神なき世界
死んじゃうんだな。
ぼやけた視界のなか、彼女はそんなことを考えていた。横断歩道で信号待ちをしていたところに車が突っ込んできた、と状況整理できたのは、彼女の身体が地面に打ち付けられた後だった。
彼女──宮樹愛衣の一番目の人生は、そんなあっけない記憶で幕を閉じた。
次に目を覚ますと、見知らぬ部屋。声を発しようとすると「あう」などといった、まるで赤子のような言葉にならない声しか出すことができない。宮樹愛衣としての人生でアニメや漫画に触れてきたことも手伝い、「これが転生かぁ」と自分でも驚くほど、すんなりと状況を受け入れることができた。
身体を少し動かし、手を挙げてみると、丸みをおびた短い指が視界に入る。本当に死んでしまったんだな、と思うと同時に、それなりに幸せだったこれまでの生が、あんなに呆気なく終わってしまったことに対する寂寥感が彼女を襲う。
こんなことになると分かっていたら、もっと実家に帰るべきだった。もっと友人と語らえばよかった。仕事を理由にそういったものをしてこなかった自分の怠惰が、いつでも会えるという甘えが、こんな形で後悔として降りかかるとは思ってもいなかった。
赤子の身体は感情に過敏なのか、そんな考えは涙となって溢れ、泣き声が部屋に響く。二十四歳の大人としては若干情けなく思えるが、赤子の身体はそう簡単に泣き止んではくれない。
すると、おそらくこの世界での父と母と見られる男女が、慌ただしく部屋の扉を開いてやってきた。かつての記憶に照らし合わせると、中世のヨーロッパ貴族のような、気品ある衣服に身を包んでいる二人。未だ泣き声を上げなら、転生先としては当たりを引いたようだ、と彼女の冷静な部分がそう判断する。
「フィリア」
母と思わしき人物が赤子の頭を撫でながら、愛おしそうに名前を呼ぶ。呼ばれたのが自分の名前であろうことを察すると同時に、ここは自分が生きていた日本ではないであろうことを推察するフィリア。
「──接続」
今度は父と思わしき男性が呟くと、青白く光る幾何学模様が宙空に描かれる。
幾何学模様がフィリアの身体を通過していくと、フィリアは自分の身体が安らいでいくのを感じた。彼が何をしたのか、目覚めたばかりのフィリアには分からなかったが、それが一度目の人生には存在しなかった何かだということは分かった。
おそらくそれは、かつての世界では魔法と呼ばれていたものに類する何かだった。
「ゆっくり眠りなさい、フィリア」
母の腕のなかで微睡むフィリアの頭を、父は優しく撫でる。一度目の人生でも、両親のことが好きだったフィリアは、新たな両親の顔を心に刻みながら、抗いようのない微睡みに身を委ねる。
まぶたを閉じながら、今度の人生では大切なものをちゃんと大切にしよう、そう思った。だから──まさかそれができる時間があんなにも短いとは、思ってもいなかった。
そして、フィリアとしての生を受けてから七年が経ったころ。その日はフィリアの七度目の誕生日を祝うため、父と母が個人的なパーティを開いてくれていた。いつも通り、二人の愛を感じ、笑い、そんな日々が続くことを信じて眠りにつくはずだった。
「ここを開けろ!」
王城にある執務室の扉を叩く音と怒声が響く。窓の外には炎が広がっているのか、時折赤い煌めきが揺れるとともに、部屋に焦げ臭さを撒き散らしている。
「フィリア、よく聞きなさい」
父であり、アルデフォン王国の国王でもあるヴァラス・アハト・ゼフィランサスが、真っ直ぐにフィリアへ視線を向けながら、彼女の両肩に手を置いた。
誕生日プレゼントとして母から贈られた指輪を握りしめるフィリア。その手により一層力が込められる。
「こんな道しか残してやることができなかった私たちを、恨んでくれて構わない」
「お父様、なにを……?」
フィリアはヴァラスが何を言いたいのか、これからどうするつもりなのか容易に想像できた。この状況で父が娘のためにすることなど、最早一つしかない。
しかし、やめてください、とも、私も残るとも言えなかった。残っても死体がひとつ増えるだけだと分かっているからだ。
いくら精神的には大人といえ、それは平和な国での記憶であり戦闘に関する知識や知恵などない。そのうえ、まだ“星術”をろくに使いこなせないフィリアにこの状況を打破する力はなかった。
「それでも、私もノアも……君を心から愛している。それだけは忘れないでほしい」
笑みを崩さないまま、ヴァラスはフィリアの両肩から手を離す。彼は何かを言おうとして、躊躇したように口を真一文字に結び直す。そうして、ついに扉にヒビが入る音のしたころ、ヴァラスはもう一度だけフィリアを抱きしめた。
「強くなりなさい。来るべき時のために」
ヴァラスはそれ以上なにも言わなかった。彼女に背を向け、「行きなさい」と王族にのみ伝わる隠し通路を指差す。
言われた通り逃げるべきだということは分かっている。それでも、彼の覚悟を無駄にしてはいけないという理性的な思考と父と離れたくないという感情がせめぎ合い、フィリアを逡巡させる。
「フィリア!」
扉を叩く音がより一層激しさを増すなか、ヴァラスが叫ぶ。その声に押されるように、フィリアは隠し通路へと駆け出した。
一度も振り返らず、足を止めることもせず。ただ、ひたすらに走った。まだ幼く、短い足は何度ももつれそうになった。それでも、フィリアは出口の見えない通路を駆け抜けていく。
ようやく辿り着いた扉を開けると、小高い丘の上に繋がっていたようで、星の明かりが照らす夜空の元へと出た。しかし、その夜空はいつもと異なり、少しだけ赤く染まっている。
「お父様……お母様……」
眼下で燃え盛る王城を見つめながら、フィリアは呟く。
この世界で過ごした7年のなかで、二人の存在はあまりにも大きく、大切なものだった。だから、フィリアは流れ出る涙を拭うことをしなかった。この喪失を、忘れないために。
「──ッ!」
飛び起きるようにして、フィリアは目を覚ました。
息が上がり、額に汗が滲み、髪が貼り付いている感覚や、衣服が背に少し引っ付いている感触が気持ち悪く感じる。
この世界で両親を失ってから十年経ち、フィリアは十七歳になっていた。彼女が身を隠し、生き延びてきた決して短くない月日は、かつて平和な世界で生きていたフィリアには耐え難いものだった。
それでも、あの日のことを忘れたことはなく、未だにこうして夢に見ることだってあった。
フィリアが部屋に風を取り込むため、窓を開けると、格安の宿だからか開ける際に少し軋んだ音が鳴る。吹き込んだ風に煽られ胸元まで伸びる銀髪が視界を遮ったのが鬱陶しくて、フィリアは右手で髪を押さえた。
「異世界転生、ね……」
フィリアは眼の前に広がる森林を前に、日本での記憶を思い返すように呟く。
これまでの十年間でこの世界が一度目の人生とは異なる仕組みで回っていることを知った。
かつての自分、宮樹愛衣としては慣れ親しんだ言葉である「異世界転生」という言葉。それが現実のものとして自分に襲いかかってくるとは思ってもいなかったが、この状況を楽しむ余裕はなかった。
一体私が何をしたというのだろうか。そんな思いが去来する。神様が出迎えてくれることもなく、お助けキャラクター的な存在も登場させてくれなかった転生。これが異世界転生だと言うのなら──。
今はもういない父と母の顔が、燃え盛る王城と夜空を染める赤色が脳裏を過ぎり、フィリアは冷めた瞳を空へ向けた。
「──ヘドが出るわ」




