表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蛆虫の唄  作者:
2/19

#02

 無言で立ちすくんでいる僕に飽きた彼女は、僕の部屋の本棚から書籍を取り出すと、その場でパラパラと捲った。興味を引くようなものはないようで、少し分厚い背表紙の、僕ですらどんな内容だったか忘れてしまった本を退屈そうに眺めていた。

 カーテンレースのような軽々とした服装と相まって、どこか神秘的な雰囲気すらあった。

「ああやって、毎回、途中で電車を降りて、着替えて、化粧までして。何が那智くんをそこまで駆り立てるの?」

 障害者用のトイレの前に立って、「早く着替えてきなよ」と笑う天野を思い出してカッと頬が熱くなる。十分くらいは絶望に頭を抱えていたはずだ。

 嫌な思い出を振り払って、僕は机の棚から通帳を取り出すと、彼女の眼前に突きつけてやった。恐れてなどいないという強がりだ。そう強がり。事実、僕の手は震えていた。

「なにこれ」

「通帳」

「分かってるけど、だから通帳をどうしてほしいの?」

「百万近く入ってる。これあげるから」

「あげるから?」

 首を傾げて、彼女は鼻で笑った。首を傾げたフクロウのように薄く細まった(まぶた)は愛らしい。けれど、それは愛嬌や好意を指し示すものではなくて、獲物を探す狩人そのものだ。

「……だから、勘弁してほしい」

「違うでしょ? して……なんていうんだっけ? お願いする時はなんていうの? 那智、分かるでしょ? 頭、そんなに悪いわけじゃないよね?」

 笑みを携えていた唇が、笑みという曲線を越えて、嘲笑を形作る。愚かな者の暴言を見過ごすわけにはいかないといったように、彼女は僕を嘲笑(わら)った。しかし、目だけが真剣そのままで、圧迫感が酷くて、見え上げたまま僕は、震えそうになる。

「あ、あの、これで勘弁し、してください」

「うんうん。お願いする時はやっぱり、そういう言い方じゃないとね」

 両手の先を合わせて、彼女は胸が弾んだと言わんばかりに笑ってみせる。僕の屈服し、恐れおののいた顔を見て、そんな表情を取るのだから、やはり彼女は歪んでいる。

 百万円は惜しいけれど、こんな狂人と決別できるのなら安いものだ。彼女にはやはり一生頭は上がらないかもしれないし、見る度に恐怖してしまうかもしれないけど、お金で縁を切れるなら。

「でさ、那智、女装してる時って勃起してるの? 興奮するから女装するんでしょ? 更衣室とかでオナニーしたりするの?」

 面食らった。面食らって僕は何も言えなかった。

 真っ直ぐ伸びた通帳を見て、あれっと思う。そもそも何で彼女は受け取ってくれないのか。受け取ってくれる流れではなかったか。

「どうしたの、泡食ったみたいな顔して」

「あの、これ」

「通帳? ああ、お金で解決したいって話しよね? あのね、那智。ドラえもんって知ってる? 那智もメガネしてるから、一度は聞いたことあるんじゃない? メガネの頭の悪い少年のところに未来から来た猫型ロボットの傑作SF漫画よ」

「知ってるけど」

 何を言うつもりだ。

「面白いよね、あれ。でね、よく聞くじゃない? ドラえもんが欲しいって。ドラえもんみたいな友達が欲しいって。私にはね、その言葉って都合のいい奴隷が欲しいって聞こえるの。自分の欲望をありとあらゆる方法で叶えてくれて、くだらないことにも付き合ってくれて、不眠不休……はちょっと違うわね、ふふっ。まあ、そういう便利な奴隷が欲しいって聞こえるの」

