#09
ケラケラとベット上で足をバタつかせている彼女は傍から見れば歳相応に見える。家の中でしか掛けないというメガネは彼女の内面にある幼さを後押しするのか、それとも小学校の時の姿を思い出させるのか、いつもの針の先のような雰囲気とは違い、随分と幼い印象を僕に与えた。
僕は彼女の笑い声を無視して、開いた漫画で視界を覆う。先ほどの食事風景はあまりにも酷いものだった。
天野の両親は僕が思う以上に、優しく、善人じみていて、他人に感情移入し、純粋だった。僕が女性であるという妄言も心から信じているようだったし、娘の「那智ちゃんは生まれつき言葉が喋れない。しかも、実はさるマフィアのボスの娘で、父が暗殺され、一人で組織を仕切ってきたが、その途中で日本人の母が生きていることを知って、全てを捨てて日本にやってきたのだ。負傷もそのためである」という設定を心の底から信じ、大変だったねと涙を浮かべていた。喋ることのできないという設定のため、僕は常に筆談……つまりスケッチブックにサインペンで文字を書いて受け答えをしていたのだけれど、やけに流暢な日本語と書き慣れた漢字が並んでいたはずなのに二人は違和感を覚えたりはしなかったようだった。逆に心配になる。
まあ、それはそれでいいものの、困ったのは天野……と言うとどの天野さんのことだということになるので、潤と呼ぶけれど、端から端まで困ったのは潤だ。彼女の設定は一気に考えぬかれたものではなくて、無茶ぶりに無茶ぶりが重ねられて、山のように連なった結果にある。最初は喋れないだけという話しのはずが、いつの間にかマフィアの娘になり、父が暗殺されたことになっていくという盛り付け方は、僕を非常に困惑させたし、ご両親への説明も僕へ投げっぱなしだったから、とにかく大変だった。スケッチブックに曖昧かつ疑わしい故郷の情景が浮かぶ中、ご両親の後ろで潤は顔を風船のように真っ赤に膨らませ、目に涙を貯め、腹を抱えて、爆笑を堪えていた。
「あー、面白かったわ。私、このスケッチブックの内容だけで一年は楽しめそう」
パラパラと潤はスケッチブックを捲っては吹き出すということをまだ繰り返しているようで、僕は苛立った。さぞ、エッフェル塔と中華街が合体したような町並みのスケッチがツボにハマったと見える。それか青龍刀を持った海賊風の構成員の絵の方か。
とにかく、さっさと化粧を落として、ふて寝したいところだ。
不意に二人共お風呂入っちゃいなさいという声が下から聞こえて、潤が間延びした声で返した。そうだ、お風呂だ。お風呂に入りたい。僕はお風呂に入ってから寝る教義の元に生きている人間だった。いや、お風呂?
「ほら、お風呂だって、那智。行こうよ、背中流してあげる」
「ふざけんな。……君のあとでいいよ」
「ふうん、つまんない奴。あ、私の部屋をいろいろ弄くろうとしても無駄だからね。私ね、自分の部屋の物は位置から角度まできっちり覚えてる人間だから」
「そ、そんなことするわけにゃいだろ」
「声が上ずってる」
僕に鋭いローキックをかますと、潤は棚からあっけらかんと下着や着替えを取り出した。あまりにも堂々としているせいで、逆に僕が恥ずかしくなったけれど、潤は「ただの布でしょ? 何が恥ずかしいわけ?」といった感じだった。
潤がいなくなった後、五分ほどして、僕は漫画を置き、立ち上がる。目的は彼女の部屋を漁ろうとか、彼女の弱みを探ろうといったことではなく、鏡にあった。
「か、可愛い……。可愛いな、僕」
白く丸い曲線の枠にはめ込まれた姿鏡は、一人の美少女を浮かび上がらせていた。それほどアクセントの強いゴシックロリータ服ではないからか、白と黒を基調にしたデザインはどこかメイド服のようだった。
目元をきっちりと描写し、淡い視線ながらもどこか人形のような芯の強さは僕には出せない表現の仕方だ。やはり潤は女性なだけあって、化粧が僕よりも格段に上手いし、僕よりもいろいろ知識があるし、感性としても優れている。
蝶の柄をあしらったタイツを撫でながら僕はいろいろポージングを取ってみる。うむ、可愛い。
ついでに自分のケイタイでいろいろ顔や仕草を撮影してみる。ううむ、可愛い。どこからどう見ても女の子で、美少女だ。素晴らしい。流石、僕だ。
調子に乗って、動画に手を出そうとしたところで、階段を駆け上がる音に気づき、僕は急いで絨毯に滑り込むと、素知らぬ顔で漫画を手にとった。
「いい湯だったわ。で、那智は何してたわけ?」
半乾きの髪の毛から湯気を上げて、潤は挑戦的に笑った。寝る時は白いスウェットを着るらしい。
「いやあ、何も」
「あ、そうなんだ。まあ、部屋にはデジカメ置いといたから、別にいいんだけどね」
そう言いながら、潤は勉強机らしいところに仕掛けられたデジカメを手に取った。撮影停止と口ずさむ。
え?
