#13
ガラガラと戸を引いて、潤が教室に入ってくる。先輩は髪を掻きあげて、残念ねと笑った。
「何してんの? 続けなよ」
カバンを雑に机に置き、椅子に座り、肘をついた先にある顔は僕をじっと見ている。見ていてやるから好きなだけやれということなのか。
もし、そうだとしても僕にはそんな度胸はない。
「天野さんは浮気する男ってどう思うの?」
狼狽えに狼狽えきった僕と、無表情に僕を見つめ続ける潤を可笑しそうに見つめながら先輩は言った。
当事者であるのに、まるで部外者のように振る舞う所作は流石だと思う。空気は完璧僕一人が引き起こしたもののような感じになってるけど、アンタも当事者だからな。
「そうですね。まずメガネをかち割ります。グーで」
何故、浮気した相手がメガネである前提なのか問いただしたい。問いただす前に少し時間をくれ。今、メガネを外すから。
「それから髪の毛を全部引き抜きます。オカマ野郎って罵って、股間に蹴りでフィニッシュってところですね」
「あら、随分と優しいのね。私なら絶対、断然、去勢させるけど。ねえ、那智くん」
「そう、ですね。浮気は良くないですからね」
体が酷く緊張してしまって、酷く強張ってしまって、どうにかしたいけど、どうにもならない。喉がカラカラだ。
「……で、肝心の浮気相手はどうするつもり?」
先輩が嫋やかな声色のまま、首を傾げて聞く。
潤は相変わらず、無表情で、僕から視線を逸らそうとしない。僕は視線の先をさっきからどこに定めて良いものかと、こんなにも右往左往しているというのに。
「殺しますよ」
「へえ、奇遇ね。私もそうするわ。人のものを貪って盛るメス犬に何もくれてやるものなんてないものね?」
「はい。恨みとか憎しみとか、それすらも勿体無いっていうか……ホント腸煮えくり返るっていうか」
初めてそこで潤は笑った。見たこともないような不気味な笑みだった。湧き上がる感情に口元が抑えられないというような、そんな形容しがたい笑み。
先輩も分かる分かると頷いているのが、何よりも酷い。僕は何もしてないし、先輩は当事者本人だし、何で僕だけ針のむしろなんだ。
「恋する女は怖いわよ。天使にも鬼にもなりうるから」
誰に投げるでもなく、そう言い切り、先輩は一足早く部活を終わらせた。酷く有耶無耶にされた感じがする。
でもそのまま、全てが有耶無耶になってしまうのも悪くはない。時間は記憶や決意を風化させるからだ。
変わらないのはいつだって今なのだ。過去でも未来でもない今だけが、何ものにも侵されない。だから僕は今に腐心しなければならなかった。
「あ、あの潤さん」
「何」
いつものように胸を張って、僕の前を歩く。それにしても今日は地面を叩く勢いが強い。
「何を怒ってるんでしょうか?」
「本気でいってる?」
振り向いた潤は無表情のまま、泣いていた。ポロポロ涙を流している。気丈にも動揺することなく、泣き叫ぶことなく、声色すら変えることなく、ただ涙を流していた。
謝ればどうにかなるとは思わなかった。謝って済むことなんてこの世には存在しない。
「話しのきっかけとして、そう聞いただけで、理由は分かってるよ」
「そっ」
潤はまた真っ直ぐ前を見て歩き出す。短期間の間に僕は潤を二回も泣かせてしまったことを思い、罪悪の感情にぎゅっと胸の奥が締め付けられる思いだった。
潤の家に泊まった日の夜のことだった。風呂に入り、潤のジャージを借りて、僕は潤のベットの横に敷いた布団で、天井を見つめていた。電気は消えていたけど、外から伸びる街灯の光がカーテンの隙間から漏れているせいか、目が慣れるのにそんなに時間は掛からなかった。
「那智、起きてる?」
はっきりとした彼女の口調には起きているだろうなという確信が含まれていた。
「起きてるよ」
「寒くない?」
「別に寒くはないかな」
「手、貸して」
