#12
「た、例えば……例えばの話しなんですけど」
望ましくない言葉を、好ましくない言葉を僕は続けようとしている。情にほだされたのか、彼女に同病めいたシンパシーを感じてしまったのか、スルスルと手から水が落ちるように、言葉が止まらない。
「例えば?」
「例えば、好きな人とか気になる人がその、女装趣味だったとしたら、先輩はどう思いますか?」
そうね、と天井を見つめ、こちらを振り向くと彼女はにっこり微笑を浮かべた。水タバコのパイプを咥えてさえいなければ、気品のある仕草と言えたかもしれない。
「気色が悪い、と思うわ」
「うぐっ」
「でも、それが彼の趣味で、それが彼の望みで、幸福なら付き合ってあげないと、って思うくらいの許容はあるわよ」
「……よく分からない心理ですね。内心、気味悪がってるんですよね?」
「そう、引いてる。引いてるけど、でもそれを含めた人間がそこにいる彼なんだから、付き合ってあげないと」
「そういう……もんなんですかね」
「そういうものだと思います。一応、いっておくとね、結構、女の子は好きな人のためなら、少しくらい無理なことも付き合ってあげようっていう気持ちがあるのよ。多少、性癖とか趣味に温度差があっても愛でその差を縮めようって。理解してあげようって。それはきっと天野さんでも、私でも、あまり変わらないんじゃないかしら。何を許容できるか、という差はあると思うけれど」
理屈ではなくて、感覚として分かったような感じがする。好きになってしまった責任というか、好きになってしまったから、ある程度はしょうがないと思ってしまうというか。
ふと視線を感じて先輩を見ると、両手の人差し指と親指をピンと立たせて作った長方形をこちらに向けて、薄く笑っていた。ファインダーということなのだろう。
「那智くん、私は君が女装趣味でも全然許容範囲内だからね。絶望や苦しみや痛みを感じる姿っていうのは性別に依存しないから」
「さらっと怖いこといわないでください。あ、あと僕は女装趣味じゃないですから」
「天野さんに飽きたら私のところに来るといいわよ。それまで永遠に……いい? もう一度いうわよ。え、い、え、ん、に、私の隣は開けておくから。私のところに来てくれたら、君のあらゆる希望、あらゆる情熱、あらゆる感情を砕いて、引き裂いて、叩き壊して、何も見えない世界に連れて行ってあげる」
「何の宣言ですか。っていうか永遠とか止めてください。冗談にしては重いですよ、先輩」
相手を苦しめる方法をホント熟知してるな、この人。
「最後の一週間はね、まず視覚を奪うの。続けて聴覚を奪って、いろんな感覚を奪って、最後にはゆっくり毒物で殺してあげる。ウフフ」
まるで口説き文句のように先輩は少し頬を赤らめながら言っているけれど、とどの詰まりはサイコな宣言と、自分が望む性的趣向の暴露でしかない。
愛の言葉なんてこれっぽちも含まれていないじゃないか。
「先輩は僕のことを特別なオモチャとしてしか見てないんですね。今の僕をどうしたいかという言葉だって、噛み砕いてみれば自分のしたいプレイの羅列でしかないじゃないですか。先輩は人を好きになったことがないし、なることも一生ないんじゃないですか?」
「天野さんは違う、といいたいの?」
そうだ、とは言わない。言うつもりもない。
「まず先輩には気遣いがないんですよ。自分本位過ぎます。潤は少なくとも先輩みたいに一人よがりなことはしませんよ」
「随分、肩を持つのね。羨ましくて、嫉妬しちゃうな。でもね、那智くん。結局、愛するということは一人よがりなことなのよ。一人よがりと一人よがりのぶつかり合い。たまたまピースとピースが合う相手が見つけられればいいけれど、大抵はどれも当てはまらない。それもそうよね、この星には六十億のピースがあるんだから。そもそも当てはまるピースなんてものが存在するのかすら、怪しいものね。だから我慢して相手の形に合わせて自分を変えるか、相手を変えるかしなければならない。我慢して、変わる、変わったという事実に目をつぶる。知らないフリをする。本当は分かっているのにね」
「それが愛だと?」
「違う?」
「…………」
