#19 END
妙な寝苦しさを感じる。目を開くと、部屋は真っ暗だった。
一時間くらい横になっているつもりだったけど、どうやら寝過ぎたようだ。明かりを消した覚えはなかったので、おそらく母さんが起こしにきて、そのまま暗くして、寝かしておいてくれたのだろう。
どこからか隙間風が入ってくるのか、室内はやけに涼しかった。はだけた服装を少し直す。ベットから身を起こして、目をこすりながら、照明のスイッチに手をかけると、横から伸びた白い手に動きが止まった。
「……なっ」
誰かがいる。
吹き出す汗とともに、大声をあげようとすると闇から伸びた白い腕は僕の口を塞いだ。急なことで体のバランスが崩れて、絡んだ糸のようにもつれ込む。
相手の姿が見えない。手を振るっても、相手の姿は掴めない。僕が暴れるせいか、相手の力も体重を乗せるようにして強まった。
一体なんなんだ。両親がこんなことをするわけがない。幽霊? 幽霊が大声を出されて困るものか。部外者だ。強盗か。いや、強盗がずっと僕の部屋にいるというのもおかしい。自分の意思でこの部屋にいる相手というと誰だ。
思い当たる人間は一人しかいなかった。
僕の家を横切る自動車のヘッドライトがカーテン越しに膨らんで、天野潤の狂乱とした姿が浮かんだ。彼女は下着姿だった。
「な……那智くん、し、静かにして、くれる? ね? じゃないと、那智くんに痛いことしなきゃいけないの」
もう一度、ヘッドライトに室内が明るく膨らむ。彼女の片手には銀色に鈍く濡れるナイフが握られていた。ナイフ? ナイフ、かよ。
僕は極力、彼女を刺激しないように、自分が冷静を保つように、呼吸を整えて、ゆっくり唸るように頷いた。
天野潤は僕の頷きに、ゆっくりと手を口から離す。咳を二、三回すると潤は心配そうな声色で僕の身を案じた。正直、薄ら寒くて、一刻も早く逃げ出したかったけど、僕は冷静に大丈夫だと答えてみせた。
「ごめんね、ごめんね」
「どっから……いや、何にしに来たんだ」
「あ、あ、あのね、屋根の上を伝って、それで、窓を開けようと思ったんだけど、鍵がかかってたから、ガラス割っちゃった。ご、ごめん、弁償するから」
弱った口ぶりはいつもの潤だったけど、行動は常軌を逸していた。何より、いつでも僕の命を断てる凶器をその手にしている。
「本当は那智くんが寝ているのを見て、それで満足するつもりだったけど、でもどうしても思い出が欲しくて。幸福が欲しくて」
幸福、思い出。その言葉に突如、シリアルキラーが殺した相手の肉体のパーツを持っていくという話しを思い出して、僕は体を擦る。どこも欠けていない。耳も目も、足も、指もある。
「どうしたの? 寒いの?」
下着姿の女がそんなことをいう。寒いのはそっちだろ。こっちも別の意味でさっきから寒くてしかたないけど。
「お、思い出って、何だよ」
「…………あの、一回だけでいいの」
妙に口ごもる様子に僕は少し苛立った。主従の関係がめちゃくちゃだ。
「だから、何を?」
「那智くんとセックスしたい。私の処女を那智に捧げたい」
「な、え?」
「それだけでいいから。それだけしてくれたら、もう付きまとわないし、私は満足だから。幸福だから。ダメならダメでいいけど」
――ダメならダメでいいけど。
その言葉がやけに吹っ切れた言葉だった。やけに冷たい言葉だった。断られたら帰るという意味だと思いたい。でも、さきほどのナイフが頭の中でリンクしてしまう。潤のことだから僕を殺したりはしないかもしれない。でも、下で寝ている両親をどうにかするくらいはやるかもしれない。
「ずっと暗い所で那智の寝顔見てたからかな。暗いのに、那智の顔がよく見える。そんなに怖がって、汗まみれの那智、初めて見るよ。どうする? 本気で私に挑んでみる? 私を止めてみる? それでもいいよ、那智が本気で私を憎んでくれるなら、それでも。……私はね、本当に一回だけでいいの。それ以外はいらない。それで満足できるから」
