、彼に行く末を教えていいのだろうか。
少し躊躇って、しかし、先延ばしにしてもいずれは知ってしまうことだ、早めに覚悟させた方がいいだろうと思い直す。
「お前が行くのは、研究所だ」
「へぇ、研究所」
少し意外そうな顔をした彼の心中が分からず、彼が俺の返答を噛み砕き、納得したように頷くのを観察する。
ふと視線をあげた彼と目が合った。すると、彼は困ったようにはにかんで、とんでもないことを口にした。
「あぁいや、僕はてっきり、どこかの貴族に売られて奴隷にでもなるのかと思ってまして」
くつくつと湧き上がる混乱を抑えながら、仮面があって良かったと安堵する。この発言を聞いたときの俺は、きっと相当酷い顔をしていただろう。
――彼は、自分がそんなところに売られると思っていたのに、あんなに冷静でいたのか。
――彼は、自分の行く先が地獄のような場所だと知っていて、どうしてこんなにも穏やかに笑っているんだ。
――彼は、なぜ、泣かない。なぜ、憤らない。
自分の感情を押し殺しているのか、それとも自分の運命だと全てを受け入れてしまったのか。こんな非道な仕打ちを受けてもなお、周りを気遣い、自分を顧みないその姿が痛ましくて、やるせなくて。
彼の手を握っていない方の手を、思わず強く握り締める。この怒りは、誰に対してのものなんだろう。研究所か、黒騎士隊か、不条理を与えるこの世界か、それとも無力な俺自身に対して、か。
何も言えない俺に、戸惑うように視線を彷徨わせた少年は、また恐る恐る口を開く。
「あの、ちなみに何の研究をしてるんです?」
「……それは言えないな」
「あ、えと、そうですよね、すみません、変な質問して」
――ああ、俺は阿呆か!?
申し訳なさそうに俯いてしまった少年に、慌ててフォローを入れる。心の中で渦巻く激情を抑えきれず、口調が冷たくなってしまっただけで、彼自身に怒りなど微塵もないのだ。
「……俺は、何も出来ないし、何も言えない……すまないな……」
そう言えば、少年はきょとりと目を瞬かせた後、いいんですよそんなこと、なんて言って緩く破顔する。そこには、どこか慈愛にも似た色が宿っていて、俺は悟る。
――この少年は、強すぎるのだと。
自らが地獄に行くことを嘆くよりも、孤児院を救えたことを喜び、それ以上を望まず、何も恨まずにいられる慈悲深さ。自分がそうならざるを得なかった理由を理解し、受け入れる頭の良さと精神力。
それらは、あまりに尊く、そしてまだ幼い少年が持つにはあまりに残酷なものだった。
俺は、このまま彼を逃がしてしまいたい衝動を押さえ込む。そんなことをすれば、彼の決意は無駄になってしまうから。それに、研究所には彼以外にも、実験体にされている無実の人々がいるのだ。
俺に出来るのは、早くこの任務を終わらせ、研究所を潰せる状況にすることだけ。俺は少年に気付かれないよう深呼吸をし、この先の任務に全力を尽くすことを改めて誓った。
優しい不審者の盛大な勘違い。