3平民あがりの分際で目障りよ
エルムランド国立貴族学院の朝は、静謐とは程遠い。
広い中庭には色とりどりの制服が行き交い、噴水の周りには笑い声がさざめく。
ここには貴族の出自の者しかいない。
小さな社交界がいくつも生まれている。
誰がどこの家の何人目の子か。
誰と誰が親しいか。
誰が誰に頭を下げたか。
誰と誰が婚約間近か。
この学院では、授業などよりもそれらのほうが重要だった。
貴族同士の駆け引きやうまい立ち回り方を、各名家の子息や令嬢は学ぶのだ。
その喧騒の端、校舎の裏手の回廊で、小さくすすり泣く声がしていた。
「……ひどいわ、どうして、こんな」
一人の少女が、石壁に背を向けて俯いていた。
制服はまだ新しく、刺繍もまぶしい。
だが袖口は不自然なほどぶかぶかで、ぐすぐすと涙をぬぐう所作にも貴族らしい洗練さは見受けられない。
彼女の名は、ヘレナ・ホフマン。
ここ最近、男爵家の養女となった少女だった。
赤茶色のウェーブヘアにうっすらそばかすの浮いた、化粧っ気のない姿は、お世辞にも洗練された令嬢とは言い難い。
元は平民の身。
商売で財を成した父が爵位を買い、娘を学院へ入れたのだ。いわゆる、成り上がりだ。
「教科書が……」
ヘレナの手元にはボロボロに焼かれた教科書の表紙だけがあった。中はもう燃えてしまったのだろう。
表紙に名前があるところからすると、誰かに嫌がらせで燃やされたのだろう。
後ろでは数人の令嬢がひそひそと笑っていた。
「平民あがりですものね」
「授業についていけるわけありませんわ」
「忘れ物ではなく、最初から持っていないのでは?」
「さっさと町中の肥溜めに帰ればいいのだわ」
少女は唇を噛み、俯いた。
否定しようにも、何も言えない。
そのときだった。
ドサッ!
彼女の腕に本の束が押し付けられた。
「平民あがりの分際で目障りよ。さっさと涙をお拭きなさい」
顔を上げると、そこにいたのは金髪の美少女だった。
「あ、あなたは……?」
冬の湖面のような青い瞳。
凛と伸びた背筋。
そして、周囲の空気が一歩下がるような気配。
只者ではなさそうだ。
「フン、わたくしを知らないですって?」
「え……あ、はい、ごめんなさい……」
「全く、昼下がりの陽気もかすむほどのジメジメした方がいると思えば。あなたが、ミス・ヘレナね」
「えっ、はい、私がヘレナですが。なぜご存知なのですか?」
金髪の令嬢は冷たくヘレナを見やった。
「この学院に足を踏み入れて強く生きていくためには、ここにいる貴族の情報を全て握っている必要があるわ」
「す、全て?」
「わたくしはレディ=エリザベート=ブライエンシュタイン。家業はブライエンシュタイン運輸公社よ。わたくしに気が付かない時点で、ヘレナ、貴族たちから見たあなたの評価額はゼロなの」
「ブライエンシュタイン運輸公社って、あの、超巨大な!?」
「さすがにそれはご存知だったのね。よろしいこと? ここで生きていこうと思っているなら、貴族の顔と名前、婚約者や家族構成、長所と短所、好きな食べ物から飼っている猫の名前まで、くまなく知っていないといけませんわ」
「猫の名前まで!?」
「平民と、わたくしたち貴族の常識は違うのです。貴族になって貴族として生きるならば、学ばなければなりません。同級生の1人が昨日何を食べたかが、家の存続を左右するような世界なのですわ」
ヘレナは絶望しきって、涙でぬれた顔を歪めた。
「ひええぇ……ダメです、私もう退学します……そもそも成金の娘が、こんなところ場違いだったのです」
エリザベート・フォン・ブラィエンシュタインは、つまらなそうに扇を開いた。
「わたくしの鞄持ちをなさい」
少女の肩を扇の先で軽く叩く。
「平民あがりはそれで十分だわ」
周囲の空気が凍る。
令嬢たちの口元がわずかに歪む。
「さすがですわ、容赦がない」