そうかもしれなかった。悲観的な言葉だけど、確かに愛というものを理屈だって説明しているように感じる。でも、自分の父と母が、あるいは周りの人間が、相手に無理に愛を強いている人間だとは僕には到底、思えなかったし、その理屈を受け入れることはできなかった。
それを認めた瞬間から、僕や周りの人間は、純粋な愛によって生まれた訳ではないのだということを決定づけてしまうような気がしたからだ。ただ相手に自分を押し付けた結果生まれたとか、種の保存のために生まれたとか、そういう味気ないものに感じてしまう。
そう考えるのは容易い。でもそれは思考停止じゃないか。
「納得いかないですね。小さな動物を見た時、僕は心から嬉しくなります。犬が僕にじゃれついてきてくれたり、猫を触っただけで嬉しくなります。それは愛じゃないんですか?」
「愛ではないわね。それは自分に付き従い、膝を折り、頭を垂れる奴隷に優越感を感じる感覚と同じものよ。人間本位の感情ね。いや、それも広義の意味では愛というのかもしれないけれど」
「先輩は愛を信じないんですか?」
ぐぐっと大きく胸を上下させて、先輩は細く白い筋のような鼻から息を出した。
「那智くん、信じる信じないということがもう既に、愛というものが虚構であると――」
「違うんですよ、違うんだ。僕は、誰のものでもない君が思う君の愛についての意見を聞いているんだ」
突如、先輩が口からぽろりとパイプを零した。大きく目を見開いた表情はあどけない少女を思わせる。子供が初めて手品を見たような顔。そんな驚きに満ちた顔が急にふにゃっと歪む。笑みに歪む。ついには先輩はクスクスお腹を抱えて笑い出した。フフフという上品な笑い声は、大きく口を開いたような笑いに変わっていく。
「あはははははは! な、那智くんは面白いわね。愛だの、君だの、情熱的で。しかも、自己中心的な欲望から自分を襲った相手に! ウフフ、こんなに笑ったのは久しぶりかも。馬鹿げた島の馬鹿げた風習を見た時以来かも。あー、お腹が痛い。フフフ。冷静に考えなさい、那智くん。私達、まだ十代よ? そんなに真剣になったって仕方がないと思わない?」
「ちゃ、茶化さないでください。僕は真剣なんですから」
先輩の笑みに釣られて、急激に冷静になってきた。僕も自分の言葉の恥ずかしさに赤面し始める。
確かに僕が言っていることは恥ずかしいかもしれない。きっと青い。でも、それでも、自分の生きている世界に愛がないとは思いたくない。
先輩は笑い涙を拭いながら、深く息を吸った。
「うん、そうね。ごめんなさい。年上としてちゃんと答えなきゃいけないわね。……愛というものは、そうね、幻想かもしれない。いろんな人が愛なんて存在しないって嘆いているものね。ただ、愛という概念がある以上、きっとこの世のどこかに愛はあると思うわ。概念があるのに、本物がないだなんて、おかしな話しでしょう? 恋はあるのに、愛がないだなんて不思議だと思わない? そんな不条理ってあるもの? 私は今、その希望を見つけたわ。スタンダールの言葉を借りれば、少しの希望で恋は生まれる。恋が生まれるのなら、愛だって生まれなければおかしい話しよ。ねえ、那智くん。その先を私と一緒に確かめてみない?」
先輩は僕の膝の上に手を乗せて、前のめりに微笑んだ。邪悪さが微塵もなくて、僕は少し、いやかなり怖気づいた。
何だこの空気は。っていうか先輩ってこんなに美人だったっけ。
「先輩ってこんなに美人でしたっけ?」
口に出てしまった。
「私はね、もう一つのピースを見つけたのかもしれないわ」
「あ、あああああの……」
生ぬるい水の中にいるような感覚。全身が重い。時間が遅い。外の喧騒が遠い。それなのに息は、呼吸は速くて、後光を背負った先輩は眩しくて、先輩は小さくて、先輩の胸は小さく上下していて、あれ何で先輩は目を閉じたんだ。なんだこの空気。ちょっと待ってくれ。さっきから脳裏に潤の姿がちらつく。何でだろう。無表情に僕を見つめている、潤の姿が……。
不意に視線を感じて、僕はそちらを見た。潤が微動だにせず、笑いもせず、怒りもせず、音も立てず、瞬きひとつとらないで、裁縫室の入り口の、嵌めこみガラスの向こう側から僕を見ていた。




