抱きしめ合うたび 何故か僕らは過去へと逃げてった
「いってきます。」
「うん、いってらっしゃい。気を付けてね。」
旦那である芳樹君の出勤を見送って、私は家の仕事を始める。
と言ってもたいしたことはしない。要領よくやれば午前中にはほとんど終わってしまう。
私たち夫婦は学生時代に出会って、色々あって、今はこの家に二人暮らし。
芳樹君は仕事をとても頑張ってくれていて収入は多く、私は外で働く必要がない。
「働きに出るのも気分転換になるかもよ?」って言ってくれるけど、私はそれで家のことが疎かになるのが怖くて一度も働きに出たことがない。
世間一般で言うと私は幸せなんだろうな。
私も不幸だなんて思ってない。
とても幸せな日々。
でも、なんか・・・。
私たち夫婦には子供ができなかった。
芳樹君は気にしないと言っているし、私も特別子供が欲しいとは思っていなかった。
でも、もし子供がいたら。私のこの気持ちも少しは変わっていたのかな。
そんな詮無い事を考えてしまうのは何故なんだろう。
「ただいま。」
「おかえりなさい。お疲れ様。」
芳樹君との生活に不満なんてない。
「ごめん、今日もちょっと・・・いいかな?」
「もー、しょうがないなあ。・・・最近頑張りすぎなんじゃない?」
芳樹君は仕事で嫌なことがあると私に甘えてくる。
私もそれが嫌ではないので、それに応え二人でしばらく抱き合っていた。
・・・こうしている間は、私たちは出会ったころ、学生時代の青春に戻れるような気がする。
それは心地よさのなかに僅かな焦燥感のあるものだったが、それを彼に感じさせるわけにはいかなかった。
「お仕事、大変?」
「ああ・・・。皆が最善のことをするとさ、皆にとってよくないことになるんだ。何言ってるかわかんないと思うけど、俺もどうしていいかわかんなくなる時があるんだ。俺が何をしても、何もしなくても、誰かがしわ寄せで不幸になる。それがわかっちゃうと、もうさ。・・・ごめん。上手く言えないや。」
「ううん。大変なんだってことだけは私でもわかるから。私は気安く頑張れなんて言えない。私は芳樹君に無理はしてほしくないよ。もし私にできることがあれば、もっと頼ってほしいな。」
「今でも十分頼ってるよ。家のことを完璧にやってくれてるし、それに、こうやってつまんない愚痴にまで付き合ってくれて、ありがとう。こうして帰ってこれる場所が、安心できる場所があるから、俺頑張れるんだ。」
「私は何があっても芳樹君の味方だよ。だから、そこは安心していいよ。」
「ああ、・・・ごめん。もう少し・・・このまま・・・。」
「うん・・・。」
数分して、芳樹君は私の胸の中で穏やかな寝息をたてた。
その顔は昔を思い出させるあどけなさが残っていた。
昔もこうして彼を抱いていた気がする。
時間が過ぎても、私たちの関係はあのころから変わっていない。
何も、変わっていない。
私たちは・・・。
それから数カ月経ったある日の朝。
いつもだったらもう起きている時間なのに、芳樹君が起きてこない。
「芳樹君、寝坊?あれ・・・、芳樹君?・・・ねえ。芳樹君!」
「え?そんな・・・・。」
芳樹君は、病気になってしまった。
体も、心も。
もう今までのような生活を続けることはできない。
一旦仕事を辞め、しばらくは休養をとることになった。
それでも、体は治っても心には多少の後遺症が残るかもしれないとのことだった。
「ごめん、心配かけて。早く治して、また働かないと。」
「何言ってるの。今はそんなこと考えなくて大丈夫だよ。お金ならちゃんと貯めてあるから。心配しなくていいんだよ。」
これは世間一般では不幸な出来事なのだろう。
「大変だね。」「苦労するね。」「偉いね。」
私は周囲の人からそんなことを言われるようになった。
病気の旦那を甲斐甲斐しく世話する妻、周囲からはそう見えるらしかった。
でも私にはそんなことはどうでもよかった。
だって私に労いの言葉をかける人達はみんな「私たちはそんな目に合ってないから、良かった。」って思っていたから。
病気になってしまった芳樹君を見て、世話をする私を見て、自分たちは大丈夫と安心している人たちのことなんてどうでもよかった。
でも私も、本当は人の事は言えないんだ。
だって私は、芳樹君が病気なってしまって、それを内心では喜んでいるんだから。
これで私は彼の役に立てるって、思ってしまう。
これで私たちは、つらいことがあったとき過去を振り返るばかりの二人ではなくなるって。
ああ、やっと私たちの関係は、前に進めた。




