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蛆虫の唄  作者:
3/19

#03

 あっカワイーと一オクターブ高い声で彼女は僕の衣装を手にとって眺めた。女子がクラスでよく出す、白々しいあのカワイイという声を彼女も出すのだということに少し驚く。彼女とはクラスは違うし、想像の範疇でしかないけれど僕の中では天野潤はそういう女子をガキと見下しているイメージがあった。

「ちょっと暗いけど、いいじゃん。あ、この猫さんプリントの赤い靴下もカワイー」

 白黒のボーダー柄のシャツとベージュの短いスカート。黒く短いウィッグが全体に的に少々重たげな印象を与える。夏に買ったものだから、全体的に涼しげだ。

 今回は次の季節を意識した服を買うつもりだった。それが結果として、急な母の襲撃に怯え、彼女の無理な要求に怯え、羞恥に耐えるという状況を生んでいた。僕はこの衣装だけで満足するべきだったのだ。誰もいない家の中で遊ぶ程度に留めておくべきだったのだ。

 欲望を抑えらず、最悪の結果をもたらした自分を嫌悪する。

「じゃ、これ着てみてよ」

 ほら、来た。

 僕は痛む手を抑えながら露骨に顔を歪めて、顎を引かせた。

「い、いや、だって」

「何、初めて聞いたみたいな顔してるの?」

「だ、だから、ほら、着替える場所なんてないし、それに母さんがいつ覗きに来るかも分からないし」

「いいから着替えろ。ここで、私が見ていてあげるから。ああ、見られてると興奮して、勃起しちゃう?」

 悪意たっぷりに彼女は笑う。ニヤニヤと笑う。

「そんなこと……ない」

 僕は性的興奮を得るために“変身”するのではない。美しく理想的な少女というもう一人の自分を演じることに達成感や、癒やしを求めているだけであって、愚劣な欲望を満たそうだとか、過度なナルシズムに浸る目的はなかった。変態性欲や、劣等感を抱えた矮小な趣味ではないのだ。これは自我を意味する自己とは切り離された崇高な行為であり、自分という器を肉体という物理的かつ冷淡な場面から愛でる愛の行為なのだ。別の性別の、別の自分の理想像を演じるということは、つまるところ、純粋に自分という肉体を愛する行為でありながら、自分の欲望を満たす行為とは違う場所にある。そのアンビバレンツな感覚がある種の哲学性を持ち、僕を高めてくれるのだ。男の趣味と見たら何でも性欲に結びつける彼女には飽き飽きする。それだけは僕が正しい。それだけは確信をもって言える。

 そういうことを言ったら、天野は僕を鼻で笑った。

「うんうん、なるほどなるほど。何いってんの、キモっ。いいから早く着替えてよ。崇高な行為なんでしょ? なら胸を張って、恥ずかしがらず着替えてみなよ。じゃなければ言い訳は言い訳のままだよ」

 ベットに深く腰掛けながら彼女は足を伸ばしてそういった。真っ直ぐ伸びた足はそれこそ、抱きしめれば折れてしまいそうだった。

「その位置からじゃ、パンツは見えないよ」

 僕の視線に気づいて、天野は笑った。そんなつもりはないといったところで自意識過剰かつ自分に自信のある彼女は認めないだろう。

 僕はスゴスゴと恥ずかしがりながらも着替えを敢行した。極力彼女の目を見ないように心がけたが、姿鏡越しに、どうしても目が合ってしまうのが辛い。

「不思議だねえ、男の格好してると男なのに、女の子の格好してるとちゃんと立派に女の子してるんだもん。体も細めだし」

 着替え終わると物珍しげに彼女は周囲をぐるぐる回って、あれこれさぐってくる。

 僕は耐え難い羞恥心と母の来襲が恐ろしくて気が気ではなかった。鏡越しの僕の顔は茹でたタコかカニのように赤い。

「これでパンツも女物だったら、完璧だね」

「あっ、ちょっと」

 スカートを(ひるがえ)そうとした彼女の手をついつい掴んで止めてしまった。止めた後から、何だがなりきっているかのような気になって、更なる羞恥に息が詰まった。

 彼女がまた僕を笑いものにするのではないか、あるいは軽蔑した目で見下すのではないかという恐怖心があったけれど、彼女の笑みは終始変わらなかった。むしろ、喜ばしく、友好的な色すらあった。

「大丈夫だよ、那智。可愛いよ。すごく可愛いから、自信持ちなよ」

「……可愛い」

 そのゆっくりと息を吐き出すように出た言葉は白々しくもなく、また嘲笑も、侮蔑もなかった。子供に絵本を読み聞かせるような、酷く落ち着いた声色だった。

「そう、可愛い。那智はとっても可愛い。化粧しなくても女の子に見えるもん。凄いよ。体も細いし、足も綺麗だし、今度、私の持ってる服、着てみない? ああ、那智が持ってる奴とは違う化粧の仕方、教えてあげる。もっとナチュラルな奴。そうだ、今からお化粧しようか。本当のやり方、教えてあげるよ。それを知ったら、那智はもっと可愛くなれる。そこら辺の女の子が裸足で逃げ出して、男が言い寄ってくるようになるような奴、教えてあげるよ。やってみない?」