潤の手がベットの縁からそっと伸びた。指先で押すように僕はその手に触れた。
「冷たいよ。凄く冷たい。それじゃ、風邪引いちゃうよ。……那智、こっち来なよ」
彼女が言うほど僕の手は冷たくなかったと思う。彼女の体温が高かったせいもあると思う。でもそんなこと思いながらも、僕は特に反論しなかった。逆らわなかった。
コンビニから帰ってから潤が妙に優しかったとか、帰っている途中で潤から手を握ってきたからとか、潤が唇を何度も指でなぞっていたからとか、そういうことが理由だったわけじゃない。そうするのが自然な感じがしたからだ。
背を向けた潤に習うように、僕も彼女に背を向けて沈黙を友とした。
「……那智は覚えてないかもしれないけど、私、昔ね、那智にとても救われたことがあるの。どうしようもなかったことを那智が変えてくれた」
「そうなんだ」
「そう。那智のおかげで私は変われた。そう思うくらい感謝してる」
潤が僕の背中に体を向けたことが布団を伝わって分かる。誰ともつかない心臓の音がベットを伝わって片耳に届く。
「変わる、変わらないのは潤の意思だろ」
「でも、きっかけは那智がくれた。それが前からいいたくて、それがずっと心の中にあって、私は、那智が……気になっていて。もう、薄々分かってるよね? 好きでもない相手にここまでしないって。好きでもない相手を泊めたりしないって」
「いや、割りと今の今まで、僕を虐めることが目的なのかと思ってた」
「あはは、確かに那智が泣きそうな顔で私のことを見てるのは凄くドキドキしたけどね。私、サドかも」
「潤は間違いなくドエスだよ」
「なら、那智は間違いなくドエムだよね」
「いや……でも、ああ、そうだね。僕はエムだ」
少し僕らは笑った。でもと続けながら腰に手を回す潤にまた空気が粘ついていく。
「でもね、たまたま乗った列車に女の子の格好をした那智がいたのはビックリした。っていうか、何度も本当に那智かなって自分の目を疑ったよ。確信を持ったのは肩幅だった。男の子と女の子じゃ肩幅が微妙に違うの。なんていうか、しっかりしてるっていうか、骨が太いっていうか。それで、確信を持った時、思った。これを機に那智に近づけるって。これを理由に今まで近づけなかった那智に近づけるって。卑しい女よね、私」
「どうだろうね。でもどうして今、その告白を僕に?」
「分からない?」
妙な、衣擦れの音がした。体を僕に寄せる動きがあった。
「わ、分からないな」
「那智は私のこと嫌い? 虐めてる時、いつも目がキラキラ喜んでるけど、嫌い?」
「キラキラしてるっていうんだから、嫌いじゃないんだろうね」
僕は回答を渋るように、曖昧にするように、濁すように答えた。
潤が僕の背中に頬ずりする。僕はぐっと体を緊張させた。
「ズルいな、那智は。可愛くて、優しくて、私のことをこんなにもかき乱す。ねえ、那智はいやらしいこと、したくない?」
「いやらしいことっていうのが僕には想像つかない。だって僕は童貞だもの」
「分かってるじゃん……なんて笑わせて誤魔化すつもり? じゃあ、逃げられないようにしてあげる。私は那智とセックスしたいわ。那智は私とそういうこと、したくない?」
「何でそんなことがしたいんだ?」
「那智との繋がりが欲しい。確かな繋がりが欲しい。言葉じゃなくて、形式的な何かじゃなくて、物理的な何かが欲しい。変だと思う?」
「いや、変じゃないよ。何となく分かるよ、そういうの。付き合うのって何っていう感覚っていう感じ? 愛ってなんだろっていう感覚っていうのかな。曖昧なものをハッキリさせたい感情っていうのが一番近いかな。僕もたまに考える」
「じゃあ」
せきを切ったように潤は声を上げた。僕の寝間着をぎゅっと掴んで、声を上げた。
心が痛むけど、僕は彼女の希望を粉砕する。
「でも潤とはそういうことはしない」
「…………何で? 好きじゃないから? 私じゃ、興奮しない?」
