皇帝の護衛
一度目の人生。宮樹愛衣として暮らしていた街から見れば、ルフト皇国はさながら異世界だった。広大な国土に、豊かな森や田畑、目まぐるしく発展する工業地帯──そして、それらを支える星術と呼ばれる技術。ほんの数年前まで、移動に数日かかると言われていた距離も、今では鉄道が一時間で駆け抜ける。
そして現在、その鉄道の皇室専用車両でフィリアは身を揺らしていた。
車両内はまるで豪奢な部屋のようだ。無駄に広く、無駄に豪華。満員電車に乗っていたあの頃の自分が見たら驚愕するだろうな、と過剰なほどに装飾された室内を横目に、フィリアは流れていく景色を眺めていた。
フィリアが腰掛けている椅子は見た目こそただの豪奢な四脚椅子だが、どうやら床にしっかりと固定されているらしい。どれだけ揺れてもびくともしない。
聞いた話だと皇都リュレスまでは、およそ一時間ほどで着くらしい。馬車で移動する場合には六倍以上の時間がかかることを考えると、相当に効率の良い移動手段と言えるだろう。
「鉄道は初めてですか?」
「え、ええ……」
皇帝の従者であるウェルリウス・リゲルの言葉に、フィリアは言葉を淀ませながら答える。正直、いまはそんなことよりも目の前に広がっている光景に説明が欲しかった。
「ねぇ……これが本当にあの灼熱の王なの……?」
「え、ええ……」
今度はウェルリウスが言葉を濁す番だった。確かに、“彼”の従者だというのなら目を覆いたくもなるだろう。ウェルリウスの心情を考えると察するに余りある光景が、フィリアの前には広がっている。
「……なんだよ。お前も欲しいなら準備させるぞ」
「いらないわよ……」
彼、レイフィード・フォン・シリウスは特に気にした様子もなく「意外と美味いんだけどな」などと曰わっている。
無造作ながらも皇族らしく切り揃えられた黒髪を揺らし、灰色の瞳がフィリアを捉え続けていた。ルジグの森で獲ってきたという、新鮮な魔獣の肉を頬張りながら。
冷酷無比。ひとたび機嫌を損ねれば命はない。彼に対する大衆のイメージは大体そんなもので、フィリアも同じようにそう聞いていた。しかし、これは一体どういうことだろうか。今の彼からは残忍さなど毛ほども感じられない。むしろ、違った意味での異常さは感じられるが。
「なぜ私はここにいるんですかね?」
あえて言葉を正して問うフィリアに、レイフィードは肉を置いて口角を上げて見せる。
「さっき言ったろ? お前を俺専属の護衛に任命するって」
「だ、か、ら! それが意味分かんないって言ってんでしょうが!」
「お前……馬鹿なのか?」
「犯罪者を護衛に任命するあなたの方がよっぽど馬鹿でしょ」
聞いていた彼の人物像から大きく乖離したレイフィードの言動に、フィリアは頭を悩ませる。
彼女はルジグの森での星術不正使用により犯罪者として連行されたはずだった。ではなぜ、フィリアが皇室専用車両などに乗っているかと言うと──。フィリアは音を立てる勢いで椅子に座り直し、数刻前のレイフィードとの邂逅を思い出していた。
「もう一度問おう。ここで何をしている?」
灼熱の王、レイフィードは威厳こそ残しながら、抑揚のない声でその場にいる全員を見渡す。彼の圧に敗残兵のリーダーは、目を伏せていて、その姿はまるで頭を垂れているように見えた。肩口を貫かれたディエゴなど、沈黙だけが許されているとでも言うように、呻き声を必死に抑えている。
「陛下こそ、なぜここに?」
不遜な態度を取るフィリアに、敗残兵のリーダーは咎めるような視線を向けた。不敬を咎めているわけではなく、殺されたくないから大人しくしていてくれ、という懇願に近い視線だ。
「言ったはずだが? 理由が必要か、と」
温度が下がった気がした。実際にはそんなことはないのだが、フィリアは背筋に冷たいものを感じてしまい、それ以上抵抗することはしなかった。
経緯を簡単に説明するフィリアの言葉を聞き終えたレイフィードが、周囲に目をやると木々の陰から兵士たちが姿を現す。