 後ろから腰に手を回したり、髪を……といってもウィッグだけれど、撫でたり、耳元で囁いたり、彼女の真意がつかめない。彼女は僕を奴隷にするはずではなかったのか。僕を懐柔するための手段なのか。

 しかし、そうであっても、その提案は眩しかった。独学では限界がある。初期の頃はチークが濃すぎたり、マスカラとアイラインが強すぎて、全体のバランスがめちゃくちゃになることがよくあった。今でこそ、まとまりがあるものの、それで満足しているかと言えば、そうとは言えない。もっと突き詰めていきたいけど、バランスが崩れてしまう恐怖に次の一歩が踏み出せない状況だ。

 もっと可愛くなれる。その言葉が耳の奥の貝殻を伝って、僕の脳髄に揺さぶりをかける。

「あ、天野は何を得るんだ?」

「何をって? そもそもの意図がよく分からないけど」

「僕を奴隷にするんじゃなかったのか。天野は僕をその……えっと、さらに可愛くしてどうするつもりなんだ? 天野に得るところが何もないように見えるけど」

「ああ、そういうこと」

 僕の頬を指先で撫でながら、彼女は普通に笑った。

「単純に可愛いものが好きだっていうのもあるけど、どこまで那智がいけるのかっていうところに興味があるっていうのが大きいかな。那智がさ、本当にナンパされるくらい可愛くなって、どうみても女の子みたいになったら、それはそれで面白いと思わない? 那智の心にどういう変化があるのかっていうのも見てみたい気がするし。究極、那智が誰かに犯されそうになるくらい、可愛くできたらいいなって思う」

「僕は異性愛者だ」

「でも、犯されるくらい欲情されてみたいって思わない? それだけ似合うんだからさ」

 思うか、馬鹿が。

「まあでもね、那智には拒否権はないからね。那智は私のオモチャだし、着せ替え人形だし、私の奴隷だから」

「じゃあ、聞く意味ないだろ」

「そうね。ただね、那智。那智はきっと私に感謝するようになるよ。私に弄ばれて、私のオモチャになれてよかったって思うようになるはずだよ。私は自分のオモチャは大切に扱うタイプだからね」

「どういう自信なんだよ」

「那智がボロボロになって壊れるまで遊んであげる。こんな面白いオモチャを手に入れたんだもん。そうしてあげなきゃ、失礼というものでしょ?」

 少し彼女というものが見えてきて、僕の心の衝撃は少々やわらかいものになっていた。

 彼女はどこかおかしい。まともじゃない。でも、普通ではないという安心感はなんだか酷く僕を納得させた。

「僕は天野に脅されてるんだ。だから好きなようにすればいい」

「うん、そうするよ」

 彼女は不敵に笑うとドアノブを握りながら僕の手を引いた。

「ちょ、ちょっと」

「選択科目もう決めた? まだ決めてないでしょ? なら理系にしてよね。別々のクラスで、滅多に会わないんじゃ、つまならいでしょ? 理系にしてくれれば合同授業だから、会える機会も増えるじゃない?」

「待ってくれ、どこへ連れてくつもりなんだ」

 彼女はサディストじみた笑みのまま僕を無視して、部屋の外まで腕を引く。

「せっかくだし、部活も同じにしようか。園芸部が確か部員が少なくて、どうとかいってたし」

 もしかしてこのまま、この衣装のまま、僕を外に連れだそうとしているんじゃないだろうか。あるいは母の元に連れて行こうとしているんじゃないだろうか。そう考えて、僕は青ざめる。地元で、それも自分の生活区域でそんな無謀かつリスキーなことをしたことは、一度もないし、そんなことをするほど僕は破滅的ではなかった。

 やめろと強く叫ぼうとして、声を飲み込む。母はおそらく下にいる。叫べば、すぐに顔を出すだろう。こんな格好をしてる僕を見たら、どんな表情するだろうか。想像するだけで恐ろしい。

 無言で僕は半狂乱になって、彼女の手から逃れようとするが、彼女はゴールを守る鉄壁のキーパーのように、僕を逃さなかった。手を振りほどこうとすればするほど、地面をきつく踏み込めば踏み込むほど、彼女の笑みが濃くなっていく。天野の引っ張る力は底なしに強まっていく。

 その時に僕は悟った。僕は何をしようと彼女のオモチャなのだと。僕は釈迦の手の上を飛翔する孫悟空に等しいのだと。

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