「それは天野が歪んでるから、だろ」

 勇気を出して僕は言ってみた、彼女の目を直接見たりはできなかったけど。

「うんうん、そうかもしれないわ。だってね、私もね、そういう奴隷が欲しいって思うから。さっきの話しに戻るとね、だから、お金は、いらない」

「えっ」

 その時は流石に彼女を見た。普通に笑っている彼女を見た。歯を見せて、普通に笑っている彼女。美しいとすら思う。けれど、彼女の宣言は悪魔的で、魔的で、僕を殺さんばかりの絶望を含んでいた。

 薄っすらとそんなことがあるのではないかと思っていた。彼女は金でどうにかなるような人間ではないのではないかと。

 それがはっきりして、僕は余計に狼狽えた。僕をそれこそ酷使されるドラえもんのように便利な奴隷として扱うというのか。僕の秘密を握ったまま、彼女は。

「大丈夫、酷いことはしないから。殴ったり、刺したり、もちろん金銭を要求するようなこともないって約束してあげる。ほら、指切りげーんまん……」

 ぷらぷらと振れる手の向こう側の彼女を僕はぼんやりと眺めた。友達になってとか、そんな優しい言葉が待っているはずがない。

 何を要求されるのかは分からないけれど、それがまともなことや、常識的なことではないという想像はつく。

「指切った。ほら、これで大丈夫。よし、じゃあ、私の前で着替えてよ」

「……いや、あの」

「早く、着替えろ。那智」

 またその目をする。笑っているのに、目だけが笑っていない高圧的な、矮躯(わいく)な生き物に苛立っているような目をする。喉笛を食いちぎらんばかりの、圧力で僕を見下ろす。

「で、でも母さんが下に」

「私は、なんていった? 那智、私は、なんて、いった?」

「い、嫌に決まってるだろ。天野、おかしいよ。そんなことできるわけないだろ! これ持って、帰ってくれ。学校で見かけても、僕に話しかけ――あっ」

 横から迫った黒い何か。黒い背表紙。ああ、さっき天野が僕の本棚から取り出した、それだ。それが痛みとともに視界を染めた。

 顔を擦る。熱に擦る。痛みに擦る。

 なんだ? 今、僕は殴られたのか? この手触りは、床だ。僕は床に倒れてる。キンキンと後頭部も痛い。

 血? 血が出てる。鼻から血が。

「大丈夫、那智?」

 横から来た、本に振り向いてしまったから、もろに顔面に受けて、倒れてしまったようだった。

 背中にぐっと重みがかかり、天野が僕の上に座ったことが分かった。視界が戻るとやっぱり、天野のソックスが目に入る。

「那智、お仕置きとか躾のための暴力はあるからね。そっか、那智は躾しないと分からない子かあ。私も心が痛むけど、しかたないね。着替えるっていえば開放してあげる」

「天野、狂ってる。お前、頭おかしいよ」

 力づくで起き上がろうと、地面に手をついたところで、天野の白い手が眼前に突きつけられた。何かを摘んでいる。よく見るとそれがクリップであることが分かった。短いハリガネを長方形に丸めたようなクリップは、小学生の時に名札をつけるために使っていたくらいの記憶しかなくて、久しぶりに見たなという簡素な感想が真っ先に出た。しかし、なぜ、それがここにあって、鋭い針先を僕の方向に向けているのか。

「自分のこと、棚に上げていうことかな。それとも女装は一般的っていいたいの? 市民権を得た正当な行為であるとか、そういうアレ?」

 彼女が何をしようとしているのか分からなくて、僕は硬直した。彼女は七十五度に開いた鋭い先を両手で直線に曲げていく。立派なひとつの針として機能するように。

 口調は変わらない。相変わらず、どこか挑戦的で、含んだような物言いだった。これから何か酷いことをしようとする人間のものではなかった。

「でもね、那智のやってることってやっぱりおかしいよ。悪いけど、変態だなって思う。確かに那智は似合ってるよ。一瞬、普通の女子に見えた。うん、あれは凄いと思う。でも、那智は女装を見られることで興奮してたわけでしょ? 勃起したり、帰ってきてオナニーしたりしてるんでしょ? やっぱり異常だよ」

