正常な僕ら
この世界は、あまりにも白すぎて目が痛くなる。ドームに覆われた街も、言葉も、人々の思考さえも漂白されたような無菌室。その中で、僕の腹の底にあるドロドロとした黒い澱だけが、唯一の異物だった。
「かわいそうに」
目の前の恋人は、聖母のような顔でそう言った。眉を八の字に下げ、澄んだ瞳で僕を見つめる。その表情は、博物館に飾られた絵画のように完璧で、そして死ぬほど空虚だ。
彼らはすぐにこう言う。その人の人生の何を知っているわけでもないのに、ほんの少し規格から外れただけで、上からの目線で「可哀想」とラベルを貼るのだ。
「大丈夫よ。明日の手術を受ければ、その『悪いところ』は全てなくなるわ」
僕の頬に触れるその手は、冷たい。違う。僕が憎んでいるのは、この汚い感情なんかじゃない。それを「なかったこと」にしようとする、その透き通った傲慢さだ。
♢
彼女が眠りについたあと、僕は窓の外に広がる無機質な街を見下ろした。平和維持ドローンの光と、規則正しく並んだ街灯が、墓標のように続いている。
昨日の「適性検査」を思い出す。ガラスの向こうで、検査官は僕にこう言った。
『君だけの色彩を見せてくれ』
何度も問わせる問い。これまでの人生で何度答えただろうか。この答えは決まってる。彼らの中で「加点」とされる回答の中から、自分が答え易いものを選ぶだけでいい。例えば、「システムの役に立ちたい」とか「新しい何かを開発したい」だとか。それに自分のエピソードをすけ加えれば完成だ。それだけで、テンプレートから自分だけの色彩になる。
なんて薄っぺらいのだろうか。まぁ、こんなことを言っているが僕もこれまで、そう回答してきた。生きるためには仕方がなかった。
しかし、なんだか昨日は違うことを言ってみたくなった。少し、気になってしまったのだ。隣に居る彼女が、先日の検査で引っかかり、別人のような「白い人形」に変えられて帰って来たからかもしれない。
だから僕は、腹の中に渦巻く憤りや、この世界への疑問。僕の持つ「赤」や「黒」の欠片を混ぜてみた。すると彼らは、汚いものを見るように眉をひそめて、手元のタブレットに書き込んだ。なにを書いたかなんて容易に推測できる。「不適合」だ。
帰り道、街頭スクリーンから演説する声が聞こえる。ここ最近ずっと同じ言葉を聞いている気がする。何がいいんだか。何度聞いたって理解できない。
『この世界には、新しい風が必要なんだ』
彼らはそう演説しているが、嘘っぱちだ。彼らが欲しいのは、計算通りに吹く空調の風だけ。本当に世界を変えるような風が来たら、彼らは真っ先に窓を閉めるくせに。
色彩を出せと言ったり、協調性がないと言ったり。たった15分。ガラス越しの検査で、僕の何がわかるというんだ。僕が夜に1人で何を考え、何に涙し、どんな痛みを抱えているかも知らないくせに。彼らはベルトコンベアを流れる部品を検品するように、僕に「不適合」の判を押す。
ふと、公園で遊んでいる子どもとそれを見守っている親たちに視線が吸い寄せられた。頭にノイズが流れる。急に空気が煙たくなった気がする。反射的に鼻と口を覆い、眉を顰めた。古い記憶が蘇る。僕がまだ、この世界の「異常さ」に気づいてなかった頃の記憶だ。
♢
お母さんが死んで一年も経たないうちに、お父さんは新しい母親を連れてきた。彼女はいつも笑顔だった。その笑顔で、家の中にあったお母さんの痕跡を次々とゴミ箱に捨てていった。泣いて「やめて」と訴える僕に彼女は微笑みを張り付けたまま、囁く。
「泣かないで。そんなに心を乱してしまうような記憶は消してしまった方がいいわ。ほら、そうすれば辛くないでしょ?」
喉が痛いほど詰まっていた。胃から熱い何かが出てきそうだった。この時初めて僕は怒りというものを知った。
消す? 誰を? なんで?
