流れ星ヨリ疾ク (3)
日曜日が来た。来てしまった。決戦は金曜日だっけ。ヒナの決戦は日曜日だ。
待ち合わせまではまだちょっと時間がある。だから、ヒナは鏡の前で最終調整の真っ最中だ。ハルの彼女として恥ずかしくないコーディネートにしないと。ハルにも、ヒナは可愛い、って思ってもらう。頑張ってるんだよ。
ハルからは、動きやすい格好の方が良いって言われてた。山でも登るの?って冗談で訊いたら、うーんって。ええ、ホントに登山?初デート登山?ヒナ、山ガールっぽい?
あんまりいっぱい汗かきそうなのは困るかなぁ。もう夏だし。日焼けも気にしないと。ハルは日焼けしにくいから、そういうの考えないのかな。日焼け止めと制汗スプレー必須。べちゃべちゃで汗臭い彼女なんて、ヒナだってノーサンキュー。
ハルと私服で会うこと自体は別に珍しくない。ただ、デート、なんだからちょっとした特別感は出したい。いつもと同じヒナ、でも何か違う雰囲気がある。あれ、今日のヒナ可愛い気がする。みたいな。きゃー。
って言っても、ハルが知らない服なんて持ってないよ。そりゃそうだよ。普段から結構顔合わせるからね。まあ、大体シュウだのカイだのがいるんだけどさ。そういう時は無難なファミリーお出かけスタイルにしてる。この前なんてパーカーにジャージだったわ。あれこそ山歩きスタイルだよね。実際雑木林に突っ込んだし。
雑木林。誰もいない深い森の中とか。ハルと二人で?ふふ、それはそれで楽しそうだな。ハル、リスが見てるよ、二人のこと。なんて、あはは、ナイナイ。
そんなに遠出でもないって言ってたし、なんだろう。お散歩かな。ハルと一緒ならきっとなんでも楽しい。そこはあんまり心配してない。ハルはちゃんとヒナをエスコートしてくれる。
じゃー、さくっと決めちゃおう。ネイビーブルーのガウチョで。これ、この前みんなとボーリングした時に履いてたやつ。あれから一回も着てないし、歩くんならジーパンとかよりもこういう方が楽。それに、ふわっとしてて女の子っぽい。可愛い。
後は半袖、クルーネックのカットソー。ボーダーかな。夏の普段着って感じだけど、ガウチョと合わせるとなかなかオシャレだ。ぶりっ子してない、綺麗なお姉さん系。外歩きにも対応。素晴らしい。汗対策だけが問題です。
足元はまあ、スニーカーだろうね。ミュールやサンダルじゃあ、動きやすいとは言えない。んー、ゴムサンダルは動きやすいけど、それはデートの方向性とはちょっと違うかな。服装にも合わせて、ここはやっぱりスニーカー。ボーイッシュかつガーリィ。あんまり可愛いを前面に出し過ぎず、清潔感とさりげない女の子らしさを演出。おお、やるじゃんヒナ。
ふふふ、ハル、可愛いヒナに驚くぞ。
そう思って、ふと胸元に視線を落とす。し、下着どうしようか。えーと、そういうこと、無いとは言い切れないし。彼女だし、コイビト、だし?デート、なんだよね。いや、今までだって気を使ってなかった訳じゃないんだよ?ただ、今日は特別だから。うーんと、ヒナ、一体誰に言い訳してるの?
白のシルク。よし、勝負行きます。こういうのは、見えなくても気合の問題。ヒナが持ってる中で一番高い。肌触りも最高。なんか、着けると力が湧いてくるんだよね。彼女パワー、マックス!