 白く細長い手が僕の人差し指を持った。天野は顔を近づけると一瞬だけ、舌を這わせた。這わせた後、天野は唐突に片方のソックスを脱いで、裸足になる。くるくるとそれを丸めながら、やっぱり言葉を続けた。

「別に那智は性同一性障害とかそういうのじゃないんでしょ? ニューハーフになりたいとかでもない。よしんばそうでも、家の外に出た瞬間からやっぱり異常だとは思うけど」

 その言葉が皮切りに、ゆったりとしていた動きが急激に速度を増した。僕の口に丸めたソックスが押し込まれる。吐き出そうとする前に、クリップが指に近づけられていることに僕は気づいて、ぷつりと指先に侵入した異物感に叫んだ。

 僕は叫んだ。ソックスによってくぐもった声だったけれど、痛みに叫んだ。爪の裏側をガリガリと何度も出入りする異物に全身が張った糸を更に引っ張るように、硬直し、震える。痛みに震える。痛い痛い痛い痛いいたいいたいいたいいたい。

 どけどけどけどけ、ぼくのうえからどけ、いたい、どいてください、ど、手を離して、いたい、いたい。

 いたい。

「那智、着替えたくなったでしょ?」

 たっぷり数分、暴れ、咽び泣き、息も絶え絶えになった僕の惨めな姿を見て、彼女はそういう。僕の口から唾液にまみれたソックスをつまんで、無邪気に笑う。人差し指に舌を這わし、いう。

 僕は心の中で、くたばれと叫んだ。キチガイが、とも叫んだ。その軽蔑の視線を感じ取ったのか、天野は僕の顔に迫り、額をこすりつけ、笑った。僕は怖くなって、腰砕けになって、短く悲鳴を上げて、目を閉じた。

 十分経っただろうか。二十分経っただろうか。もしかしたら十秒も経っていなかったかもしれない。僕は恐る恐る目を開く。邪悪に笑う彼女が眼前に広がっていた。

「分かった? 那智はもう私のものなんだよ。私の奴隷。いい子にしてたら飴をあげよう。頭だって撫でてあげる。悪いことしたら、罰がある。躾が待ってる。当然よね、那智は悪いことをしたんだから。那智、自分が何をしたか、いってごらん? いい子だからいえるよね?」

「僕は……」

 逃れようと、逃げようと、視界を外に向けても、視界一杯にあるのは彼女で、彼女だけで、時間すらも彼女のように感じられるほど、彼女は僕を逃すまいとしていた。

「うんうん」

「僕は悪いことを、しました」

「どんなことをしたの?」

「えっと、あの、口答えしました」

「うんうん。分かってるじゃん。じゃあ着替えよかっか。大丈夫、手伝ってあげるから。えっと衣装はクローゼットの中にあるんだっけ。あ、ほらほら、いつまでも寝てないで立って」

「いや、だ」

「え? なんだって? 那智、お前は今なんていった?」

 起き上がるために掴んだ彼女の手がぎゅっと僕の手を握った。それほど握力は感じない。ただ、目を見ることをできないくらいの恐怖は感じた。

 僕が目をそらし続けていると、床の上に先ほどの針が転がる。彼女の手からこぼれたことが分かる。何か取り返しのつかないことをしてしまったのではないかと、焦燥感に駆られる。これ以上、痛いことは嫌だった。

「もう一回聞くね。那智、なんだって?」

「い、いや、あの、ベットの下のバッグに全部……入ってます」

「うん、分かった。……ああ、これ?」

 スカートの裾を手で押さえて、彼女は当然のようにバッグを取り出す。痛いよりはずっとマシだと思ってしまう。痛いことよりは、ずっと彼女に睨まれ続けているよりは、こちらの方が随分と楽だと思えてしまう。これで穏便に済むのなら、それでと。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