「噂通りの冷酷さですわ。しびれますわ」
ヘレナが下を向いて俯くと、エリザベートはこともなげに言った。
「わたくしの教科書を差し上げるわ」
「えっ!?」
「ここにあるものを全て使いなさい」
「全教科分!? で、ですが……お嬢様は」
「当然ながら、すべて頭に入っておりますわ。それこそが貴族の務め」
「……で、ですが」
「礼など不要よ。あなたが平民から本当に貴族の世界に這い上がりたいなら、役に立つ知識が入っているわ。私の鞄持ちをするなら、それくらいは学びなさい」
エリザベートはそれ以上見もせず、回廊を歩き去った。
少女は慌ててその後ろを追う。
*
昼休み。
ヘレナは再び校舎裏にいた。
今度は泣いてはいない。
ただ、困惑した顔で鞄を見つめていた。
「酷い……」
パーティーの招待状が破られていた。
それは伯爵令嬢主催の、王族臨席の春のパーティーのものだった。
男爵家として初めて届いた正式な招待状である。
鞄に入れていたものを、誰かに破られていたのだ。
「身の程を知りなさいな」
声が降ってきた。
振り返ると、エリザベートが立っている。
「も、もしかして破いたのは」
「ええ。わたくしよ」
パラパラ、と紙吹雪が舞い落ちる。
ヘレナは絶望して、泣きもせずそこに佇んだ。
「ど、どうして、そんな……」
「ミス・ヘレナ。魔獣の巣窟に小兎が丸腰で乗り込んだら、どうなるとお思い?」
少女の肩が震える。
「で、ですが……父が行きなさいと……」
「捨て置きなさい」
冷たく言い切る。
「差し出し主はグレイヴンウッド伯爵令嬢。社交界の中でも『令嬢潰し』と呼ばれている女性よ。そんな方の招待にのこのこ出ていっても、今のあなたはただ笑われるだけよ」
少女の目に涙が浮かんだ。
「どうして来なかったかと詰め寄られたら、わたくしに招待状を破り捨てられたと正直にお話なさい」
エリザベートは真っ赤な封筒を差し出した。
「その代わり、わたくしの家の私的なティーパーティーにいらっしゃい」
「え……?」
「躾のなっていないあなたを、直々に嘲笑って差し上げるわ。わたくしと、わたくしの心をゆるした限られた方々との非常に私的な集まりよ。平民あがりのあなたを貴族に仕立てるのは、娯楽のひとつくらいにはなるわね。せいぜい頑張って、貴族の所作を学ぶことね。オーホホホホ」
ヘレナはとうとう涙をこぼした。
それは、感謝の涙であった。
「う……エリザベート様、こんな私のために……ありがとう、ありがとうございます。ぜ、絶対に、参ります!」
ヘレナの靴下のレースがほつれているのを見て、エリザベートは僅かに眉をひそめた。
*
放課後、校門前。
エリザベートの馬車の横で、アリスが小声で言った。
「お嬢様、あの方……泣いておりましたが」
「当然でしょう。わたくしが直々に辱めて差し上げるのだから」
たぶん、あれは感謝と感動の涙です、と言おうとして、アリスは口を閉ざした。
わざわざ言葉にせずとも、お嬢様の尊さが自分たちだけが理解していればいい。
エリザベートは扇を閉じた。
「……くだらないわ」
そう言いながら、ほんの少しだけ、エリザベートの口元は緩んだ。
「ねえ、アリス。少し、嫌がらせをしてやるわ。今から言うものを至急、あのヘレナという私の鞄持ちの家へ届けさせて頂戴」
「はい、承知いたしました、お嬢様」
*
その日の夜、男爵家の屋敷には、ブラィエンシュタイン家から大量の箱が届いた。
中にはドレス、手袋、靴、礼儀作法の手引き。
最新の王都の貴族名鑑。
教養と淑女のたしなみについての必読本。
そして、最高級のレースの靴下。
ヘレナははらはらと涙をこぼした。
「ごめんなさい、エリザベート様……私、貴族なのにこんなに優しい方に会えたの、初めてだったから……今だけ、泣いてもいいですよね」
こうしてエリザベートは、また一人、信者を増やしたのだった。