ショルダーバッグは大き過ぎない、目立たないものをチョイス。中身は制汗スプレーに日焼け止め、タオルハンカチ、虫除け。ははは、ここだけ小学生男子みたい。いっそのことシュウみたいに水筒持ってみるか。小さめのマグボトルは持って行くけど。
完成、ヒナデートバージョン外歩き仕様。見えないところまでしっかりハルの彼女。ヒナ、頑張った。
出がけに、玄関のところでシュウがぽかん、とヒナのことを見ていた。ふふん、姉の美しい姿に目を奪われたか。「お母さん、ヒナがヘンだよ」ヘンじゃねーよ。って、どっかヘン?ちょっと、この土壇場で気になる物言い付けないでよ。
なんか猛烈に不機嫌なまま待ち合わせ場所に向かう。シュウ、覚えてろチクショウ。あんたが将来デートする時、出掛ける寸前になって姉ちゃん意味も無く鼻で笑ってやるんだから。
よく晴れてる。いい天気。デート日和、で良いんだよね。暑そー、汗大丈夫かなー、って感想しか出てこないんだけどさ。髪がぐしょぐしょになるのが一番困るんだよね。ヒナ、癖っ毛だから。帽子もあった方が良かったかなぁ。
待ち合わせは、いつも学校に行く時に一緒になるコンビニ。高校生活、ハルとの時間はいつもここから始まる。今日も、ここでハルに会える。そう考えると、とってもお世話になってる。最近ペットボトルのお茶しか買ってないから、せめてあと二年ちょいもってもらうためにも、そのうち高い買い物してあげなきゃだな。
「ハル、おはよう」
ハルは先に来てた。最近はヒナより早いんだよね。ヒナが早起きしてハルより前に来ると、次の日は必ずそれより先に来てるの。ハル、実は負けず嫌い?
「おはよう、ヒナ」
ハルはいつも通りな感じ。カーキのカーゴパンツに、Tシャツ。デートだからってキメキメで来られても困るか。うん、ハルはそれで良いよ。ヒナはその方が落ち着く。
「今日はなんか、ちょっと違うな」
お、良いですよ、ハル。もっと食いついてください。ヒナ、頑張ったんですよ。にっこりと笑ってみせる。ハル、大好き。
「綺麗なお姉さん、って感じだ」
そういうイメージですからね。へへへ、ハルにそう言ってもらえると嬉しい。良かった。ハル、喜んでくれてる?シュウ、帰ったら泣かす。
「ありがとう」
スタートダッシュはうまく行ったかな。さて、後はデートプラン次第。どうするのかな。駅?バス停?この辺りだと知り合いに出くわす確率がかなり高くて、ヒナとしてはちょっとご遠慮願いたい。何しろ、今日二人がデートするってことは、クラス中に知れ渡っちゃってるからね。はいはい、ヒナが悪いんですよ。
「ここから少し歩くよ」
解りました、彼氏様。まずはお散歩。いつもより人目が気になるけど、ハルと二人で並んで歩くのは楽しい。こうやって一緒にいるってだけで、ヒナは幸せ。ハル、ヒナは、ハルのことが好き。
「物理の補習って、どのくらいあるの?」
「あー、一週間だって。最終日にテスト。で、その点が悪かったら追加で補習」
「えー、じゃあいつまで経っても終わらないかもしれないじゃん」
「先生だって面倒臭い、とか言ってたけど、面倒なら最初からやるなよなー」
くっそ、すだれハゲめ。
こうやって学校のこととか、毎日の取り留めも無いことをハルと話すのが、ヒナは大好き。ハルと同じ時間、同じ世界を生きてるって感じがする。
ヒナは、ハルに隠してることがある。話してないことがある。ハルの知らないヒナ、ハルの知らない世界。ヒナは、そんな世界が好きじゃない。ハルと同じ場所に立って、同じものを見て、同じように感じたい。不思議なこととか、神様の力とか、全然興味が無い。必要ない。
そういった力に助けられることは確かにある。便利に使う自分がいる。それは、自分勝手でわがままだとも思う。
でも、ハルとこうやって話してると、ハルと一緒にいると、やっぱりこっちの方が良いって、そう考えちゃう。ヒナはハルがいればそれで十分。ヒナはただ、ハルで満たしてほしい。世界なんて、それでいい。
ヒナの左掌には、銀の鍵が埋め込まれている。勝手に入ってきた、って方が正しい。外からは判らない。レントゲンにだって映らない。ただ、確実にそこにある。
