第一話
肌にまとわりつくじめじめとした真夏の熱気に目を覚ました。
どうやらノートパソコンの前で突っ伏したまま寝落ちしていたらしい、体を動かそうとすると節々が痛む。
画面には、八割型書き上がったレポートが映っていた。
この分だと仕上げるのに1時間もかからないだろう、と見当をつけながらパタンと画面を閉じる。
机上の置き時計は午後2時を指していた。
午前4時頃までの記憶はおぼろげにあるから、この不安定な体勢で8時間も寝ていたようだ。
今日は講義がないからといって気を抜きすぎたな、なんて思いつつ、俺はあくびをしながら立ち上がり、洗面所に向かった。
蛇口をひねり、椀状にした手の上にたっぷりと冷たい水をためて火照った顔にたたきつけると、残っていた眠気が取り去られる。
びしょ濡れのまま顔を上げると、目の前の鏡にはいつも通りの冴えない俺、真坂アキの顔が映っていた。
ブサイクではないが、ではイケメンかと問われると決してそうではない、なんというか全体的に覇気がない、というのが数少ない友人たちからのもっぱらの評価であった。
ぱっとしないその容姿のせいか恋愛遍歴の方もぱっとせず、大学生となった今も彼女いない歴=年齢の悲しみを背負ったその顔には、近頃悲壮感も漂ってきたように思う。
ぐうぅ。
そんな思索を巡らせていたら、腹の虫が鳴った。
思い返せば、昨晩からなにも食べていないのだ。
適当にシャツの裾で顔をぬぐってから、Tシャツに膝下までのスウェットという寝起きの格好のまま玄関でサンダルをつっかけ、俺は近所のコンビニへと向かうことにした。
アパートから少し歩くと、入学当時の自炊しようという決意も薄れてきて、すっかり行きつけとなってしまったコンビニが見えてきた。
それにしても暑い。
夏真っ盛りの日差しがこれでもかと降り注いできて、額をとめどなく汗が流れ落ちる。
この炎天下をまた歩いて戻らなくてはならないと思うと気が滅入ってきた。
とにかく食い物を買ってさっさと帰ろう。
自動ドアの前にたどり着くと、聞き飽きた入店音とともに扉が開き、涼しい風が俺を迎えてくれた。
火照った頬が冷えていくのを感じつつ、惣菜が並べられた奥の棚の方に向かっていく。
さて何を買おうかな、なんて思いながら所持金を確認しようといつも財布を入れている左の腰の方に手をやって……、
財布がない……?
二度三度とポケットを上から叩くが、ロリっ子のお胸よろしくそこにふくらみはない。
……いや膨らみかけのがまた乙なのだとかそういう話はおいておいて、どうやら本当に寝起きそのままの状態でここまでのこのこ歩いて来てしまったようだ、財布はおろかスマホも持ってきていなかった。
この灼熱地獄で一往復追加か……。
心の中で舌打ちをしつつ、Uターンして足を自動ドアの方に向ける。
と、何気なくポケットに突っ込んだ指の先に、何か硬いものがあたる感覚がした。
一縷の希望をたくしてそれをひっつかみ、おもむろにポケットから引っ張りだすと、手のひらを広げたそこには、銀色に鈍く輝く100円硬貨がのっかっていた。
若い店員のありぁとやっしたぁ、というなんとも気の抜ける挨拶を背中に受けながら、俺はコンビニを出て近くの公園を目指す。
手に提げたビニール袋には、あまりの暑さに我慢ならず、他の腹の足しになりそうなものを差し置いて購入してしまった夏定番のアイツが入っている。
目当ての公園には1分とかからず到着した。
日陰のベンチに腰掛け、ビニール袋の中身を取り出す。
夏らしい清涼感あふれる青いパッケージの表面には、商品名と明らかに矛盾した体型をしていることでお馴染みのキャラクターが描かれ、その下には「アタリが出たらもう一本!」というなんとも射幸心を煽ってくる文言が、フキダシの中に強調されて踊っている。
おつりは募金箱にぶち込んできたし、部屋まで財布を取りに行くのも面倒くさいし、ここであたりが出てくれればそれだけで納涼ついでにお腹も満たしてくれるかもしれない。
なんてありもしない、都合のよい妄想をしながらパッケージを開け、さっそく角からかぶりついた。
歯に冷たさが染みて、口の中で爽やかな甘さが解ける。
飲み下すと、喉をつたって爽快感が全身に広がっていく。
……腹はまったく膨れない。
なんだかなあと思いつつも、降り注ぐ蝉時雨を浴びながら、ゆっくりと食べすすめていった。
※ ※ ※
素朴な木の棒が丸裸になったのを認め、俺は膝に手をついてベンチから立ち上がった。
そしてここでようやく、なんとなく努めて見ないようにしていたその手の中の棒をゆっくりと裏返して見てみる。
そこには、焦げ茶色の「アタリ」の三文字が刻印されていた。
「はああぁ………?」
沸き起こった感情は、感嘆でも驚愕でも歓喜でもなく。
4本目のそれを見て、俺は思わずため息をついていた。