「潤はとても美人だと思うよ。正直、僕は恵まれてると思う。興奮だってする。好ましいって思ってる。でも、僕は君と肉体的な関係を望んでいない。肉体的な関係を望んだ瞬間から、僕らの心の繋がりは弱くなる。そんな気がしてならないんだ。僕らは心で繋がってる。思いで繋がってる。でもそこにリアルで、現実的で、シュールな肉体的欲求が挟まったらどうなるだろう? 僕らは果たして幻想的で、理想的で、精神的な繋がりを維持できるだろうか? そんなことを思っちゃうんだ」
「わけ……分かんないよ。ねえ、女の子がどんな気持ちで、自分から抱いて欲しいだなんていうか、分かってる? 女の子が自分から好きだっていうことが、どれほど勇気のいることか分かってる? ねえ、ふざけてるの?」
ふざけてだなんていなかった。ピーターパンだって大人になるのが怖いから、大人になる前に楽園の子供を処刑するんだ。理想的なままの自分を変化させないために。変化を恐れているが故に。
今が幸せなら、その幸せを維持したいと思うのは当たり前だと僕は思う。それ以上を望むのは傲慢だし、身の丈以上のことを望んだ結果、不幸になってしまうということを僕らは経験則と先人の知恵から学んでいる。
「ふざけてなんていないよ」
「ふざっ、ふざけ……ふざけんなっ!! お前、ふざけんなよ! 那智は私のものでしょ!? それなのに、私に逆らって、私の要求を断って! コンビニであんなこといったら普通どう思いますかあ!? 好きな男の子が僕は潤のものだからっていい出したらどう思いますか!? いけるって思うよね? こりゃ私のルート入ったわって思うよね!? そりゃもうクールぶってる私も浮足立って、喜びを隠せませんよ!? それがどーでしょう、那智くんとはバッドエンド! ふざけんな、クソゲーですかこれは!? 私とセックスしろよ! 女にここまでいわせておいて、ここまでさせておいて、何もしないとか対外にしろっ!」
言いながら潤は僕に向かって何度も枕を叩きつける。僕はダンゴムシのように丸まって、それから耐えた。時折、拳や蹴りが混じったけど僕は不平不満を口にしなかった。
これは、明らかに僕のワガママだ。潤の気持ちを完璧に無視している。
「那智のアホ! 那智のバカ! 那智のオカマ! 那智の女装癖! 那智の、那智の……」
切れ切れになった言葉と攻撃。見れば彼女は泣いていた。ボロボロ涙を零して泣いている。顔を苦痛に歪めて、泣いていた。
そこまで僕に感情をぶつけてくれていることは素直に嬉しかった。心から僕を思ってくれているのだということが嬉しかった。
「僕は潤のもので、潤のオモチャで、奴隷だ。それが嬉しいし、誇らしいとすら思うよ。でも、いやだからこそ、それを失いたくない。何かをしてそれが崩れてしまうのが嫌なんだ」
「そんなの考えすぎだよ、私は変わんないって。だってこんなに那智のことを愛してる」
「だから、ダメなんだよ。付き合うっていうことは、相手のことを相手と同じくらい愛するっていうのは、相手のことを知ってしまうというのは、真逆の可能性があるということを知ってしまうことだから」
好きになるのなら、嫌いにだってなってしまう。潤をより知って、潤とより近くなって、潤と楽しみ、悲しみ、前を向いていけるのなら、それは素晴らしいことだけど、でもそこから転落することは素晴らしさに反比例するくらい恐ろしいことなのだと思う。想像するだけでも、足がすくむ。僕にはそんなことは耐えられない。そんな幸せから不幸に転落してしまうことがあるだなんて僕には我慢ならない。だから僕は変わらない今を望む。
「変わらないことなんて、ありえないじゃん」
「なら僕は少しでも長く今を維持することに努めるよ」
「那智は、おかしいよ」
「うん、女装癖があるくらいだからね」
「なんで、私はこんな奴のことが好きなんだろう」
「僕も気になるよ」