神様の住む世界に通じる道しるべ。銀の鍵に憑いている神官、ナシュトはそう言った。ナシュト自身も、強い力を持つ神様だ。ただ、ヒナのせいで今はヒナの中に不完全な形で取り込まれてしまっている。
だって、ヒナにはこんな力、全然必要無い。
人の心を覗き見る、人の心を操る。その気になれば、自在に人の記憶、思考、感情を思いのままに出来る。それに限らず、世界に存在するありとあらゆる魔術の原理となり得て、ぶっちゃけ出来ないことなんてほとんどない。
なんだそのチートアイテム。意味判んない。
ナシュトは本来、この銀の鍵を持ち主が、力を正しく使えるように導く指導者的な役割の神様なんだそうだ。ははあ、それはご苦労様。まあ、ほとんどの場合はダメだろうね。こんな万能アイテムもらっておいて、悪いことに使わない方がどうかしている。
で、ヒナの場合は、どうかしているの部類だった。だっていらないし。実際気持ち悪い。使ってもロクなことにならない。
銀の鍵もナシュトも、結局宙ぶらりんのままヒナと共にある。捨てることも出来ない。迷惑はなはだしい限り。
このことは誰にも言えない。ハルにも言っていない。ナシュトの姿はヒナの他には誰にも見えないし、話したところで信じてもらえる自信がない。頭の可哀想なヒナちゃん、って思われるのがオチだ。
銀の鍵の力は、ヒナにとってはタブー。出来る限り使わない。中学時代にはそのせいで酷い目に遭った。使い方によっては便利?やってみてから言ってくれ。ホントに、代わってもらえるなら是非。
そんなもの無くったって、ほら、ヒナは今ハルと一緒に歩いて、とても幸せ。神様ってつまんなそう。好きな人のために一生懸命になることや、好きになってもらって嬉しいって思うこともなさそうだもん。ヒナはそんなのいらない。ハルのためにおめかしして、ハルとデートして、楽しいひと時を過ごす方が、断然興味がある。
結構歩いたかな、と思ったところで、ハルがようやく足を止めた。やっぱり日差しがきつい。帽子あった方が良かったな。白いの、確か箪笥の奥にしまったはず。
さて、ハルは今日、ヒナのためにどんなプランを用意してくれたのかな。いつもだったら、ゲーセン?カラオケ?ボーリング?二人でカラオケはまあ、出来ないことは無いけど二人で個室ってちょっとドキドキ。ファミレスでおしゃべりとかでも全然オッケー。あ、ある程度の予算までは全然いけますよ。なんかお母さんがノリノリで五千円くれたし。
うん、これは予想していなかった。ハルと出掛ける時って、ガヤガヤしてるイメージがあったからかな。遊ぶ、って言うともっとこう、ガッツリ身体とか動かすのかと思ってた。ホント、山登りくらいの覚悟はしてたんだけどさ。
ハルがヒナを連れてきたのは、自然公園だった。大きな緑が風に揺れて、ざざ、ざざ、って手招きしてる。車の音とか、街の喧騒がほとんど聞こえてこない。蝉の声、微かに、水の流れる音。森のざわめき。こんなところ、近所にあったんだ。
「みんな、あんまりここのこと知らないんだよな」
ハル、ちょっと楽しそう。そうだね、人の気配自体がほとんどない。静かで、忘れ去られた自然って感じ。ヒナ、よくわからないけどすごく昔のこと、小さな子供の頃のことを思い出しそう。不思議。
ここは、ハルの秘密の場所なんだって。ハルだって、一人で色々と考えごととかしたい時もある。そんな時、ハルはこの自然公園に来てゆっくりと一周する。心の中にあるイライラやもやもやが、それだけですっきりする。ハルにとって、この自然公園はリフレッシュの場所なんだ。
照れくさそうに、ハルは話してくれた。鳥の声、蝉時雨。土と緑の匂い。木陰の涼しさ。落ち葉を踏みしめる、優しい感触。
ハル、ありがとう。
ヒナ、すごく嬉しい。ちょっとどうしよう、っていうくらい嬉しい。
ハルは、ヒナにその大事な場所を教えてくれた。連れてきてくれた。ヒナを、ハルの中に導いてくれた。
ハル、大好き。ヒナは、ハルのことが好き。
ごめんね。ヒナにはハルに言えないことがあるのに、ハルはヒナに全部見せてくれる。全部開いてくれる。ごめんね、ハル。ごめんね。
