#11
それから僕は……僕らはコンビニで僕の下着とジュースを買って、足早に出た。店員が何か言いたげな顔つきだったのは、おそらく監視カメラで状況を確認していたか、遠巻きに見ていたのだろうと思う。
潤はあまり気にした様子ではなかったけれど、僕としては無性に居心地が悪かった。
「じゃあ、那智くんはともかくとして、天野さんはコンビニ使えないね。下手したらレズビアン扱いだもの。それでお風呂は一緒に入ったの?」
「いえ、流石にそんなことはしてません」
「じゃあ、セックスはしたのかしら。ご両親が下で寝てるの中、二人で息を殺すようなセックス」
「……してません」
「あら、そうなの? 今、間があったような気がするけど」
「さっきから吸ってるそれ、何ですか?」
「ああ、これ?」
部室の壁に椅子を寄せて、背をもたれながら、先輩はガラス製の燭台のようなものを両手で抱え、そこから伸びる管から何かを吸引していた。僕も先輩に倣って、壁際に椅子を並べ、背をもたれていた。
先輩の異様に落ち着き、間延びした声から察するに医療器具か何かなのかもしれない。呼吸を何度も深く繰り返している辺り、どこか悪いのかな。
「これは大麻吸引機。水タバコ。学校の庭で育ててた子がいい具合になってきたから」
前言撤回だ。このアマ、腐りきってやがる。学校の庭でこっそり何を栽培してやがったらしい。しかも、それを学校の中で消費しているというこの恐ろしさ。きっと先輩には死も、恐怖もないのだろう。
何故、僕がこんなイカレ女に潤と僕のことを逐一教えなければいけないのだろうかと、額に手を当てて考える。ああ、そうだ。先輩が放課後、僕を教室まで迎えに来たからだ。潤と待ち合わせしていると答える先輩は言った。
「なんでも“誰か”が担任にクラス内でイジメがありますっていう手紙を匿名で担任に出したんですって。それで今、担任と学年主任がありがたいお説教中で、遅れるらしいわ」
やけに訳知り顔で、彼女はそういうと僕の手を掴み、部室まで引っ張っていった。多分そのありもしないイジメの手紙を書いたのは先輩だろう。先輩は僕と二人きりになるために、そのようなことをしたに違いない。
表面上の動揺は少なかったと自負がある。先輩に乱されるような心ではないのだと強く胸を張っていたはずだ。しかし正直なところ、内心では泣きそうなくらい怖くて、震えていた。潤がいない今、何があってもおかしくないと思った。
でも部室につくと、予想に反して先輩は頭を垂れ、先日のことを謝罪した。曰く、先輩は異常性癖の持ち主で、他人の苦痛を見ることでしか快楽を得られない人間で、あまりにも僕がそそる相手だったので劣情を抑えきれなかったそうだ。何言ってるんだコイツと思った。
絶賛動揺中の僕に続けて言った。
「天野さんの家に泊まったみたいだけど、二人はどういう関係なの? なんで那智くんは女の子の格好をして出かけていたの?」
それから先輩は僕らが帰った後、すぐに尾行を開始したこと、家の前に分刻みでシャッターを切るカメラを置いていたことを全く悪びれる様子もなく語った。
「誤解しないでほしいのよ。二人をストーキングしようとか、二人に恨みがあってとか、そういう訳じゃないから。尾行したのは那智くんが一人で帰ってくれれば、偶然を装って“続き”ができると思ったからなのよ。フフフ、そんなに青い顔しなくても大丈夫。私、人のものを欲しがる程、貧窮してないから。……それで、あっ、どこ行くの? え? 帰る? もう部活には来ない? まだ話し聞いてないわよ? 教えてくれないと、私、泣いちゃうよ? 泣いて、叫んで、天野さんを殺しちゃうよお? フフ」
振り返り、邪悪極まりない笑みに僕は狼狽えた。心底、狼狽えた。
先輩が脅しなどというチンケなことをするわけがない。先日の溢れんばかりの狂気を目にした僕にはそれがよく分かる。これは選択を迫っているだけなのだ。AランチとBランチ、どちらがお好みでしょうかと。君の話してくれることで私を楽しませてくれるか、私が巻き起こすことで君が楽しませてくれるのか、どちらですかと彼女は言っているのだ。
薄く開いた瞼の向こう側で爛々と黒く力を増していく輝きを前に、僕は素直に話しをする以外道はなかった。
「さっきあげたクッキー食べなよ。喉が乾くなら、ハーブティ入れてあげる」
先輩はコポコポTHCを吸引しながら優しくつぶやく。このクッキーも、そのハーブも何が原料か分かったものじゃない。よって僕は首を振って拒絶を示した。
