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蛆虫の唄  作者:
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#07

 天の岩戸。天の岩戸を思い出す。ヒス女のために世界中が道化を気取って、さあさあその戸を開けてくださいと祈ったあれだ。なら今、僕は女神を出すために踊り狂う道化なのだろう。ああ、女神様、どうか世界を、私めをお救いくださいますよう。

 どうすれば彼女が僕を助けてくれるのか、考える。何が足りていないのか考える。女神は何を以ってその戸を開いたのか。僕は血反吐を吐きながら、首を絞められながら、彼女に手を伸ばしながら、助けを求める。

「あ、あ、まの」

 届かない。手が、希望に届かない。光に。

「すごいよ、那智くん。素敵すぎる! どうして君はそんなに素敵なの? ほらほら、もっと見せてよ。早く逃げないと食べちゃうよ?」

 黒くて白い怪物が赤い唇をねじ曲げて、僕を笑った。手綱を引いて、僕の苦しみを音楽に、鼻歌を奏でる。

 段々、意識が、助かりたいという意思が、消えていく。天まで昇った希望が燃え尽きて、ひらひらと地面に落ちていく。腕が床をバウンドして、僕は僕のものでなくなったことを確信した。緩められた縄が、それを証明している。もう那智は抵抗する気力もないほど、絶望してしまったのだと。

「あはは。もう限界だと思うでしょ? もうどうこれ以上、辛いことはないって思うでしょ? でもね、もっと酷いことをしてあげる。具体的にはね、今から君を強姦するわ。君はそこでもっと強い絶望を知る。私を見る度に嗚咽して、私を見る度に嘔吐して、女性に触れられるだけで、しゃがんでしまうような長い長い苦しみを味わうの。もうね、それを想像するだけで、私はへその下のあたりが熱くて熱くて……」

 視界を真っ白に染め上げる連続したフラッシュの向こう側で、赤い唇がそんなことを言う。

 彼女にとって絶望し、恐怖している人間は、裸で道を歩いている美女に等しいのだろう。それを陵辱するというのだから、それは堪らないものなのだろう。

 僕はもう駄目なのだ。先輩に犯され、今後どんな女性と付き合ったとしても、先輩のことを思い出し、先輩にされたことを思い出し、震え、嘔吐し、涙する。そういう運命のレールに乗ってしまった。この日のことを一生忘れることなく、忘れられることなく、生きていくことを背負わされたのだ。

 ふざけるなクソ女。なんだよそれ。女の子ってのはもっと、こうさ、柔らかくて、優しくて、微笑ましいものじゃないのかよ。なんで僕の近くにはキチガイじみた奴しかいないのか。なんでこんな痛くて、怖くて、嫌な目に遭わなくちゃいけないんだ。狂ってる。おかしいだろ。僕が何をしたというんだ。天野も助けろよ。見てないで、僕を助けてくれよ。

「あまの、じゅん」

 やっと出た声は酷く酷く怯えていて、痛ましくかすれ、どこか祈りにも似た声だった。僕の祈り。純粋な祈り。

 手応えはあった。彼女に届いた感触はあった。けれども天野は落胆したような顔で、軽蔑したかのような顔で、扉の隙間を埋めた。僕を見ることをやめた。

 何故か。何故なのか。天野は何故、僕を軽蔑したのか。何故、僕を見捨てたのか。

 それは。

「せん、ぱい」

 急に意識が冷めた。怯えが消えた。恐怖が遠のいた。

 それを感じたのか、先輩は顔をしかめた。

「どうしたの。え、どうしてそんな顔するのよ。那智くん、もっと怯えてくれないと」

「僕は天野のものだから」

 饒舌に、噛み切るように、そこだけは強く強く、答えた。ハッキリと答えた。

 あなたには何も感じてあげないのだと。僕はあなたのものではないのだと、瞼を閉じる。先輩が僕を暴力に晒そうとも、陵辱しようとも、僕は天野のもので、天野にしかそういったものを見せてやらないのだ。

 先輩からは優しさを感じなかった。天野は僕を嘲笑し、痛めつけ、恐怖させたけれど、その根底にはいつも優しさがあった。いつも僕を見守り、僕が本当にできないことをしなかった。僕が本当に嫌がることはしなかった。僕の致命的になることはしなかった。それは優しさと愛のなせる技なのだと僕は悟りにも似た感想を思う。

 それを感じず、それを分からず、それを理解せず、天野にされた時のように感情を発露させた僕を天野が見限りたくなるのも当然ではないか。誰でもいいのだろうと、誰であっても那智という人間は良いのだろうと思ってしまうのもしょうがない。それは愛ではなく、肉欲に等しい。それはアガペーではなく、エロースに等しい。

 皮肉なことに僕は先輩の独善的で、自己満足でしかないただの暴力によって、天野の優しさと愛を知った。彼女の素晴らしさをやっと理解した。ああ、認めよう。僕は愚かで無知蒙昧なブタなのだ。ブタはブタらしく、ブタの中で感情を完結させ、吊るされ、捌かれるのをじっと待とう。先輩がいくら僕の肉体を貪ろうとも、僕は僕であり続け、僕の魂まではくれてやらない。

「センパイ」

 暗闇の中、小さな息遣いが聞こえる。僕のかすれ切った呼吸とも、先輩の呼吸とも違う。

「センパイ。那智くん、嫌がってるみたいなので、もういいですか? 資料も見つからないみたいだし、パソコンの貸出しもいろいろ面倒な手続き多いし、那智くんも具合悪いみたいなんで、今日はもう帰りますね」

「…………つまらないわ。とてもつまらない。こんなの最低よ。那智くんなら、私をもっと凄いところに連れてってくれるって思ったのに、それなのに……」

「そうですか。ほら、那智。行くよ。早くしないと置いてくよ」

 そう言いながら、天野は僕を置いて行かない。少し歩幅を狭めて、僕が追いつけるようにしている。それが嬉しくて、僕はふらつきながら、半裸ながら、血を零しながら立った。生まれたての子鹿のように僕は一歩一歩、前へと進む。

「那智、服装くらいちゃんとしなよ。胸元全開って誰に対してのセックスアピール?」

「ごめ、ん」

 しびれて、おぼつかない手を天野は鼻で笑った。しょうがないとため息をついて、彼女は僕のワイシャツのボタンをひとつずつ閉じていく。顔の傷を唾液で濡らしたハンカチで拭ってくれる。

 そんな僕らの後ろから先輩が叫んだ。叫んだという割には、音量が小さめだったけど、彼女のボリュームからすれば、それは叫びだった。

「那智くん、本当はね、私、部員なんていらなかったのよ。必要なかった。でもね、天野さんがね」

 扉は閉じられる。天野の手ではなくて、先輩の手でもなくて、僕の手によって、閉じられる。僕は真実を必要としていない。真実がどうであれ、彼女を疑う必要はないのだけれど、僕はそれでいいのだと思った。

「那智……」

「さあ、帰ろう」

「帰れるわけないじゃん。その顔じゃ、帰れないよ。帰ったら警察沙汰になっちゃうから」

 じゃあどうすればと言うまでもなく、彼女は続けた。

「だから、那智。今日はうちに泊まっていきなさい」

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