二つの四角が繋がった形の紋章が随所にあしらわれている装備品。ルフト皇国の紋章を使用できるのは、皇族と認められた一部の者のみであることから彼らが、かの高名なルフト皇国騎士団なのだろう。
「いかがなさいますか?」
「ピュニシオン兵の処遇はウェルリウス、お前に任せる」
「かしこまりました」
団服ではなく燕尾服のような装いで、明らかにこの場に似つかわしくない格好をしている男――ウェルリウスは、レイフィードの言葉を受け「拘束してください」と騎士たちへと指示を飛ばす。
「で、お前は」
「私はルジグで依頼を受けただけよ。あいつらを何とかしてくれってね」
フィリアは拘束されている敗残兵たちを適当に指差す。すると、レイフィードは「ほう」と感心したような声を漏らした。
「それなりに戦えるようだが、お前どこのギルド所属だ」
やはり聞かれるか、とフィリアは視線を逸らした。通常、依頼は冒険者ギルドに登録してから受けることが定められている。しかし、登録時に書類確認が必要であるため、身元を明かしたくないフィリアは登録していない。
彼女の様子を不審に思ったレイフィードが一歩、フィリアとの距離を詰める。
「まさか、所属していないとはな……」
「別に悪さしてるわけじゃないわよ」
「認可のない者が戦闘に星術を用いること自体、犯罪なのだが?」
ルフト皇国では日常的に星術が用いられているが、戦闘行為に使用するには国家組織である騎士団でもなければ、ギルドに所属するほかない。流浪人であるフィリアがそれをすれば、当然許されるはずもなかった。
「陛下」
敗残兵たちの拘束を終えたウェルリウスが、レイフィードに「少しよろしいでしょうか」と声をかける。ほかの騎士たちが遠巻きで見ているのとは裏腹に、彼はレイフィードに対して萎縮したりはしないらしい。
「彼らですが、ここでは一時的な処置すら難しく。医療班がすぐ到着しますので、陛下は先にお戻りいただけますでしょうか」
「捨て置けばいいだろう。一人でも生きていれば問題ない」
噂に違わぬ冷酷さね、とフィリアは肩をすくめる。彼女としても敗残兵たちがどうなろうと知ったことではないのだが、リーダーの男との約束を破ることは信条に反していた。それにディエゴはともかく、もう一人が倒れているのはフィリアが原因なのだ。
無言で立ち上がったフィリアは、二人をよそに敗残兵たちの方へと近づいていく。
「おい、お前何を――」
「戦闘以外なら許可はいらないでしょ」
接続、とフィリアが呟くと、拘束され座り込んでいるディエゴの元に白く光る星紋が展開される。
直後、結界がディエゴを包むと、薄い緑色の光となって霧散した。
「は?」
間抜けな声の主はディエゴだ。彼は自身の肩口に触れ、先ほどまで穴が空いていた箇所を確認する。まるで何事もなかったかのように、穴が完全に塞がっていることに気付くと、目を丸くした。
何が起こったのか分からないといった表情を浮かべているディエゴを無視して、フィリアはもう一人の敗残兵にも同様の術を行使する。
「面白い」
フィリアの背後から、そんな声がした。この場でそんな場違いな言葉を発せることができる人物など、ただ一人しかいない。レイフィードだ。
「お前が何者なのか、じっくり聞かせてもらうとしよう」
「い、いやぁ。お忙しい陛下にそんな時間を作ってもらうなんて悪いですよ……」
歯切れ悪くささやかな抵抗を見せるフィリアは、目を逸らしつつ、心底面倒なことになりそうだ、と感じていた。
そうして有無を言わせず皇族専用車両に押し込まれ、現在に至る。
レイフィードは森での威厳を脱ぎ去り、魔物肉に舌鼓を打ちながら「だから」と、飽き飽きしたような態度でフィリアへと顔を向けた。
「俺は護衛を探している。お前は認可持ちになれる上、無罪放免。良いことづくめだろうが」
「護衛になんかなりたくないって言ってるんだけど?」
「お前……不敬罪で投獄してやろうか」
「大体、あなたに護衛なんて必要あるわけ?」