言葉の代わりに出てくる空気は信じられないほど熱かった。
「あの方は、もう居ないのだから私をお母さんと呼んでちょうだい」
夕食の席で、彼女は朗らかにそう言った。お父さんはいつものように笑っていた。僕は箸を握りしめ、消えてほしいと思った。僕の大切な人を汚すな。僕から母さんを奪うな。お父さんを奪うな。僕には、僕には、もう、お父さんしか居ないのに。こんなにも何かが爆しそうなほど、僕の息を乱すのに、まるで首輪をされているように何も言えなかった。
翌日、僕は学校のメンタルケア室で、先生に全てを吐き出した。先生はいつも僕の話を聞いてくれて、肯定してくれる。だから、言葉にしてみた。
あいつが憎い。許せない。消えてほしい。
先生は、困ったような顔でタブレットに何かを書き込み、そして優しくいったのだ。
『かわいそうに。お母さんが死んで、精神のバランスが壊れているんだね』
先生は、慈愛に満ちた目で僕を諭した。
『新しいお母さんは、君を愛そうと努力しているのに。そんな暴力的な事を考えるなんて、やっぱり君は「病気」だよ。お薬出しておこうね』
まただ。またいつもの薬だ。いつもなら素直に飲んでた。でも、今はその薬が毒々しく色づいて見える。
僕は期待していた。この人なら、この湧き出す何かを認めてくれると思っていた。だが、結果は違った。僕は悟った。この世界では、「死者への愛」よりも「生者の平穏」が優先される。誰かを深く愛することも、そのために怒ることも、ここでは「病気」というラベルで処理されるのだと。
♢
そんな息の詰まる世界で、僕は彼女と出会った。大学の裏手にある立ち入り禁止の旧校舎。巡回ドローンや監視カメラの死角になっているそこは、僕がよく使う避難所だった。
ある雨の日、先客が居た。彼女は、埃まみれの床に蹲って泣いていた。この世界で「涙」は、胸が痛むときに出る物じゃない。精神汚染のサインだ。見つかれば即座に施設に連れていかれる。かつての僕がそうされたように。幼い頃だった為、薬を処方され、定期健診を必要とするだけで済んだが、この年になればそうはいかないだろう。
彼女は僕に気づくと、ビクリと肩を震わせて顔を上げた。
「…通報するの?」
震える声で彼女は問うた。その瞳は赤く腫れていて。不安に揺れていて。この白い世界でどんな者よりも、鮮やかで美しかった。
ひと目でわかった。自分たちは同じだと。
「しないよ」と僕は言った。「僕も、病気だから」
この白ばかりの世界で、僕らが恋に落ちるのは必然だった。
僕たちは雨の降る旧校舎で、何度もお互いの傷を見せ合うように言葉を交わした。
「この世界は息が詰まるわ」
「あぁ、あまりにも綺麗だ」
僕たちは「同じ」だった。
この胸の中で渦巻く黒い何かを共有できるのは、世界でたった2人だけだった。それは、僕の人生の中で、あまりにも幸せ過ぎる時間だった。
だから、僕たちは忘れていた。生まれてから3年に一度、必ず行われる適性検査のことを。彼女は今年がその検査の年だった。
彼女は引っかかってしまった。数値の異常がバレて、執行官たちが彼女を連行しに来た時の絶望を、僕は一生忘れない。咄嗟に彼女の手を掴んだ僕の手を振りほどき、彼女は泣きながら笑って、連れ去られた。
そして半年後。彼女は戻って来た。僕の愛した「人間」としての彼女は殺され、完璧な「人形」へと書き換えられて。
♢
そして今日。ついに僕にも「不適合」の通知が届いた。明日の朝、僕は手術を受ける。彼女が眠るベッドの端に腰掛け、僕は自分の掌を見つめた。
明日になれば、この胸を焦がすような怒りも、両親と彼女を愛おしく思う切なさも、全て消える。僕は父さんや新しい母親と同じように、ヘラヘラと笑う「白い人形」になるのだろう。それは「救い」なのかもしれない。もう苦しまなくて済むのだから。
ふと、視線を横に向ける。青白い月明かりの下、彼女が穏やかな寝息を立てていた。あまりにも美しく、整いすぎた寝顔。そこには、かつて僕たちが旧校舎で共有した「痛み」も「熱」もない。
あぁ……嫌だ。
このまま何も残せずに、僕まで消えてしまうなんて。
最後に、見たい。
システムに奪われた、本当の君に会いたい。
明日、僕の心が死ぬ前に、一度だけでいいから。
そして…僕を…
僕は静かに手を伸ばした。僕の両手が、彼女の細い首にかかる。
「……ん、ぁ……?」
彼女が薄く目を開けた。僕を見ても、彼女は状況が理解できていないようだった。恐怖も警戒もない、虚ろな瞳。僕は指先に力を込めた。
「……っ!?」
喉仏が圧迫され、彼女の表情が強張る。酸素を求めて、彼女の手が僕の腕を掴んだ。最初は優しく、諭すように。でも、僕が力を緩めないとわかると、その力は次第に強くなる。
苦しめ。藻掻け。生きようと抗え。
その生存本能こそが、君が人間である証拠だ。
彼女の爪が僕の皮膚に食い込む。肉が裂け、血が滲む。鋭い痛み。でも、その痛みこそが、彼女が半年ぶりに僕にくれた「本物」だった。
「が……っ、あ……!」
彼女の顔から、あの貼り付けたような聖母の微笑みが剥がれ落ちていく。白目が剥き出しになり、美しい顔がくしゃくしゃに歪む。僕を見上げる瞳に宿ったのは、慈愛でも同情でもない。明確な、「恐怖」だった。
ああ、なんて醜くて、愛おしいんだろう。
僕の知っている君は、そんな顔をしていたね。
部屋の外から、ドカドカと荒々しい足音が近づいてくるのが聞こえる。異常を検知した治安維持部隊だろう。もう時間は残されていない。明日の手術を待たずして、僕は廃棄処分されるかもしれない。それでもいい。
僕は視線を戻し、目の前でガタガタと震える彼女を見つめた。僕の腕をひっかき、涙を流して睨みつける彼女。その鮮やかな表情は、連れて行かれる前、僕たちが旧校舎で笑い合っていた頃の彼女そのものだった。
やっと、会えた。
僕が消えるその前に。
扉が蹴り破られる直前、僕は涙を流しながら、最高の笑顔で彼女に告げた。
「おかえり。病気の君の方が、ずっと素敵だよ」




