#04
天野潤と知り合って、意外と長いことに僕は気づいた。今日を抜いて最後に話しをしたのは小学校の低学年前後の頃だったと思う。給食を食べるのが遅い彼女は、よく昼休みまでひとり席に座って、口に給食の残りを押し込んでいた。その頃の天野は今のような残虐極まりない性格ではなくて、とても大人しく、律儀に嫌いなものも残さず食べようとしている子だった。食べた挙句、吐き出したりしなければ、それはとても素晴らしい精神だったなと思う。僕以外の誰かに吐き出してたら、もっと強くそう思ったことだろう。
「ごめんね、那智くん。ごめんね」
世界の絶望が一度に何個もセットでやってきたかのようなボロボロの顔で天野は僕に頭を下げ続けた。顔は涙と興奮でグシャグシャで、鼻の下は乾ききってない鼻水に濡れている。天野に悪意がないことを知っていた僕は、いいから給食を食べろと言った。
戦後のひもじさを説く年配の女性は給食を残すようなことを絶対に許さず、それは天野が嘔吐しても変わることがなかった。
「だって、那智くん、私のせいで……私のせいで」
体は拭いたし、体操服には着替えたけれど、若干の胃液臭さはまだ抜けていないような気がした。真っ青になった天野が膨らんだ口を僕に向けた時を思い出して、少し肌がささくれ立つ。
「ああ、他の奴のこと? 別にいいよ、あんなの」
隣の席だった僕に見事、天野のゲロが降りかかったのを目撃したクラスの男子はゲロシャワー那智と僕をからかった。酷いネーミングセンスだ。
正直、天野に激怒したいところだったけれど、僕もクラスのみんなも実のところ天野の必死さを知っていたので、彼女自体をからかうようなことはしなかった。天野はドン臭いけれど、悪い奴ではないというみんながなんとなく持っている印象もそうさせた。けれども、やはり溜飲を下げるためには誰かを生贄にせざるをえなくて、教師の怒りの矛先を天野から逸らすには誰かを生贄にせざるをえなくて、それで被害者である僕をからかうことで場を収めようとしたのだ。僕としてはいい迷惑だ。
本当は昼休みになれば、クラスの男子とサッカーをしている頃だったけど、その日ばかりは理由が理由で、天野の相手でもして時間を潰すしかなかった。
「確かに天野は給食食べるの遅いけどさ、なんで持ち帰ったりしないんだ」
「え、だって食べなきゃダメだって先生が」
「いや、そうなんだけどクラスの女子とか見てみろよ。パンとか牛乳とか、食べきれないものは家に持ち帰ったりしてるし、男子でも食べれる人に分けたりしてる。先生だって、分けてるのをダメだっていったりするほどキョーリョーじゃない」
少し得意気に僕は覚えたての言葉を使ってみせる。
僕の博識さを前に鼻をすすって、天野は首を傾げた。
「キョーリョー?」
「心が狭くないってこと。天野もさ、食べれる奴に食べてもらえばいいんじゃないのか? 友達とかに相談してみろよ」
「私、友達いない」
肩身が狭そうに身を縮めて、天野は箸でグリーンピースをつついた。その頃の天野はメガネで、ひ弱で、鈍臭くて、学校を休むことも多かったし、人一倍物静かだったせいで、友達らしいものはいなかった。
酷いことを言ってしまったような気になった僕は、無理に明るく振る舞って天野に提案した。
「じゃあ、天野が食べられないものがあったら、代わりに食べてやるよ」
「ホントに?」
「ああ。天野も食べきれなさそうだったら、家に持ち帰るとかしてさ、昼休みは時間作れよな。それで、昼休みは他の女子に話しかけて、友達作れよ」
「……うん、うん。そうする。そうするね、天野くんありがとう。ありがとうね……ありがとう」
また顔をクシャクシャにして泣き出す天野に僕は苦笑しながら、早く食べろと言ったような気がする。
