#18
にっこり微笑み、髪をかき上げる仕草の先輩は後光のように夕日を浴びて、美しかった。
その日、先輩は言った。
「だって、那智くん、スキだらけなんだもの。可愛くて可愛くて。それに、那智くんは別に天野さんのこと好きじゃないから、これくらいの粗相は別にいいでしょう?」
「え?」
「何故、驚くのかしら。何故、驚いたふりをするのかしら。……ああ、そう。言い方が悪かったかもしれないわ。那智くんは天野さんのこと、愛してはいないでしょう?」
「分かりませんよ、そんなこと」
ふうんと鼻を鳴らして、先輩は僕の周りを犬のように回った。まるで品定めするかのように。まるでどこから飛びかかろうかと垂涎している獣のように。
不意に鞄の落ちる音。先輩が後ろ手に持っていたはずの鞄が、形を崩して、地面に横たわっていた。先輩の姿がない。そう認識したと思ったら、僕はねじ伏せられていて、次の瞬間には先輩が唇を寄せていた。手で押し返そうにも、力が出ない。唇をなぞるように侵入する舌ベロに、僕はただ驚愕するのみだった。
ぬらついた何かが僕の体内を犯し、引き抜かれる。先輩は首筋を舐めながら、耳元で囁いた。
「……ファーストキスをごめんなさい。ああ、那智くんにいってるんじゃなくて、これは何も知らないでデートの日を楽しみにしている天野さんにいったのよ。それでね、まあ、こういうこと」
ファーストキスじゃねえよ。
「最低……ですよ、先輩。最低だ。僕を無理やり、ねじ伏せて、そうまでして他人の曇った顔がみたいんですか?」
「違うわ、そうじゃない。君は今、本気を出せば私から離れられた。驚きはあったかもしれないけど、でも逃げるチャンスも、拒む機会も絶対にあった。それなのに、そうしなかった。それは何故? 今日の私が迫った時だって、君は拒もうとしなかった。その理由は? 分かるでしょう、那智くん。君は誰かに支配されたい人間なのよ。俗っぽい言葉でいえばマゾヒストということになるのかしら」
ハンカチで唇を拭いながら、先輩は顔を寄せて言う。
「詩的に表現するのなら耽美主義ということになるのかしらね。要するに、強くて綺麗な女性に屈服させられたいという欲求があるんでしょう? 自分の自由や意見を無視して、ねじ伏せてほしいと誰かに思っているんでしょう? 誰かに道を示して欲しいと想っている。罰せられたいと、願っている」
「ち、ちがう」
パンと音がして頬がじんわりと熱くなる。平手を食らったのだ。
「言い訳はいいから、立ちなさい。それで、私の鞄を拾ってくれる?」
ドキンドキンと胸の奥が鳴る。言われるがままはいけないと思いながらも、そうしなくてはならないと体が動く。僕は自分が何故、そうしているのか分からないまま、どうして逆らえないのか分からないまま、彼女の鞄を手に取り、それを渡していた。
鞄を受け取ると先輩は僕の頭を撫でた。いい子、いい子と。
「君は昔からできのいい子だったんでしょうね。手のかからない子供で、両親はさぞ安心したことでしょうね。でも、あなたは人並みに褒められたかったし、人並みに罰せられたかったのよ。もっと甘えたかった。天野さんも、あなたとは違うけれど、人に甘えたい人間で、君に自分を預けたい人間で、弱いの。君の望むように強くはなく、甘えることのできる相手ではなく、悲しいくらいに優しい子。そんなあなた達が、愛し愛されるという関係を築くことができるのか。……私には疑問だわ。どちらか一方が我慢をして、どちらか一方が幸福であり続ける。そんな未来しか見えない」
僕の方がいく分か背が高かったけれど、先輩は僕を包み込むように抱きしめた。小さい体躯ながらも、包み込む。
暖かく、紅茶のような匂いが彼女の服から感じられる。
「……じゃあ、どうしろっていうんですか」
「さあ、どうしたらいいのかしらね。私は君ほど真面目じゃないから、片方だけが愛を信じている関係というのもいいと思うの。それだって幸せには違いないんだから。愛ではないけど、好き合っているっていう関係でもいいと思うの。さっきもいったけれど、そちらの方が普遍的なのよ」
そうはいうが、無責任ではないかと思う。無垢で居続けようとするアダムとイヴに知恵の実を齧らせて、真実に気づかせる行為は悪とはいわないまでも、褒められた行為ではないはずだ。
あとは勝手にしろだなんて、酷いじゃないか。あとは君が決めろだなんて酷いじゃないか。僕に答えを示して欲しい。
「愛って何ですか?」
「愛って何かしらね? 優しさや同情は愛? なら、きっと愛は優しくないのでしょうね」
先輩は妙に感傷っぽくそう僕にいった。まるでそれは慰めるように。
天野潤と関係を断ってから、数日が経つ。
