#16
僕の及び腰な様子にツンとした表情を強めて潤はジュースをすすった。
「いくじなし、根性なし、玉なし」
「……」
「本当に玉抜いて、女の子として生きていけば? その方が那智には幸せでしょ?」
ファミレスのソファに背をどっしり預け、やさぐれた表情で彼女はあらぬ方向を見た。僕もそちらを見るけど、白んだ町並みしか見えない。つまりこれはお前と目を合わせるくらいなら外でも見てた方がマシというメッセージだ。
「何とかいえば? クズ野郎」
「ナン」
メニュー表のカレーセットについてくるナンを指さして僕は大まじめに切り返した。
潤は一瞬、吹き出しそうになるのを堪えると、睨みつけるように目尻を釣り上げた。
「真面目な話ししてんの! ホント、那智は! 那智は! ああ、ムカつく! こんな男に惚れてる自分もムカつくし、こんな状態でも好きな自分がムカつくし、通じあってるって分かるのに何も変わらないのがムカつく」
「変わらないのは僕が変わらないことを望む人間だからね」
「知ってるわ、ハゲっ! お前のことなら何でも分かるわボケっ!」
それは流石に嘘だ。
「普通のカップルっぽく今日は過ごそうと思ったけど、やっぱりなし。この後、那智はお仕置き」
「お仕置きって何をするつもり?」
「那智の大好きなこと」
言いつつ肩がけのポーチから彼女はいくつかの化粧品を取り出してテーブルに並べた。ファンデーション、アイシャドウ、アイライナー、マスカラ、つけまつ毛、ハイライト、チーク。それにカツラとチープな青色の鏡もその列に並んだ。
普通のカップルっぽく今日は過ごすつもりだった? じゃあなんだこの準備万端な感じは。潤はあんまり化粧を重ねない。そもそも化粧をする必要がないくらいに美人だし、彼女自身それを分かっているはずだ。だから、これは潤が使うために持ってきたというわけじゃない。ああ、そうだ、分かってる。これは僕のためのものだ。
「どこでするつもりなんだ?」
「どこって」
潤は席を立ち、僕の真横に陣取り、満足気に笑った。
「ここに決まってるじゃん」
周りには沢山の客がいる。昼時だから、それはもう多い。店員が忙しなく料理を運んでいることからも明白だ。そんな観衆の眼前で、化粧をして、服を着替えろというのか。無理だ、そんなことは僕にはできない。冗談じゃないと席を立とうにも既に退路は塞がれている。
まるで僕の心象を表すかのようにテーブルの上のグラスが、汗をかいたよう水滴を流し、散らした。
「……僕には無理だ」
「大丈夫、私が一緒だから」
「誰か知ってる人がいるかもしれない。そんなことになったら僕は……」
「だから何?」
惚けたように潤は笑う。僕の拒絶など端から存在しないかのように彼女は化粧水とコットンを手に取った。
「そ、それに……潤以外に見せたくないし」
そう言うことで潤が止めてくれるのではないかという期待を内心込めて、僕は窺うように言う。
潤は糸を張ったようにピタリと動きを止めて、少し驚いたように目を見開いた。次第にそれは緩み、柔和な面持ちに変わる。
「ねえ。それさ、今、この場から逃げるためにいったでしょ。那智、そういうのダメだよ。最低の逃げ方だよ」
幸福に満ち足りた子供のように潤は柔く笑う。それなのに言葉は冷たい。眼の奥は冷たい。
「ホントはこういう時、怒らなきゃいけないんだよね。実際、ムカつくし。でもね、私、腹が立つのと同じくらい嬉しいの。こんなことでも那智の考えていることが分かるって。那智の心が読み取れて、嬉しいなって。那智、何度でもいうよ、愛してる」
微笑みながら距離を詰める彼女に圧され、僕の後ろが詰まる。息遣いが聞こえそうなくらいの距離だ。ほとんどキスを交わしているのと変わらない距離と言ってもいい。鼻で息を吸えば、彼女がさっきまで食べていたポテトの匂いだってするだろう。目を凝らせば静かに揺れる彼女の瞳が見える。
それでも距離をゼロにしてしまわないのは、言葉を待っているから。僕の言葉を待っているから。僕を尊重してくれているから。僕の言葉を尊重してくれているから。愛というものを互いの気持ちが一致して始めて成立するものだと知っているからだ。
「…………」
「これでも、いってくれないんだ……。まあ、でもいいよ。それでもいい。それでも側にいることを許してくれるなら、私はそれでも」
何も言わないでいる僕を認めたまま、彼女は体制を戻して、化粧を再開した。彼女の心内を鑑みれば、それくらいの羞恥、耐えて当然という気がしてならない。僕の苦痛で彼女の気が少しでも晴れるのなら、それは正解というものだ。
「それでも耐えただけはあるでしょ? うん、やっぱり私の見立ては間違いないね」