最初のうちは良かった、1本目が当たり、連続で2本目が当たったあたりまではなんとも思わず、ただこの幸運な事態に喜び勇んで小躍りしながらコンビニまで向かっていた。
さすがに3本目を目の前にすると、何とはわからないが何かを疑わずにはいられない。
企業の策略か何かかと思ったがしかし、コンビニや販売元がそんな利益が出ないようなことをわざとやっているとも思えない。
実際、3本目を交換してもらいに行った時、店員は詐欺師でも見るかのような目つきでこちらを見ていた。
では、いったい何があったというのだろうか。
「うーん…………。ま、いっか。」
こういうことは深く考えず受け入れてしまおう。
超常現象もUFOも都市伝説も、目の前で起きてしまったのだったら、それはもう信じるしかない、それが俺の信条だ。
おおかた製造元のミスだろう、そうでなければやや度が過ぎてはいるが、今日の俺はとてつもなく運が良かったのだ、ということにして片付けることに決めた。
……ただ、さすがにもう交換してもらおうとは思えないので、4本目のアタリ棒は公園の蛇口で軽く洗ってからスウェットのポケットにしまった。
公園から自宅までは、広がる田んぼを右手に、人気のない道を歩いていくことになる。
相も変わらず強い日差しが降り注ぐなか、汗をダラダラ流しながら歩を進める。
時折吹き抜ける風が肌に心地よい。
もう通い慣れてしまった道には特に注意を向ける物もなく、自然と思考は先刻のことに向いていく。
アイスでアタリを引くのはこれが初めてだったというのに、とんだ初体験になったものだ。
―――この後もなにかあるんじゃないか、なんて。
呟いてみた次の瞬間、目の前に見たこともない複雑な幾何学模様が浮かび上がってきて、眩い光に包まれた。
なにがなにやらわからず立ち竦んでいると、次第に目が開けられないほど眩しくなってきて、たまらず目を閉じて顔の前に腕をかざした。
※ ※ ※
突然、周囲の空気が一変した気がする。
先程までのジメッとした暑さはなく、春頃のポカポカとした陽気で、どちらかというと空気も乾燥しているような気がした。
構えていた腕をおろし、恐る恐る目を開けてみる。
先程まで目を強くつぶっていたせいか、なかなかピントが合わない。
だんだん焦点があってきて、どうやら目の前に人がいるらしいことを認めた。
しばらくして、ようやくはっきりと見えたそこには、およそ身長には不釣り合いな、大きな木の杖を胸の前に両手でぎゅっと握りしめた女の子が立っていた。
「あ、あのう………」
怖々といった感じで、女の子が口を開いた。
「あのう………。『ヒーラー』の方、でしょうか……?」
「……は?」
開口一番まったく訳のわからないことを言ってきた。
新手の出会い系だろうか。
「いえ、ヒーラー?では、ないと思いますけど」
と俺が言った途端、彼女は杖によりかかるようにしてぺたんと座り込んでしまった。
「はああぁ………やっぱり失敗していましたか……」
失敗……?
いったいなんのことだ?
頭の上に疑問符を3個くらい浮かべていると、彼女が今一度俺の方を見て、慌てて立ち上がり、服の裾を直しながら言った。
「あのっ! すみませんでした! 説明がまだでしたね!」
ぴょこんとお辞儀をして、顔を上げて照れ笑いを浮かべる。
そして、頬を染めて視線をふらふらとさせ、なんだかもじもじとしだした。
「あの……実は私、召喚術師でして、召喚術の練習中だったんです。それで『ヒーラー』を呼ぼうとしたんですけどね。どうやら失敗したらしく、ヒーラーではないあなたが召喚されてしまった……というわけなんです」
そして泳いでいた目線を俺の方に向け、バッと頭を下げた。
「なんというか、本当に申し訳ありませんでした!!」
腰を90度に折り曲げた完璧なお辞儀。
しかし本当に何を言っているんだろうか。
なんとなくだが、話によるとどうやら俺は「ヒーラー」とやらと間違って召喚されてしまったらしい。
いやそもそも召喚術とかなんとか意味のわからない部分もあるが。
とりあえず一番気になったことを聞いてみることにした。
「さっき失敗したって言ってましたよね? どうして、ヒーラーとやらの代わりに俺が召喚されたんですか?」
お辞儀をしたままで、未だ目線の下にある彼女の後頭部に向かって声をかけた。
途端、目に見えてビクッと上半身が動いた。
そろそろと顔を上げた彼女は、明らかに俺から目を逸らしながらポツポツと口を開いた。
「あの……ですね……。召喚するときに、私はちゃんと『ヒーラー』って言ったつもりだったんですけど。もしかしたら……………もしかしたらですよ!
……………『ラ』を噛んで『リァ』みたいな発音になっちゃってたかもしれないなー………なんて………」
ヒーラーの『ラ』を噛んで『リァ』?
ヒーリァ……ヒーリア……。
……………非リア?
ここに来て思わぬ方法で再確認させられた現実。
自分の中に沸き起こった感情が何かはわからないが、乾いた笑いが口から漏れだした。