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しばらく経って、ようやく揺するのを止めた。涙が頬を伝って地面に落ちる。嗚咽はだいぶ治っていたが、涙は止まることなく流れ続けている。
ふと頭に水滴が落ちてきた。それは次々落ちてきて、次第に音を立てながら降ってきた。雨だ。このまま、ここにいたら風邪を引いてしまう。
「……警察に、連絡しなくちゃ」
親友である彼女をここに置いていけない。ポケットからネルヴォイ専用のケースを取り出そうとした時、強い衝撃に襲われた。咄嗟の出来事に身構えることが出来ず、地面に倒れる。
身体中が痛い。猛スピードで突っ込んできた車に撥ねられたのかと思ったくらいだ。痛みを堪えて立ち上がり、顔を上げると目の前には知らない男の人が立っていた。
誰、と問い掛ける間もなく、男は一気に詰め寄ってくると紡の首に手を掛けた。到底、人とは思えない力で締め上げてくる。首元を襲う圧迫感と息苦しさが意識を朦朧とさせ、体が上手く動かせない。
涙で霞んだ瞳で男を見た。獣のように赤い瞳。いやらしく笑いながら、苦しむ紡を恍惚とした表情で見ている。
(本当にこの人は人間なの? 人間はこんな赤い瞳をしていない、こんな笑い方をしない。恍惚とした表情で人を殺したりなんか)
ーー殺す。その言葉と今の状況が恐怖心を駆り立てる。助けを呼ぼうと口を動かせば、口から笛のような呼吸音が漏れ出た。もう指一本動かすことは出来ない。死にたくないと思う一方で、最早ここまでかと諦めかけた時、紡の体は地面に落ちた。
首元を支配していた圧迫感と息苦しさが無くなる。喘ぐように酸素を取り込もうと大きく吸い込むと、激しく咽せた。
何が起こったのか分からず、霞んだ視界を巡らせていると、一人の姿が映った。その人の足元には、先程まで紡の首を絞めて殺そうとしていた男が倒れている。男は微動だにしない。不思議に思っていたが、体の下から赤い血が流れ出ているのを見て納得した。
視線を再び黒い闇夜に溶けてしまいそうな礼服を身に纏った人に移す。その背中に、白い蝶が描かれている。それはまるで、闇の中に映える一匹の白蝶のようだ。
と、その人はこちらを振り返った。綺麗な顔をした男の子だ。歳はおそらく、紡と同じくらいだろう。彼は静かに歩み寄ってきた。
黒い髪の間から覗くのは二つの蒼い双眼。凛とした冷たい光を宿し、誰も近寄らせることも許さないオーラを纏って歩くその姿は死神を思わせた。
「大丈夫か。お前、自分で立てるか? いや、そもそも体を起こすことは出来るか?」
彼の言葉に紡は声には出さず、静かにかぶりを振る。彼はじっとしてろ、と呟き軽々と紡を肩に担ぐと路地の出口に向かって歩き始めた。
「ま……って……」
蚊のような消え入りそうな声では彼の歩みは止められない。だからといって呼び止めないわけにもいかない。ぐずぐずしてもいられないのだ。智子が、親友が置き去りになってしまう。
「ま、待って! 智子は? 智子はどうするの。ここに置いていくの?!」
掠れた声であろうが、紡は叫んだ。彼はやっと歩みを止めた。担がれたままの上体を起こして、彼の肩に手を乗せる。そうして体勢を維持したまま、紡は彼を鋭く睨みつけた。
一方の彼は、瞳にも表情にも特に変化をつけることはない。無言で紡を見つめた後、こう言った。
「自分の身よりも、死んだ人間の身の方が心配なのか、お前」
冷たく突き放すような言葉に何も出なかった。声すらもだ。ただ感じたのは、腹の奥底から沸き立つ苛立ちの感情だけ。
反論を言いかけた紡は、急激に意識が遠のいていくのを感じた。気力でどうこう出来るものではないのを悟る。
せめて、この憎たらしいほどに整った顔立ちの男の子に、何か一言でも言ってやりたいと思いつつ、意識を失ってしまった。