じとっとした目でフィリアを見るレイフィードだったが、彼は両手からナイフとフォークを置き、手元にあったナプキンで軽く口元を拭く。そして、短くも深い溜息をついた。
「止め止め。なぁ、ウェルリウス。隠し事しながらこいつを説得するなんて無理だろ」
「へ、陛下!」
レイフィードが何を言おうとしているのか察したのだろう。ウェルリウスは先ほどまでの冷静さを忘れ、慌てて制するように片手を伸ばす。しかし、レイフィードは片手を上げ、それを更に制した。
「フィリア・ノイン・ゼフィランサス」
心臓を掴まれたようだった。
久しく聞くことのなかった、自身のフルネームにフィリアは一気に冷や汗が背を伝うのを感じていた。
名を隠してきたこの十年。彼女が自身の名を口にしたのはただ一度だけ。それを聞いてくれた人も、もういない。
つまり、彼女の家名まで知っている人物はこの世に存在しないはずだった。
「な、んで……その名を……」
幾らでも言い訳が効く状況だったにも関わらず、フィリアは隠し通すことなど忘れ、思わず言い逃れができない反応を見せてしまう。
「やっぱりな。容姿は変わっているだろうから自信がなかったが、さっきの星術で確信した」
「どういうこと……?」
フィリアは無意識のうちに身構える。彼がアルデフォンを滅ぼしたわけではない。そうと分かっていても、これまでの素性を隠す生活によって培われた自衛心が身体を動かしてしまうのだ。
「お前の父親に聞かされてたんだよ」
その言葉が車両に響いた瞬間、フィリアの視界が一瞬揺れた。あの夜、王城で別れる前の父の笑みが脳裏に浮かぶ。
「お父様が? なんで……」
「お前を保護してやってくれって頼まれてたからな」
父がレイフィードにそんな頼み事をしていたことなど、一切知らされていない。そもそも彼はルフト皇国の人間であり、アルデフォンを滅亡させた国の人間なのだ。なぜ、父がそんな相手に自分の保護を頼んだのか。
(そもそも、父はアルデフォンが滅亡することを知っていたということ……?)
フィリアが困惑していると、ウェルリウスが諦めたようにレイフィードの言を継いでフォローに入った。
「ルフト皇国前皇帝ローレンツによる裏切りを予見していたのですよ、貴女の父君は。そして、貴女の行く末を憂慮していらっしゃいました」
「お父様は、なぜ敵国になると分かっていた国の陛下に?」
未だ話を受け止めきれていないフィリアは自問自答するように呟いただけだったが、レイフィードは気にせず彼女の問いに答える。
「俺も裏切り者になると知っていたからさ」
その答えで、ようやく腑に落ちる。
五年前。レイフィードはルフト皇国前皇帝に対し、謀反を起こしている。それ故、彼はこの若さで皇帝の座に就いているのだ。レイフィードは、ヴァラスがそれよりもずっと以前から、彼が事を起こすことを知っていた、と言いたいのだろう。
確かに、敵の敵は味方とも言う。ヴァラスにとって、レイフィードは娘の保護を頼むのに丁度良かったのかもしれない。
「でも、それ何年前の話よ。今更保護なんて……」
「それを言われると痛いんだが……まぁ、見つけるのに手間取ったんだ。うちはうちで色々やることが山積みでな」
「随分いい加減なのね」
「ぐっ……そもそもお前がよく分からん連中とつるんでたからなんだが?」
よく分からん連中、というのに思い当たる節があったフィリアは、二年前まで行動を共にしていた、とある義賊たちの顔を思い浮かべる。そんな彼らも、もうこの世を去ってしまっているが。
感傷に浸りそうになる自分を律しつつ、フィリアはレイフィードの言葉には答えずに言葉を返す。
「まぁとりあえずは信じてあげる。でも、なんで保護するって話があなたの護衛になるってことになるのよ」
「確かにお前が言うように俺に護衛は必要ない。だがなぁ」
疲れたような表情でレイフィードが天を仰ぐ。内情の分からないフィリアには、その行動の意味を察することはできなかったが、ウェルリウスには伝わったようで、彼もまた辟易としたような表情を浮かべている。