男子が女子と話すという気恥ずかしさもあって、それ以降は天野とは親しげに会話をするようなことはあまりなくなって、最後の方は年賀状のやり取りくらいになってしまったけれど、天野は持ち前の必死さで、僕の忠告どうり友達作りに励んでいたようだったし、自分の性格や態度を改めるくらいには内面的にも変化があったようだ。
それがどうしてこうなってしまったのか、僕にも分からない。そんな彼女がどうしてこうも攻撃的かつ凶悪になってしまったのか、本当に分からない。
恩を感じられることはあっても、こんな仕打ちをされる覚えはない。もしかしたら、彼女にとって僕という存在は忌むべき過去なのかもしれない。恥をかかせた憎き相手ということなのかもしれない。ということは、あの涙は復讐を誓った涙なのか。だから僕に恥をかかせようとするのか。
そう思うと、どこか納得できるような気がする。
「さあ、お母さんに見てもらいなよ」
「やめろ」
僕は顔を真っ赤にして、絞るような声で、居間のテレビの音に神経を削った。椅子に腰掛けてテレビを見ている母の姿が今にも想像できてしまう。
「那智、大丈夫。那智は今、とっても可愛いから」
そうじゃないと叫びたかった。そういう問題じゃない。可愛いとか可愛くないとかではなくて、僕が健全であると信じている母に、女装をする男なんてものをこれっぽっちも理解できない母に、そんなものを突きつければどうなるか。そんなのは想像するまでもないだろう。ああ、ないとも。ないともさ。
なのにどうしてお前はそれを分からないんだ。平気な顔をするんだ。
「大丈夫、記念すべき瞬間はカメラで撮影してあげるから」
だから、違うんだって。
首を大きく左右に振っても彼女は目的を変えない。さあさあと僕の手を掴んで、晒し者にしようとする。
嫌だ嫌だ。走馬灯が、これまでの母の優しくて、楽しい思い出が僕の脳裏を駆け巡る。側には父だっていて、僕を自慢の息子だといってくれて。公園で転んだ時、目を丸くして、駆けつけてくれた両親の姿が額の汗とともにフラッシュバックする。
大切なものが崩れてしまう。壊れてしまう。塵となって、芥となって、消えてしまう。僕は、僕の趣向で誰かを不幸にさせるつもりはないんだ。誰も幸福にはできないけれど、不幸にするつもりもない。
開けっ放しのリビングから漏れる光が頬をかすめ、全身から汗が吹き出た。目眩がするし、喉の奥はカラカラだ。手先がじんじん冷えて痛む。瞼の奥に涙が溜まっていく。
僕はもう、迷っている暇はなかった。人間を捨てて、獣のように僕は天野の腕に噛み付いた。思い切り噛み付いて、犬歯で引きちぎらんばかりに噛み付いて、爪を立てて、天野の魔の手から逃れようとした。彼女の腕が僕の噛み付きにビクンと一瞬震えて、止まる。続けてすぐに鉄の味が広がった。
先ほどの僕の指ほどではないにしろ、痛いはずだ。痛いはずなのだ。それなのに天野は力を緩めなかった。ペットがじゃれついてきているかのような笑みで僕に笑いかけた。
「ああ、凄い凄い! 那智ってそんな顔するんだ。ドロドロのぐしゃぐしゃのべちゃべちゃ! ふふふ、凄い! 凄いよ!」
手を叩いてはしゃぎだしそうな天野に僕は血の気を抜かれて呆然とした。勝ち目のようなものを感じない。僕と住んでいる領域がズレている。そんな感じがする。
彼女はずいっと僕に顔を寄せると、キラキラした目で言った。
「怖い?」
僕は頷く。
彼女が怖いのか、これから起きることが怖いのか、あるいは両方なのか、それ以外なのかは分からないけれど、怖いと思った。
「見られるのが好きなんじゃないの? そういう格好が好きなんでしょ? 何が怖いの? 本当の自分でしょ? 本当の自分を見てしまうのが怖いの?」
