カミキリムシ
遡ること一週間前の朝、学校に行く支度をしている時。
俺の好きな季節は、と言うとだな。それは秋! 涼しい風が吹いてて、ちょっと虫は多いけど、一年間こんな季節だったらどれほど幸せだっただろうか?
なら逆に嫌いな季節は、と言うと……今みたいなジメジメした梅雨の季節ですよーだ。だってメッチャ暑苦しいんだぜ。湿気という厚いベールを押し広げないと歩くことができないこの重々しい季節をだなぁ。誰が好むんだ?
おまけに見てみろよ。吉純の週間予報を……。今年は長期化するらしくて、あと一週間は梅雨明けしないらしいぜ。
俺は天気予報のやっていたテレビの左上にあるデジタル時計をふと見て、自分が何時間妄想……じゃなくて、梅雨を愚痴っていたのかを瞬時に理解した。
「やべ! 遅刻しそうだし! えっと鍵鍵……」
アパートの鍵を手にした俺は、玄関に置いてある傘を掴むと、急いで外に出たのだが……。
開いた扉の前に、ある物体がいるのに目がいった。
「何だ? カミキリムシじゃねぇか? って時間時間!」
もともとこの地域は田舎で山に囲まれてるし、カブトムシがベランダにいるのとかもよくあることだったから、特に気にすることなく傘を差さずに急いで学校へ向かったんだ。
雨でビショビショになるし、結局遅刻だったけどな。
んで、時間が過ぎてその日の学校の帰り道、友達と別れアパートの敷地に足を踏み込んだ俺は、ふと今朝のカミキリムシのことを思い出してしまった。
あれって確か……。
「って、まだ居たし」
俺は今朝と同じカミキリムシが玄関の扉の前にいるのを確認した。
「何だ? 雨宿りでもしてるのか?」
少し奇妙に思った俺は、カミキリムシを避けながら玄関の鍵を開け……。
「って! 鍵掛けるの忘れてた!!」
やっべぇ。何か盗られてないかな? 通帳あるだろ? 実印あるだろ? ゲームあるだろ?
と、その時はカミキリムシどころでは無かったのだった。
そして翌日、俺はこの日何かが起こるだろうと予言した。
だって、昨日はあと一週間も整列していた傘マークが全て晴れマークになってるんだぜ? カーテンを開くと、雨雲から射す神秘的な朝日が目に入るほどの好天じゃないか。
この天気には気象予報士の吉純も驚いてやがったわ。
で、その日最初の何かと言うのが、例のカミキリムシ。昨日の夕方はすっかり忘れてしまったけど……。
そんなことを考えながら俺が玄関の扉を開けると、いつもと少し違う場所にやっぱり居た。そして俺をチラッと見たような素振りを見せては、大きな羽を広げて、梅雨の晴れた雄大な空へと飛び立っていったのだ。
まるで、長雨の間お世話になりました。と言ってくれたようだった。
何にもしていないけど、何か気分がいいな。さて、遅刻しないように行こっか。
久しぶりの晴れ空だ。
水たまりに映る淡く澄み晴れた空に、田んぼから迷い込んだアメンボたちが集まっていた。
この辺りでは全国的に有名なお米が作られていて、この長雨を気にしていた農家の人が、朝早くからまだ若い稲を一つ一つ見て回っていた。
あれだけの雨にも屈することなく、人によって植えられた場所にしがみ付き、窒息しないようにと高く伸びようとする稲の様子をイメージすると、今の俺は何もできないちっぽけな存在のように思える。
これが今日二つ目の何かかな? 季節の節目って、神秘的だと思った。
しかし、その悠長な心は長く持たなかった。
「ほーら、この前やった定期考査の全教科の答案と成績表返すぞ。呼ばれた奴から取りに来い」
あぁぁぁ!! きっと悲惨な点数になってるに違いない!! せめて、せめて平均点はあってください。
あぁ、出席番号順に呼ばれてる。そもそも、出席番号とは誰が考え付いたのだろうか? きっとA型の多い日本人だからこそ考えついた――。
「道田! おい道田!」
「はいっ!」
不意打ちに呼ばれたような、この緊張感。席を立ってから担任の許まで行く時間。
いざ、勝負!
決心を付けて担任の前に立った俺は、一言、お言葉を頂いた。
「教師になって以来、お前のような点数を採った奴は初めてだ」
くっそぉぉ。どういう意味だ? そんなに悪かったのか? それとも全教科全問正解だったのか?
まあ。九十九パーセントの確率で前者であろう。後者なんか、後者なんかあり得ない! と思っていても、後者でありますようにと欲望する俺がここにいる!
そして、さっきの担任の発言に興味を持った野外が、自分友人の成績よりも俺の方を気にしているに違いない。
あぁ、神様。私の点数はいかほどで……。
「え?」
点数を見た俺は唖然とした。なんと、後者はもちろんのこと、前者と言うわけでもなかったからだ。
「何か同じ点数が二つずつ……」
「まさか、全ての科目が全て平均点と同じだったとは、先生ビックリしたよ」
太陽の反射で眼鏡が輝いていて分からなかったが、担任はきっと泣いている。
この作られたような奇跡に近い点数に、感激のあまり涙を流している。
何かおかしい。今日は何かがおかしい。
いつも以上に足早で帰宅する俺は、今日の出来事を振り返った。天気予報は大きく逸れ、カミキリムシには感謝され、全て平均点だった俺の定期考査に担任は涙を流し、これ以上の偶然がこう何度も続かれては、流石の俺も通り過ぎるわけにはいかなかった。
ハッ。そうか、これは誰かに仕掛けられた罠――。
その時、俺は全ての思考を止めた。
アパートの二階にある俺の部屋。二〇五と書かれた扉の前には、例のカミキリムシが居たのだから。