エルル:はじめてのおしごと。
僕には、幼い頃の記憶はない。だって、そこまで細かい設定をされていないから。だが、朧気に、長い期間をこの孤児院で過ごしたという"感覚"はある。
だから、売られるのがシャル姉だと分かった瞬間から、頭の中で焦燥感が暴れ回っていた。どうやら、僕にとって孤児院の子どもたちは、相当に大切な存在であるらしかった。
――それこそ、身代わりになってもいいくらいには。
今の僕を駆り立てているのは、思うに、この僕というキャラクターとしての感情であり、僕として当たり前のことを、当たり前のようになさねばならないという使命感だ。
つまりは、ここで僕がシャルロッテの代わりに売られるという展開を、世界が望んでいるということ。
堂々と部屋の中に入ると、驚きと罪悪感に満ちた視線が、僕に突き刺さる。僕は、出来るだけの健気さをこめて、彼女達を見る。
「僕が行く」
院長や職員たちがひゅうと息を呑んだのが分かった。まさか、年端もいかぬ少女からそんな言葉を聞こうとは、思ってもいなかったんだろう。
僕は構わず、必死に言い募る。
「シャル姉は、だめ。シャル姉は、みんなのお姉ちゃんだから、連れてっちゃだめだよ」
心臓が早鐘を打つのを他人事のように感じる。もつれる舌がもどかしい。だが、ここで否と言われるわけにはいかないのだ。
「おねがい、僕が、代わりになるから」
「自分が何を言っているか、分かってるの?」
「うん」
「……酷い目に、遭うかもしれないのよ?」
院長は、咎めるような、嘆くような、そんな顔をして僕を見つめる。別に、売られた先がまともな場所じゃないことなんて、百も承知だ。
だが、そんなことどうだっていいのである。
だって、これは僕の使命であって、それを遂行するためなら、行き先がどんな場所かなど瑣末なこと。頼むから邪魔をしてくれるなと、縋るように院長を見つめる。
「……本当に、いいのね?」
僕は、こくりと深く頷く。
「僕、シャル姉には、ちゃんと夢を叶えてほしいから」
「そう……」
院長はそれ以上何も言わなかった。ただ静かに僕を抱きしめて、体を震わせるだけ。
零れる嗚咽の悲痛さに、僕は何だか居た堪れない気持ちになる。
この孤児院の経営状況は、いわば物語の強制力が働いた結果であって、彼女に罪はないのだし、僕は売られること自体をそこまで深刻に考えていないのだ。
売られた先ではそれなりに手酷く扱われるだろうが、そこから誰かに助け出されるまでがテンプレート。
終わりの見えた地獄を耐えるのは、終わるかも分からない絶望を這うよりよっぽど容易い。
だから、あまり自分を責めないでほしいのだが。僕の中では院長も守るべき存在の一つらしく、彼女の嘆きを感じる度に心臓が痛んで仕方がないのだ。
「大丈夫だよ、院長先生。僕なら、大丈夫だから……ねぇ、泣かないで」
思考は十分冷静なのに、体に引きずられて目頭が熱くなる。不味い、ここで僕が泣くとやっぱり怖いんじゃないかなんて無駄な心配をかけることになりかねない。
院長を何とかしてくれ、と今の今まで見事に気配が消えていた職員たちに目で訴えかけると、悔しげな顔をしていた彼らのうちの一人が、はっと我に返って僕から院長をやんわり離す。
「院長、そろそろ他の子どもたちが帰ってきてしまいますよ」
「……そう、ね」
「んふふ、院長先生、目ぇ真っ赤だよ?」
いつものように無邪気に笑ってみせれば、ようやく涙を拭った院長。やっと一段落ついたようだが、まだ気を抜くのは早い。
もしこの真実を知れば、シャル姉は絶対に自分を責めるだろう。
世に知れれば、世間はここぞとばかりにこの孤児院と院長を責め立てるだろう。もしかしたら、孤児院が潰されて、皆が離れ離れになってしまうかもしれない。
そうなっては、僕が売られた意味がなくなってしまう。
「このことは秘密、誰にも言っちゃ駄目だからね」
親切な人に引き取られた、でもいいし、失踪でも、いっそ死んだことにしてくれたって構わない。絶対に僕の行き先を悟られないようにしてもらわねば。
少し強めに念を押せば、彼らもその危うさを承知しているようで、しっかりと頷いてくれた。この様子なら、大丈夫だろう。
後は、子どもたちに気取られないように振る舞うだけ。一見簡単に思えるかもしれないが、子どもというのは往々にして、大人よりも敏感に物事を感じ取っているものだ。
細かいことまでは分からなくても、院長や職員の様子から良くない雰囲気を感じて、不安に思ってしまうだろう。もちろんそれは、僕の望むところではない。
――だから、絶対に、彼らに悟らせるな。
「いつも通りに、だよ!」
――ああ、ほんと、なんて面倒なんだろう。
普通に見える奴が一番オカシイなんて、よくあることだよ。