「貴族の方たちがご子息を陛下の護衛に、と……」
「あー……なるほど」
ウェルリウスの言葉に、フィリアは納得しつつ呆れた表情を浮かべた。貴族たちが己の権力欲求を満たしたいがため、不要な役職を作り自身の子どもを当て込むことで権力を握ろうとしている、ということなのだろう。
「本当はただ保護しようと思っていたんだがな。お前の強さを見て気が変わった」
護衛を必要としない彼が、フィリアの力量を見てその役職を与えるということは、何か彼女の用途を思いついたのだろう。おそらく、公にできない面倒ごとを押し付ける、といったような。
「私にあなたの小間使いになれ、と?」
「話が早くて助かる」
「保護の話はどこにいったのよ……」
「身の安全は保証してやる。何せ、俺は皇帝だからな」
本気とも冗談ともつかない言葉に、フィリアは目を細める。ただ、言い方こそふざけてはいるが、彼の目は真剣そのもので、少なくとも嘘をついているようには見えなかった。
「頼まれたからといって故人との約束を守るなんて、随分律儀なのね」
「……ヴァラス王には随分世話になったからな」
一瞬、彼が躊躇ったように見えた。それが何故なのかフィリアには分からなかったが、彼は自分の知らない父の顔を知っている。そして、今もヴァラスのことを王と呼び、過去を懐かしむような表情を浮かべる彼を、これ以上疑うようなことはできなかった。
「私が背中から刺すかもしれないわよ」
「やれるものなら」
そう言って食後のティータイムを堪能するレイフィード。カップを持つ動作は、流石に様になっていた。
フィリアも同じく用意されていたカップに手を伸ばすと、ウェルリウスによって回収され、すぐさま淹れたてのカップが目の前に置かれる。新鮮な茶葉ならではの芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。
火傷をしないギリギリの匙加減で淹れられた紅茶を、一口分だけ喉に流し込む。
どうせ流浪の旅もいい加減、手詰まりだったのだ。次に別に向かう場所があるわけでもない。ここで彼の提案を飲むことに、それほど抵抗感があるわけでもない。しかし、フィリアの中には一つだけしこりが残っていた。
「……一つだけ聞かせて」
「なんだ」
「ルフトは何故、アルデフォンを滅ぼしたの?」
「分からん。先代が何故、同盟国のアルデフォンを突然裏切ったのか。調査は続けているがさっぱりだ」
アルデフォンが滅亡したのは十年前。その時のレイフィードは十歳かそこらだ。詳しい事情を知らずとも仕方のないことだった。そう思うと、ヴァラスはまだ幼いレイフィードに娘を預けたことになる。なんて無茶苦茶な、と思わなくもないが、それだけ追い詰められていたのだろう、とフィリアは自分を納得させる。
「ただ、先代の暴走は不審な点が多いのも事実だ。それをこのまま放置するつもりはない……が、俺も一国の長だからな。それだけに注力することもできない」
意味ありげな視線をフィリアへと向けるレイフィード。つまり皇帝の名の下、自由に動けるポジションを与えてやる、と彼は言っているのだ。それはフィリアにとっても好都合な話だった。
なぜ、父と母を失わなければならなかったのか。祖国の滅亡に何か意図があるのだとしたら、フィリアはそれを知りたいと思っていた。これまでは術も真相を求め、行き当たりばったりの旅をしていたが、その術をくれるというのであれば、ありがたく利用させてもらおう。
フィリアは短く嘆息したあと、ここにきて初めて笑みを浮かべた。
「いいわ。あなたの小間使いになってあげる」
「決まりだな」
レイフィードが全てを素直に明かしていないだろうことは、フィリアにも分かっている。もしかしたら上手く騙されているのかもしれない。しかし、今の彼女にはほかに選べる道もないのだ。
(お父様……お母様……)
噂とは似ても似つかないレイフィードの姿を眺めながら、フィリアはかつての祖国へと思いを馳せていた。