ファミレスを出て、映画館に向かう道すがら、彼女は満足気に僕を見た。赤紫色のワンピースの上に茶色のニットワンピース。裾から覗くレース状の白いペチコートが特に可愛らしく、灰色のタイツとブーツが相まって柔らかい乙女の雰囲気がこれでもかというくらい出ていて、僕は不満顔ながら内心満足していた。確かに耐えただけはある。
ショーウィンドウ越しに反射する自分の顔を少し見て、軽くウェーブの掛かったカツラを撫でる。じわじわと愉悦のようなものが腹の底の当たりから沸き上がってきて、笑ってしまう。
誰かと会ってしまうかもしれないという恐怖と同じくらいの刺激的な快楽が僕の頭の働きをおかしくしていた。
「今通り過ぎた女の子よりも、那智の方が絶対可愛いよ」
「やめてよ、そんなことないから」
“こういう格好”をしていると言葉が柔らかくなるし、声も何故か高めになる。どうしてだろうね。
「足も細くて綺麗だし、スタイルもいいし」
「ちょっとやめてってば……」
「リビドーを掻き立てられるもん」
リビドー、性的な衝動。
「おい、何いってんの?」
「いつか着せ替えっこしたいね。今日は私の服だけど、今度は那智の服を私が着たりするのをやりたい」
「え、これ、ぼ……わたしのために買ったんじゃないんだ」
「違う違う、あとでちゃんと返してもらうから。洗って返さなくていいからね、匂いが取れちゃったらつまらないし」
「はあ?」
「私ね、ほら、恋人の服を借りて、ああ彼の匂いがするっていうのをやってみたくてさ」
それとこれは大分、意味が違う気がするけど、僕の感じ方がおかしいだけなのだろうか。
僕らはエスカレーターを跨いで、まず映画館のポップコーンを購入した。チケットの購入はレディースデイということで普通よりも少しだけ安い。それからポップコーンを食べながら毒に薬にもならないような映画を見て、お互いに軽く感想を言い合いながら外に出た。傾きかけた日差しと外との温度の差に今日という日が終わりかけていることを何となく感じる。
「そろそろ帰ろうか」
「そうね」
とぼとぼ駅まで歩く。先に駅のコインロッカーの中に服と荷物を入れておいたから、それを全部取り出して、着替えて今日はおしまいだ。
ふと手の温もりに、当たり前のように手を繋いでいることに気づく。潤も同じことを考えていたようで、僕と目が合うと髪を掻き上げ、はにかんだように笑った。
「この後、服を着替えて、それで終わり?」
「うん、コインロッカーの鍵を君がなくしたりしなければね」
「今日は帰りたくないな、なんてありきたりなセリフ、ダメ?」
「……駄目」
むうっと唸るように潤は顔を膨らます。カワイ子ぶっても駄目なものは駄目だ。
「潤、あんまりそういうことは軽々しくいっちゃ駄目だ。そういうのはもっと厳粛で、大切な場面の時に使うべきだよ」
「ゲンシュクって?」
「なんかこう、しっかりした場所でってこと」
「周りの空気とか場所くらいなもので、那智の答えが変わるなら苦労しないよね。家族を巻き込んでさ、正式に書面と血判で那智くんのお嫁さんになりたいですってご両親に送れば、那智は私と結婚してくれるの? 違うでしょ? そうなら、既にやってるって」
「笑えない冗談だね」
「冗談じゃないよ。それくらいしてもいいって思うくらい、私は好きなの」
「潤が思うほど、僕に価値はないよ」
「那智の価値は那智が決めることなの? モナリザの絵が私はこれくらいの値段ですっていう? 違うよね、価値を決めるのは別の誰かでしょ。だからね、価値がないだなんていわないで。それに、それは間接的に価値があると想っている人の気持を貶めてることになっちゃうからさ」
歩みを止めて、コインロッカーに鍵を差し込みながら潤はそう優しく言った。
「そうだね、ごめん」
「まあでも、そういうナイーブなところも含めて好き」
好き。そういう度に潤は恥ずかしそうにする。それは心から思う言葉だからこそなのだろ。単純にそれは嬉しい。誰かに愛されるというのは、それでもう幸福なのだ。人は愛されるから、誰かを愛そうと思う。優しくしてもらったから、別の誰かを優しくしてあげようと思うみたいに。連鎖していく幸福。それが人類の発展してきた最大の理由なんじゃないかな。
潤と別れた帰り道、僕はそんなことを思う。
「それは慈しむ愛であって、人が人を愛するのとは違うのよ」
コポコポという水タバコの音を混じらせながら電話越しに先輩はいう。
「とても素晴らしい考えだと思う。とても美しいことだと思う。でも決してそれは心かき乱される愛ではないのよ。だから、君は今、泣いているのでしょう?」
「先輩、僕はどうしたら……」
「どうしたいの?」
僕はどうしたいのだろう?