遊歩道を歩きながら、ハルの手をそっと握る。ハルと手をつなぐの、すごく久し振り。ハルはちょっとびっくりしたみたいだけど、すぐに握り返してくれた。ハル、ヒナは幸せ。ハルにこんなに想われて、とても幸せ。
ハルの手のぬくもり。ハルとつながっている。ヒナは、今ハルと一つになってる。ヒナの居場所。ヒナの全部。ヒナは、ハルとこうしていられて、今本当に、本当に幸せ。
緑の中で、木漏れ日に照らされて、二人で並んで歩く。
ハル、これからもずっと、こうやって歩いて行こう。ヒナ、今日のこのデートのこと、忘れない。大好きなハルのこと、ヒナはずっとずっと好きでいる。いつまでも、ずっと。
木漏れ日の遊歩道を、ヒナと手をつないで歩く。照れてそっぽを向くヒナが可愛い。手を握ってきたのはヒナの方なのに。ヒナの手、柔らかくて、小さい。ハルが昔、ずっと離さないと誓った手。
ヒナは喜んでくれたみたいだ。良かった。考えることなんて何も無かった。ハルのことをヒナに見せてあげるだけで良かったんだ。ありのままのハル。ヒナのことを、とても大切に思っているハル。
この道をヒナと歩く日が、とうとう来たという感じだ。自然公園のことは、ヒナにも話したことは無かった。ハルの憩いの場所。がちゃがちゃして騒がしい世界から離れて、自分のことを考える時にやってくる。
ハルは何も考えていないって、良く言われる。まあ実際、考えるのは苦手だ。考えたって仕方ないことが、世の中多すぎる。
だからと言って、ハルがいつも何も考えていない、ということは無い。ハルだって、静かに考えたい時がある。例えば、幼馴染の彼女をデートで何処に連れて行けば良いのか、とか。
ヒナがらみの時は、考えない方が良い。結局その通りだ。ヒナが喜んでくれているのは判る。ハルも、どきどきしている。
今日のヒナは、会った時から少し違っていた。また違うヒナ。でも、ハルの良く知っているヒナ。どう言えばいいんだろう。ヒナは、ちょっとずつ女の子になってる。
ハルにとってのヒナは、最初は保護対象だった気がする。なにしろ危なっかしい。今でもそうだ。多分、ヒナはハルに何か隠し事をしている。それも結構長い期間。大きな問題になってないから、まだ爆発していない感じか。
雨の日にヒナを背負ってからは、ただの保護対象ではなくなった。ヒナは、大切な人になった。一緒に人生を歩く人になった。うまく説明するのが難しいのだが、ハルはヒナから全てを預けられた気がしていた。それは、生涯をかけて大切にしなければならない。簡単に汚したり、傷つけたりして良いものではない。
高校の入学式で、ハルはヒナを見て胸がときめいた。その時に判った。順番が逆だったんだ。恋をして、その子のことを大切に想って、守ろうとする。そうじゃなくて、大切に想ってきたヒナに、後になって恋をした。なんだか可笑しかった。
ヒナは、やっぱり女の子になっている。友達で幼馴染のヒナ。それが、今はハルの彼女。恋人。
五月にヒナに告白した。お互いの気持ちなんて、言わなくても良く判ってた。とっくに知っていた。それはそうだろう。でも、改めてヒナのことを好きだと口にして、ヒナから好きだと言われて、ハルはとても嬉しかった。安心した。ちゃんとつながっている。ヒナは、ハルのところから離れていない。
女の子のヒナは、幼馴染のヒナとは何かが違うと、ハルは不安だったのだろう。今思い返せばそれが理解出来る。当時は、ただもやもやしていて全然判らなかった。相変わらずふらふらと何処かに行ってしまいそうなヒナを、引っ張って留めておきたいと、そう考えているだけだと思っていた。
認めよう。ハルは、ヒナに恋している。
高校に入って、綺麗に、可愛くなったヒナに、ハルは恋をした。今までだってとても好きで、大切にしてきたヒナを、ハルは一人の女の子としても好きになった。今までは女の子じゃなかったのか、とかヒナにツッコまれそうだが、そうじゃなくて、ヒナはずっと、ハルの宝物だったんだ。
こうして今ヒナと手をつないでいる。昔のハルなら、この手を離さないように、ヒナを何処かに行かせないように、ってそれだけを考えていた。
