仮面夫婦・糀谷薫編2
会社の飲み会帰りだった。
久々にこんなに飲んだな。なんて思いながら駅前でタクシーを捕まえる為ふらふらと新谷と歩いていた。まぁ、こんなに飲んだな。なんて自分て思える位なのだからまだ泥酔とは言えないか。
酒を飲んでいる時だけは、少し気が楽になった。
タバコを吸えば、坂下朱美が浮かんできて苦しくなった。
新谷はヒールを履いているからか、かなり歩くのが遅い。
「あ、あの糀谷さんすみませんもう少しゆっくり……」
「あ、ごめん……」
そうか、男と女って歩幅が違うもんなぁ。なんて少し立ち止まって考えてみる。
立ち止まった前は運よくラブホ。休憩何分なんて書かれた看板をぼんやりと見る。ヘーイ、良い所にあるじゃん、ラブホ。なんて思いながら。
新谷は俺がラブホの看板をぼんやりと見ていた事に気づいたらしい。
坂下朱美は新谷の事をよく「ゆるふわクソアマ」と言っていたが、新谷も流石に「わぁ♡綺麗な建物♡」なんていう程脳みそゆるふわでは無いらしく、俺を見て少し目をぐらぐらとさせた。
「糀谷さん」
「何ですか」
「私は、糀谷さんと朱美が付き合ってた事知ってました……」
新谷は少し俯きながらそう言った。
足は未だ止めたまま。はたから見れば別れ話をしているようにしか見えないだろう。それでももうかなりの時間だし、人も少ないし良いけど。
「朱美が、こっそり私にだけ教えてくれたんです」
「……ああ、そ……」
ぱっと顔を上げて俺を見る新谷はぼろぼろと涙を零していた。
「ごめんなさい、ごめんなさい糀谷さん」
何に謝っているのか、分からない。
酔いが回っているからか、それともそうではないのか。
「私、糀谷さんに朱美の事を忘れてほしくないんです」
「だって、糀谷さんが朱美の事を忘れたら、朱美は本当に死んじゃう……」
新谷は、そう言った。
俺は新谷の言葉をかみしめた後、少し笑った。
そうだよな、そう思うよな。俺だってそう思うよ。
いつも見てる昼ドラで、主人公が新恋人にゆるやかにシフトチェンジしていくのを見て「あいつの事忘れてやんなよ」なんて画面越しに、俺だってそう思ってた。
もし俺が、小説の主人公だとして。朱美を忘れて、それこそ新しく恋人でも作ってたら大炎上ものだよ。
死んだ恋人をずっと一途に思い続けるのが正義か?
遺された人間は、記憶だけを頼りに生きていくのか?
「ごめんなさい、私、糀谷さんの事苦しめてますよね……」
「でも、でも、いつまでも朱美の事を想ってて欲しいって思うのは罪なのかな……」
罪だよ。
「糀谷さん、あなたが忘れない限り、朱美は糀谷さんの心の中に生きてる……」
こうやって世界はゆるやかに俺を追い詰めていく。
坂下朱美が死んで、しばらく経った。
もう思い出せない事の方が多い。
だって、もう何年も会ってないんだ。記憶が更新されてないんだ。
心の中に生きている、なんて綺麗ごと。
死んでる。もう坂下朱美は死んでるよ。
薄れていく記憶の中で、故人への愛を貫けなんてお前は鬼か。
それともこれが俺への罰なのか。
さとる、だっけ。
あいつみたいに長い間、坂下朱美と過ごした時間があればまだ慰めになるかもしれないけれど。
俺と坂下朱美が二人で過ごした時間は一年にも満たない。
この長い人生で、その一時の事を俺は一生覚えていれるのか?
絶対に記憶が零れ落ちていかない脳みそをくれ。
そうしたら、坂下朱美との楽しかった思い出を胸に生きていくから。
他の人なんて一生見ない。心の中に生きている坂下朱美と共に生きるから。
「ごめんなさい、ごめんなさい糀谷さん」
新谷はそう言って、またぼろぼろと涙を零した。
朱美、愛してる。
今でも、ずっとずっと。
お前は死んだけど、俺は生きている。
さようなら、も言わずに突然俺を置いて逝くなよ。
俺は結局あの日から誰とも付き合わずに、一人で生きていた。
坂下朱美への想いを胸に、一人で生きてきた。
坂下朱美が死んでしばらく経った。
今ではその、支えであるはずの坂下朱美への想いも、坂下朱美との思い出も時間という魔物がゆるやかに奪っていく。
一日、一時間、一分、もはや一秒でも良い。
朱美に会いたい。
このポンコツな脳みそに君の存在を叩きこみたい。
会いたい。
でも、もう二度と会えない。