学校から帰宅して、椅子に座って天井を眺める。瞬間、ポケットのケイタイが震え、新着メールを訴える。内容は潤からのものに決まっていた。メールアドレスを変更してもまで、拒絶を示すというのあんまりだから、返答を返さないだけにしているけど、どうしたものだろうか。
内容は取り留めのないもので、一日にあったことをさらっと綴りながら、今度こんな場所に行きたいね、予定開いてる? といったような復縁を匂わせる誘導的な文言が多い。文からしても潤らしくないから、付き添っていた女子の入れ知恵なんだろうけど。
ケイタイをベットに投げて、僕は机にうつ伏せになる。
「めんどくさい」
女子間の政治的な何かがあるのか、クラスの女子まで、復縁をしろと僕に訴えてくる。問いただしてみれば潤は潤で「友達がやっていて、断れない。でもまた那智くんと一緒にいたい」とか言い出すし、甚だ疲れた。今日、先輩が働きかけてくれなかったら、僕は学校に来るのを止めていたかもしれない。
あれから潤は無理に明るく、時には道化じみたテンションでもって、僕に接してくる。それはそれでいい。それで終わるなら、それでいい。でも時折、ちょっとした失敗をする。言葉に詰まるとか、何を言っているのか自分で分からなくなるみたいな小さなミスだ。そんな時、潤はパニックになるのか、汗を滂沱のごとく流し始めて、笑みを貼り付けたまま、固まる。次の瞬間にはボロボロと泣きだして、収拾をつかなくさせてしまう。
――那智くんごめんね、ごめんね、またわたしダメだった、こんなに好きなのに好きなのにごめんね。
そんなになってまで頑張っている潤を僕が避けているものだから、学校の連中の視線は冷たい。何が不満なんだと陰口を叩かれる。
「しかし、今日の先輩はかっこ良かったな」
どこからかその惨状を聞きつけた先輩は、僕と潤を含めた騒動の中心人物を集めると「当人間の問題なのだから外野が口を出すな」と一喝してくれた。周りが囃し立てるから、潤も失敗できなくて、でもどうにか結果を出さなければいけないという圧力にパニックになってしまっているのだと淡々と他の女子を切ってくれた。
「今も彼女を苦しめているのは本当に那智くんなのかしら? ……か。ホントだよ。ああ、明日は少し静かになるのかな」
先輩に感謝のメールを送っておこう。そう思い、文章を考えている間に先輩から短い文章が届いた。
「お礼は今度、私の前で女装してくれるだけでいいから……って本気か、あの人。まあ、本気なんだろうな」
断れば、あの品のある笑顔で恩知らずと延々罵るのだろう。
しかたないので、隠してある衣装を取り出して、明日何を来ていこうか考える。ウィッグは金髪から茶髪も揃えた。化粧品も、潤には悪いけど、彼女から聞いたものを参考に揃えた。
少しウイッグを着けてみる。つけまつ毛も付けてみたい所だけど、服を変えるくらいで我慢しよう。化粧はすぐに落とせないし。
明日のために衣装を鞄にまとめて、ケイタイで時刻を確認すると、着信が来ていた。天野潤からだった。かけ直すべきか、かけ直さないか少し悩んで、僕はかけ直す。
「…………」
「あ、へっ? こ、こんばんは! あれ? 那智くんだよね? あ、あのね、掛かるなんて思ってなくて。……な、なんで何もいってくれないの?」
「要件は?」
「あ、あ、あ、あの、今日はごめんね。私も早く断ればよかったのにね。あははは」
「あの時もいったけど、そういうのはいいから。で、それだけ?」
「え、えっとね、また会えないかなって。ほら、メールで送った場所あるじゃない。そ、そこの旅館とか凄く素敵なんだって。近くでイチゴ狩りとかあって、だからさ」
「僕ら、学生だろ。お金もないし、本分は勉強だよ」
「……お金は私が出すから、ね? だから、もう一回だけ、チャンスちょうだいよお」
悲鳴だ。もはや、これは悲鳴だ。声も唇も震えていて、詰まったような声は泣いていることを知らしてしまっている。それなのに明るく振る舞おうとするのが、たまらなく心を傷ませる。そこで僕がウンと言ってやれば、全ては万々歳でおしまいだ。だけれど、それは妥協だ。望んだことじゃない。それは潤にだって悪い。
真摯でありたいからこそ、僕は無言で通話を終わらせる。独善とはばかられても仕方がないし、その通りなのだろう。
ベットにケイタイを投げて、ため息をつく。いらだちや退屈からではなくて、純粋に悲しいからだ。男はこういう時に泣けないから、損だな。
「少し寝よう」
本当だったらお風呂に入ってから寝たい所だけれど、少しくらいの仮眠なら、まあいいだろう。
制服の上着を軽く脱いで、ベットの上で僕は目をつぶる。
いつか潤にも諦めがきて、僕よりもずっと素敵な人を見つけて、幸せになってほしい。そう祈った。