今のハルは、それを思うのと同時に、すごくどきどきしている。ヒナを、女の子として、とても強く意識している。
ヒナ、好きだよ。ハルは、ヒナのことが好きだ。
ヒナがハルの手を握ってくれて嬉しい。ヒナの気持ちを感じる。ヒナは、ハルのことを好きなんだ。好きでいてくれているんだ。それが伝わるのが、とても心地良い。
ざざ、ざざ、と梢が揺れる。誰もいない小道。蝉の声がやかましい。変わった声の鳥が茂みから飛び立つ。ヒナがハルの方を向く。頬が赤い。暑いだけじゃない。
優しく微笑む。「ハルすきー」そんな言葉が頭の中をよぎる。ヒナは、あの頃から可愛いままだ。ハルの宝物。大切な、とっても大切なヒナ。
「ありがとう、ハル」
とんでもない。お礼を言わなければいけないのは、ハルの方だ。何処かに行ってしまいそうなヒナを、勝手に引き留めていただけだったのかもしれない。ハルがただ、ヒナのことを一方的に保護しようとしていただけなのかもしれない。
ヒナが、ハルに全てを預けたと、そう感じた時から。ハルは、それをずっと大切にしてきた。それだけだ。
遊歩道を抜けると、湧水の池がある。夏でも水が冷たい。空気もひんやりして気持ち良い。カルガモのつがいが、のんびりと浮かんでいる。
「カモさんだ」
ヒナが池に近付こうとする。
「落ちるなよ」
「落ちないよ」
落ちたじゃん、ここじゃないし、随分前だけど。覚えてないって言ってるのは、頻繁に落ちてるからどの記憶なのか判らなくなってるだけじゃないのか?ヒナは鈍臭いという自覚が無さ過ぎる。
「落ちたら助けてくれるでしょ?」
いや、その前に落ちるなよ。この年で池に落ちるとか、恥ずかしいってレベルじゃないぞ。
「ハルは心配性だなぁ」
ヒナの場合、心配し過ぎるくらいで丁度良い。放っておくと何をしでかすか解ったものじゃない。ハルはいつでも、ヒナのことを探している。ヒナが傷つく前に、泣いてしまう前に、ヒナの所に駆け付けたい。
実際には、あと一歩のところで間に合わない。だから、ヒナが走り始める前に、捕まえておくことが肝要だ。
ヒナの手を、思わず強く握ってしまう。ヒナはつないだ手を見下ろして、それからハルの顔をを見た。はにかんだ笑顔。可愛いよ、ヒナ。
「もう。大丈夫だよ、何処にも行かないから」
本当に、そうであってくれれば良いと思う。でも、ヒナはいつもハルの手からすり抜けて、一人で泣いている。ハルは、ヒナを守りたい。泣かせたくない。
ヒナが、ハルに身体を寄せた。ヒナの匂いがする。握ったハルの手を、腕を、そっと抱き締める。柔らかい感触。ヒナの身体は、ふんわりとして、ハルの腕を包み込むみたいで。ハルは、心臓が激しく暴れ出すのを感じた。
「大丈夫、私は、ハルの所に帰るよ」
ヒナは女の子だ。良く判った。思い知った。ハルが大切にしてきたヒナは、もうすっかり女の子。ハルの彼女で、ハルの恋人。可愛くて、綺麗で。柔らかくて、良い匂いがして。とっても、どきどきする。
ヒナの身体を、抱き締めたいと思う。肩を抱いて、こちらに引き寄せたいと思う。大切なヒナにそんなことをしてしまっていいのか、という思いもある。でも、ハルはヒナのことがとても愛しい。ヒナを、自分の腕の中に閉じ込めてしまいたい。
「ヒナ」
呼びかける。何も言わずにそんなことは出来ない。大切なヒナ。ちゃんとヒナの意思は確認したい。ハルは、ヒナのことを汚してしまうかもしれない。疵を付けてしまうかもしれない。ヒナ、いいのかな。ハルは、ヒナに爪痕を付けてもいいのかな。
ヒナは、ハルのことを見ていない。
おかしい。ハルは改めてヒナの様子を見た。ハルの腕をぎゅっと抱き締めている。胸の感触が、正直理性をマヒさせる寸前なほどに気持ち良い。でも、ヒナは明らかに違うことに注意を向けている。何かを見ている。
「ヒナ?」
もう一度、ハルは普通の声で呼びかけた。それで気が付いたのか、ヒナははっとした表情でハルの方を向いた。
ああ、この顔は。
「ご、ごめん、何でもない」
腕も手も放して、ヒナはパッと後ずさった。へへへ、と笑顔を浮かべる。ちゃんと誤魔化せているつもりでいるのだろうか。
ヒナは鈍臭い。もうちょっと自覚した方が良い。