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蛆虫の唄  作者:
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#05

 教師が分けてくれた小さく薄い紙には理系科目と文系科目の文字と名前と、印鑑を押す項目があった。一応、両親と相談して決めろということなのだろう。僕は特に相談はしなかったし、これといってしたいことがあったわけではない。だから、とりあえず文系の文字の部分に丸をして、提出をした。

 文系を選んだ理由は、僕の中に眠る微かな抵抗心の現れだ。彼女と一緒に授業を受けるくらいなら、僕は文学の道を歩む。

 これで天野が何を言おうとも、帰ってきた母さんに「この秋の新色キレイですよね。ねえ、那智くんもそう思わない?」と意味ありげ顔でまた僕の神経をすり減らすようなことをしようとしても、出してしまえばこっちのもの。絹を噛みしめるような美しい文字の羅列に、心を委ね、精神を癒やすことに集中できる。

「那智の提出したアレ。間違ってたから、ちゃんと理系にしといたよ」

「えっ」

「あと先生になんで本人じゃなくてお前が取りに来るんだっていわれたからさ、付き合ってるって答えちゃった。ってことでよろしくね」

 すれ違いざまに天野は僕を呼び止め、そんなことをのたまう。はは、ナイスジョーク。

 冗談ではないことはすぐに分かった。教師に確認したところ、既に教科書を発注してしまったとのことだった。

 いやあ、早く間違えが分かって良かったなと朗らかに笑う教師と、僕の肩をキツく握って拒絶することを拒絶しながら笑う天野に挟まれた僕は一体どんな顔をしていただろうか。心はムンクの叫びか、ピカソの泣く女のそれであったと思うけれど、顔は多分、ダヴィンチのモナリザに近いだろう。

「……ふざけんな」

 またたく間に教師の間に広がっていく僕と天野が付き合っているという狂言に耐えながら、僕はしかめ面で授業を受けた。このままなら、すぐさま生徒にも噂は伝播していくことだろう。天野の邪悪な笑みを見ていれば、それが目的で、それが計算であることがよく分かる。僕を困らせたい一心なのだ。

 授業が終わり、学校が終わり、すぐに僕は帰ろうとした。嫌な予感がしたからだった。

「あの、那智くん居ますか?」

 教室を抜けていくクラスメイトに話しかける女子生徒が一人。その長身の彼女は横を通り過ぎる姫野さんに勝るとも劣らない美人だ。憂いを帯びた不安げな顔は儚くもある。綺麗にまとめられたハーフアップの髪は彼女が誠実で、由緒ある家柄の人間だということを物語っている。目だけが射抜くようなそれでなければ、彼女は誰からも愛されたことだろう。それを抜いたとしても、彼女は美しかった。

「ああ、那智くん!」

 戸惑い混じりのクラスメイトが指差す方向に目当ての獲物を見つけ、不安げな顔に光が広がる。はたから見れば、それは恋人を見つけた乙女のいじらしさかもしれなかったが、僕からすればクラスメイトに対してなんということをしてくれたんだという気を失いかける呪いだ。

 彼女はおおいと手を振る。僕は一瞬、僕の後ろにいる誰かに手を振っているのではないかと錯覚し、振り向くが、僕の背後の席は既に空だった。

「部活、いこっか」

 顔を戻すと既に、天野がそこにいた。僕の意思などお構いなしに手を握り、進んでいく。僕は鞄を忘れないように掴んで、すれ違うクラスメイトの好奇の視線に耐える他なかった。

「園芸部は穴場なんだよ。一人変わり者の先輩がいるくらいで、ほぼ全員が幽霊部員なんだって。笑えるよね」

「もう、手を離してくれ。自分で歩ける」

「あ、そう。まあいいか、もう見てる人もいないし」

 渡り廊下の辺りで僕らは繋いでいた手を解いた。繋いでいたというよりは、リードを引っ張る人間と、引きづられていく犬と言った方が正しいのかもしれない。

 天野は少し速度を緩めると、ほのかに感じさせた愛嬌を捨てて、疲れたと頬の筋肉をマッサージし始めた。普段使っていない部分を使ったのだろう。

「そういえばさ、那智。さっき面白い顔してたよね。私が那智の名前を呼んだ時、口をこうさ、ぽかーんって開けてて。あれは傑作だったなあ」

「やっぱり嫌がらせか。すごいな、全部見事にクリーンヒットしてるよ。ホント」

「でしょ?」

 誇らしげに笑う天野に僕はふつふつと煮えたぎる感情を堪えた。

「僕は天野にヒミツを握られてるから、こうして大人しくしてるけど、でもずっと我慢できるわけじゃないからな」

「え? 別に付き合ってるくらいの噂、気にすることないでしょ? 女の子の服着てる男の噂よりはねえ。それとも何、那智は私と付き合ってるって噂される方がそっちよりも辛いわけ?」

 フフンと鼻を鳴らして天野は僕を見下ろした。

 焦りとともに僕は誰か今の話しを聞いては居ないだろうかと周囲を確認してしまう。幸い誰もいなかった。

「ど、どっちも嫌に決まってる」

 そう零すようにいうと、彼女は笑いながら僕の頬を殴った。ぎりっと口の中で歯がこすれる音がした。

「那智、この前からさあ、ちょくちょく口答えしてるよね。那智は私のオモチャなんだよ。那智は私の奴隷なんだよ。那智は私のものなんだよ。分かってるよね? いくら私が優しいからって、そこ勘違いしちゃダメだよ? ねえ」

「い、いたい」

 尻もちをつく僕を彼女は見つめる。怖い目で見つめる。唇は笑っているのに、目の形は笑っているのに、眼の奥が全く、全然、これっぽっちも笑っていない。彼女から伸びる大きな影が僕を覆ってる。それが怖くて、僕は自然とすみませんと言ってしまう。ごめんなさいと言ってしまう。

「はい、三回復唱。僕は、天野潤さんのオモチャです。天野潤さんの奴隷です。天野潤さんのものです。さん、はい」

 僕は彼女に言われるがまま口と舌と声帯を動かした。

 確かに少し僕は調子に乗っていたかもしれない。彼女と僕は支配者と支配されるものの関係で、彼女のさじ加減で僕の人生は容易く破滅の道をたどるものだという意識を、もう少し僕は真面目に持つべきだったのだ。

 復唱が終わると、彼女はにんまり怪しげに笑って僕の頭を撫でた。やればできる子だと未熟な何かをあやすように僕を甘やかす。

「さあ、那智。一緒に園芸部に行こうか。もう届け出は出してあるから」

 彼女は有無を言わせない。逆らう素振りは許しても、逆らうことは許さない。逆らえば即暴力だ。

 ただ不思議な事に今のところ“脅し”をかけられたことは一度もない。それは彼女の虎の子ということなのだろうか。

 彼女の何が逆鱗で、何が許容される言葉なのか、まだ分からない。危機を避けるのなら、彼女の言葉にただ頷いていればいいだけだけれど、それは僕の精神と肉体を蝕む未来しかない。彼女を拒絶し、無視できれば早いが、ぞっとする話し、彼女とは最悪卒業するまで一緒のような気がする。

 彼女が僕に飽きてしまうのが先か、僕の心がダメになってしまうのが先か。卒業まで何が保つのだろうか。

 一定の距離を保ちながら、園芸部へ向かう彼女の背を見つめながら、僕は真っ暗な未来に少し泣いた。

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