冷たい声色を、ゆっくりと諭すような口調に変化させながら潤は片方の手のひらでゆっくり、僕を撫でる。額にキスをする。でももう片方の手のひらは相変わらず暗闇の奥底に隠れたまま、見えない。きっと、いつでも刺せるように、その矛先をこちらに向けているに違いない。
「…………」
命が掛かっている。僕ないし僕の知る誰かの命が。助ける、助かるハードルとしてはかなり低い。それでいいのなら、という気持ちもある。男にしてみれば失うものは何もないのだ。それに潤にはずっと辛い思いを強いてきた。その結果が今現在の彼女の狂気っぷりだ。僕としても彼女が満足いく何かをしてやれていれば、という考えもなかったわけじゃない。それが今ここで、全てチャラになるのなら、いいチャンスのような気がする。
約束の結果、彼女が手のひらを返してきて、僕を刺してきたとしたらどうだろう。僕以外の誰かを殺そうとしたらどうだろう。いや、結果が決まっているのなら意味は無い。なら、なるべく、そうならないように最善の行動を取るのみだ。それしか僕にはできない。
「……僕以外は誰も傷つけないって約束するか?」
鼓動がやけに強く胸を打つ。息がやけに重い。
「約束する」
「二度と付きまとわないって約束するか?」
「約束する」
「誰にもこのことを口外しないって約束するか?」
「約束する」
「手のひらを返して、潤が僕を刺したとしても、僕はそれでいい。例え刺されても、殺されても僕は潤にそうしたいと思えるようなことをしてしまったんだから文句はない。でも本当に傷つけるのは僕だけにして欲しい。それだけ、本当に頼むよ」
「大丈夫、約束するから。大丈夫だから」
「分かった、いいよ」
潤はナイフをどこかにやったのか、僕をベットに押し倒すと、荒々しいキスを浴びせてきた。耳ともで僕の名前をむせび泣きながら連呼する。
「好きだった。本当に大好きだった。あの時からずっと好きだったの。那智。ああ、怖い思いさせてごめんね、那智。那智くん那智くん那智くん。幸せになろうね、幸福になろうね、絶対に」
僕は恐怖と緊張が極まって麻痺した脳みそで、ああこれって一応レイプされているんだよな、と思った。それが妙におかしくて、頬が笑う。震える膝とともに喉が笑う。
「潤、僕、コンドーム持ってないけど」
「んっ、大丈夫だから。今日はいい日だから」
遅まきながら、目が慣れ、彼女の顔が夜闇にハッキリと浮かぶ。潤んだ瞳、上気した喉元、青色のブラに押し上げられた豊満な胸、真っ赤に染まった頬。
こんなに綺麗な人を振ったのか僕は。こんなに綺麗な人が僕のことを好いていてくれたのか。
僕ってやつは贅沢な奴だ。呪われて、狂気されてもしかたないな。
あれから潤は三ヶ月近く姿を見せなかった。学校にも現れず、クラスメイトもその理由を知らないらしく、僕に聞いてくる人がいるくらいだった。
真面目な潤のことだから、付きまとわないという意味をかなり重く捉えたのかもしれない。僕の視界から消えろという意味ではなかったんだけど、あのまま退学するくらいの覚悟だったのかな。
教師陣にも“仲が良かった”ということで過剰なほど事情聴取を受けたけど、僕は知らないで通す他なかった。
あの夜のことを僕はもちろん、潤は誰にも口外していない。
「先輩、文化祭のうちの部の展示物なんですけど」
「だから、いってるじゃない。那智くんの写真展にしようって。今から準備してたんじゃ、間に合わないわよ」
部屋の隅でニコニコ笑っている先輩を無視して、僕はノートに目を移した。あまり大した進展は見られない。ペンの尻で額を軽く叩く。何かいいアイディアはないものか。
幽霊部員となっている別のメンバーにも、一応声は掛けたのだが、過去、先輩に何かされたのか、園芸部の名前を口にした瞬間、青い顔をして逃げ出すばかりで話しにならなかった。実質、活動しているのは僕と先輩だけだ。
「しょうがないですから、前回のデータの日付と画像をちょろっと変えて、それを出しましょう」
「じゃあ、パソコンを借りに行かないといけないわね。ほら、手をつないで行きましょう」