「そう? 凄く美味しいのに。ええっと、それで、どこまで聞いたのかな?」
「先輩が非合法なものを愛用している、というところまでです」
「あっ、那智くんが非童貞になったところまでだっけ。悲しいなあ、最初は私が硬くて冷たいコンクリートの上で殴りながら、絶望とともに刻みつけようと思ったのに。耳元で囁くセリフも決めてたのよ。他の女の子とする度に今日のことを思い出してねって」
「……先輩は早く逮捕されるべきです。もしくは病院に行った方がいいですよ。前科もいくつかありそうですし」
くたばれ、気狂いがと叫びたかったけど、何とか理性的に留める。きっと僕がそう言ったところで、彼女は意に介さず笑うのだろうけど。
目をとろんとさせて、先輩は笑った。薬物が効いてるらしく、いつもより邪悪さは薄い。
「それは無理ね。私は死んでも変わらないわ。変わるつもりもない。私は確かに他人の苦痛で興奮する性だけど、それを後ろめたいだなんて思ったことはないわ。寧ろね、これほど快楽を感じる瞬間が多い世界に生まれてきたことを幸福にすら思ってる。誰よりも幸せになるつもりだし、誰よりも私は幸せ。那智くん、肝心なことさっきから話していなかったようだから、あえて聞くわね。那智くんは女装が趣味なの?」
「あ、あれは潤が僕に無理やり……」
「うんうん、無理やり着せたものであるということは分かったわ。でもね、それはクエスチョンの『那智くんは女装が趣味なのか』というアンサーにはなっていないのよ。関連事項ではあると思うけど。天野さんが那智くんにそうさせたというよりも、那智くんにそういう趣味があるという方が幾ばくかの真実味があるように思うけど」
今、僕は一体どんな表情を顔をしているのだろうか。真っ赤に染まっているのか、冷静をちゃんと維持しているのか。少なくとも黙り続けているのは肯定にしかならない。
「違います」
「また、少し間があったみたいだけど」
「それは先輩の中でもう既に答えがあるからですよ。最初からこうだって決めつけてるから何でもそう見えるんです」
「それは……そうかもしれないわね。那智くん、結構賢いのね」
「薬物に手を出す先輩よりは賢い選択ができるつもりです」
先輩は急に窓の方を眺めた。僕も釣られてそっちを見る。薄い光に仄かにオレンジ色の夕日が混ざり始めている。もう少し経てばコバルトブルーの夜が混ざり、幻想的な景色を生む。僕はその曖昧な夕闇の景色が好きだった。
「那智くんは薬物に逃げる人間の気持ちを考えたことがある? 彼らはどうしようもなく弱く、卑小で、何かに縋り、何かを縁としなければ今を耐えられない人間。そんな人のことを考えたことはある?」
「先輩がその弱い人間だというんですか?」
「最近、近所で交通事故があったの。乗っていた子供を残して、ご両親は死んでしまった。その子がいうには飛び出してきた子供を避けようとして、ハンドルを切ったため両親が死んでしまったというのね」
「悲しいですね」
「でもその証言は多分、嘘なの。多分、別の要因が事故の原因だと思う。よしんばその事故が子供のいう通りであったとしても、スピードを出しすぎていたという事実は頑然たるものよ」
「それがどうかしたんですか?」
「那智くんはその弱い子供をどう思うの? 自分が、あるいは自分たちが悪いとは思えなくて、逃避する子供をどう思うのかしら?」
「何とも思わないです。少し可哀想だなとは思うけど、そこまで思えるほど、親しくないから、多分」
何が言いたのか分からなかった。先輩は何かを僕から引き出そうとしているのは明らかだけど、それが掴めない。
「その子が天野さんだったとしたら、どう感じる?」
「何も」
「どうして?」
「潤がそういうなら、そうだと思うからです」
「那智くんは男前ね。そんな格好いいこといってると本気になっちゃうよ。私はね、その子の話しを聞いていて笑ってしまったわ。嬉しくて、他人の絶望が嬉しくて、私は笑ってしまったの。親戚の子だったのに」
「…………」
緩やかな光の中、コポコポとTHCを先輩に供給し続ける水タバコの音だけが響く。先輩の声に変化はない。態度にも変化はない。ただこちらを見ないでどこか遠くを見ているだけだ。
でも何故かそこには人を食ったような態度の邪悪極まりない先輩ではなくて、ただひとつ年が上の、自分の性に苦しむ少女が座っているような気がしてならなかった。