「え、位置は全て覚えてるんじゃ?」
「はあ? そんなことできる人間いるわけないでしょ? 那智、漫画の読みすぎ」
再生ボタンに手を掛けるようとしている潤にどうしていいか分からない。これまでの潤を見ている限り、軽蔑はされないだろうけど、馬鹿にされるのは確実で、彼女へ頭がより上がらなくなってしまうのは僕としても不味い。何よりも恐れるべきは彼女の発言力を強めてしまうことだ。これ以上、逆らえなくなったら、僕は僕としてのアイデンティティを失うことになってしまうのではないか。既にないかもしれないけれど。
潤のことだ。僕を痛めつけるのに、単純に馬鹿にするという行動は取らないだろう。妙に戸惑ったような顔で「那智……」とだけ言って、そのことには触れないのだろう。僕を可哀想な奴扱いしつつ優しく接する作戦を取るに違いない。ああ、想像して頭が痛い。汗が出てくる。辛い辛い。胃のあたりがギリギリ痛む。
「あ、あのさ、僕さ、そういえば着替えないんだ。だからその、お風呂入っても……」
「ああ、そっか。そういえばそうだね。そのまま寝ろっていいたいところだけど、うーん。じゃあ、コンビニに買いに行こうか。確か下着売ってたよね?」
潤はカメラを一旦置いて、そう笑った。ほっとした束の間、僕はぎょっとする。
彼女はこのまま行こうと言っているのだ。この格好のまま、僕の地元のコンビニに。天野潤の笑みの向こう側にはそんな悪意が見え隠れしている。いや、見え隠れどころか丸見えだ。
「いや、でも」
「那智。那智は聞き分けがいい子だよね? 私のものでしょ?」
膝を折った上で震える僕の両手を上から掴んで、にこやかに潤は笑った。那智ならできるよねと僕の顔を覗きこんで、笑う。
今日、僕の行なった先輩との決別は、別の意味を含んでいたのではないかと遅まきながら気づく。僕は心の底から潤に誓ってしまったのではないかと。潤のものになるということを。潤の奴隷になるということを。心から。
「でも」
「大丈夫、那智。私が一緒だから。ずっと見ててあげるから」
それは、その言葉は、その態度はどんな救いにもならない。彼女はただ傍観しているだけに過ぎないのだから、何の頼りにもならない。僕が熱せられた鉄板の上で踊ることになっても、彼女は踊らないからだ。本当にただ見ているだけなのだのだから。
分かっている。傷つくのも、恐怖するのも僕一人なのだということを。それでも思ってしまう。彼女を喜ばすことが僕にできるのなら、彼女の笑みを見れるのならば、僕が道化であることも意味があるのではないか、などと……彼女が必要としてくれて、美しい彼女が、僕を美しく染め上げて、それを美しいと言ってくれるのならば、そんな無様な姿も意味があるのではないのか、などと思ってしまう。
それはフェチズムの極みで、満たされるのは心だけで、まるでそれは、それは恋のようで。