「嫌ですよ」
「知ってる」
フフフと小さく笑う先輩に抵抗するのは止めて、僕は職員室へノートパソコンの貸出を頼みに行こうと部室を出た。防犯用に鍵を掛け、半歩進んだ所で、潤にあった。
「久しぶり、那智。それに先輩も」
「あ、じゅ、潤」
「……天野さん」
寒いのか、制服の上に、ブカブカのジャージを来ていた。僕と先輩の繋がれた手を見て、淀みなく笑った。
「へえ、やっぱり先輩と付き合い始めたんだ」
「潤、これは」
僕の言葉を遮るように先輩は一歩前に足を出して言った。
「そうよ。それがどうかしたの?」
「いえ、別に。……思えば、先輩にはいろいろ助けてもらいましたよね。恋愛相談も、この部室を使わせてくれるっていう話しも。対価は“那智が本気で嫌がるまで遊ばせてくれ”でしたっけ。それ以外は何もしないからっていう約束でしたよね」
「……ええ」
「端的に聞きたいんです。悪いと思ってます?」
先輩は珍しく言葉に詰まったようだった。一度、彼女は視線を落とし、また上げた。
「思わない。私は悪いだなんて思わないわ。幸福を追求する権利は誰にでもあるものだから」
「そうですか。それを聞いて安心しました。じゃあ、これも問題ないですよね」
彼女はそういって、ジャージのファスナーを開いていく。ジャージを脱ぎ捨て、次はスカーフに手を掛けて、制服を脱いでいく。
「なにしてるんだ。先輩、天野を止めないと――えっ?」
「…………」
僕は先輩を見た。とてもとても凄い形相をしていた。なんとも形容しがたい顔をしていた。
どういうことなんだ。僕は上半身下着だけの潤が愛おしそうに、自分の“膨らんだ腹”を撫でるのを見て、悟り、自体遅まきながら理解し、膝を崩した。喉の奥がぐっと苦くなる。混乱する。景色が歪む。動悸が痛い。頭が痛い。割れそうに痛い。何だ、それは。
「もう、堕ろせないって。大丈夫、このまま育てていくから。あ、そうそう。私、来週から復学するからね。ほら、高校くらいはちゃんとでないとね」
あらゆる愛を網羅した聖母ごとく眼差しで潤は自分の腹を撫でる。
「だから、幸福の結晶を、ゆっくり私のお腹が大きくなっていくのを、学校で見守っていてね、パパ」
上着を着直して、彼女はどこかに消えた。僕らはただただ、その場で沈黙し続けるしかなかった。過呼吸気味に、今を耐えるしかなかった。
「那智くん」
顔を上げると拳が僕の頬を数回突いた。
「那智くん、マゾでしょ? 人から命令されると断れないんでしょ? いつも、酷いことすると目の奥が喜んでるものね。じゃあ、私が命令するね、命令してあげるわ。はい、これ」
僕の鼻血にまみれた手が握りつぶさんばかりに握っていたそれは、カッターナイフだった。
「これで、アレ引きずり出してきなさい」
ほら早くと背中を強く押される。振り向く。すぐに恐怖から、前を向きなおして、歩き出す。床はまるでゼリーのようにぐにゃぐにゃした歩き心地だった。
喉の渇きにも似た奇妙な不快感とともに疑問が首をもたげた。僕は今も喜びゆえに進んでいるのだろうか。それとも恐怖から前に進んでいるのだろうか。強い女性に全てを支配されたいと今でも思っていて、現在の自分を幸福だと認識しているのか。潤のことを喜んでいるのだろうか。彼女のこの行為は復讐なのだろうか。それとも愛ゆえの行為なのだろうか。幸福の結晶とはどういう意味なのか。先輩はどういう意味で、僕に命令をしたのか。彼女はまだ僕を愛しているのだろうか。
顔を上げると、先ほど見た女性の後ろ姿が見えた。答えは早くも出そうだ。
お疲れ様でした。最後はマリアとか、聖母降臨というタイトルを付けたかったのですが、予想されてしまうと思って避けました。
この展開を書きたかった。それだけです。人によっては「なーんだこんだけか」と思うと思いますが「うわあ」と思う人もいるかも。
生クリームに見せかけたマスタードという味わいだったら嬉しいです。
何はともあれ、ありがとうございました。