なんだこいつ。なんだろう。
濁った湖面の向こう側から何かが浮上してくるような恐怖を僕は感じた。それは良くないものだと分かっているんだけれど、目が離せないような、そんな恐怖と好奇心が入り混じったような奇妙で、不気味な感覚。毒薬だと言われてから、試しに舌先だけでそれを舐めとるような、刺激。
「こ、こんなのは嫌だ。僕は、誰かを不幸にさせる、つもりは、ないから」
「私のいうことが聞けないの? 那智、大丈夫だから、ね? 分かった、じゃあ、ちょっと横切るだけにしようか。那智、それならいいでしょ? 那智ならそれくらいできるよ」
「そ……それでも」
「那智」
は、や、く。そう唇が動いた。赤い赤い唇が動いた。続けてしゃきりという小気味よい音。
よく見ると、彼女の手にはハサミが握られていた。僕の机の棚に入ってたはずのそれ。しゃきりという音は僕が沈黙を続ける度に力を強め、速度を早めていく。彼女の目の圧力が強くなっていって、僕は耐え切れず、背を見せた。
眼前にあるのは開けっ放しのリビング。一瞬だ、一瞬行って、戻ってくるだけだ。音を立てずに、行って戻ってくるだけ。それだけのことだ。誰だってできるじゃないか。しゃきんしゃきんしゃきん。
笑う膝を勇気づけて、僕はフローリングの床を蹴った。ぎゅっとフローリングを指が噛む鈍い音がしたけれど、もう引けない。ただ、真っ直ぐ前を見て小さく小走りして――呼吸がうるさい――振り向いて、後は向こうでニヤニヤ笑ってる彼女の元へ、ああ、僕ならできる。母さんに見られていたとしてもすぐ部屋に戻って着替えれば、誤魔化せる。すぐに終わらせてやる。これで終わりなんだ。よし、いちにのさんで……。あ、何だ、電話? 電話の音だ。電話機はどこにある? それは当然、リビングの扉の側だ。僕の位置から見える。斜め前に見える。ウソだろ。そんな偶然、僕は信じないぞ。
ふと前に目をやると、ニヤニヤ笑う彼女が何かを僕に見せていた。携帯電話だ。通話中の文字が見える。
ガツンと頭を殴られたような衝撃。
「……クソ野郎」
僕は絶望した。こいつ、僕の家に電話をかけているのだ。この場から電話をかけて、母を誘導するつもりなのだ。母と僕を遭遇させて、僕の絶望する姿を見るつもりなんだ。
ふざけるなよ。なんて奴なんだ。どうしよう、どこに隠れればいいんだ。玄関にしゃがむ? ぶっ飛ばしてやる、天野。ダメだ、外に出るくらいしか、ああ、でも。あの時、助けてやらなきゃ良かった。横の部屋は、ダメだ、丸見えだ。
僕の絶望具合が面白いのだろう。天野潤は口を手で押さえて、嘲笑いを、笑いを堪えていた。僕の鼓動を早める電子音がいつまでたっても止まらない。僕は耐え切れなくなって、その場に膝をついた。胸が痛い。息が止まらない。汗が止まらない。ぼたぼたぼたぼたフローリングが濡れていく。母さんごめん、本当にすみません。許してください。ごめんなさい。
「ぷははっ。誰も……誰もいないよ、那智。リビング、誰もいないから。ほら、顔を上げて。あー、面白かった。那智のお母さんね、さっき買い物に出かけたみたい。着替えしてる時にさ、外見てたら、どっかに行ってるとこ、見えて。ふふっ」
リビングの扉の縁に背を預けて、彼女は笑った。僕は恐る恐る顔だけ出して覗く。本当に誰もいなかった。テレビがつけっぱなしなだけで。
「あ、あ、あ、ああああ……」
一気に張り詰めていたものが崩壊して、僕はフローリングの床にぐったり身をつけた。訳の分からない感動と、涙が出て、止まらない。
最初から分かっていて、僕を煽っていたということか。
「……ふざけるなよ、お前」
負け犬の遠吠え。そんな具合の声が喉から漏れた。