第四話 橘の香の人
その夜――
泊まりに来た春宮が忍んできたのだ――二の姫の寝所に!(ちなみに中の君が来る前の話なので、この二の姫は今の三の姫ですわ)。
夜中に二の姫の乳母が狼狽えた様子で私のところに来たのだ。
「あの、姫様のところに春宮様が……」
二の姫の乳母子の言葉に、
「は?」
思わず聞き返した。
私のところなら分かる。イヤだけど。
内々とは言え入内が決まっているから。
でも二の姫?
まだ裳着もすんでないのに?
裳着というのは成人の儀式である。
それがすんでない妹はまだ子供だ。
「春宮様にここは大君の部屋ではございませんと申し上げたのです。大君の寝所にご案内しますと」
それも迷惑なんだけど……。
「ですが二の姫のところに来たのだと……」
「はぁ?」
私は思わず声を上げた。
子供がいいなんてあり得ない!
私は立ち上がると二の姫の寝所に向かった。
「あ、あの、私……お姉様は……」
二の姫のうわずった声が聞こえてきた。
ここまで来たものの、寝所に乗り込んで春宮を叩き出すわけにはいかないし、かといって自分の寝所に来てくれなんて誘うのもイヤだ。
裳着もすんでない子供に手を出そうとする男など……。
その時、庭の向こうの方で警護のために焚かれている松明の光が目に映った。
「火事よ! 早く逃げて!」
私は二の姫の寝所の中だけに聞こえる声で言った。
もし後で怒られたら松明の火を火事と勘違いしたと言って押し通そう……。
夜中なんだし寝ぼけて見間違えることはありますわよね。
「なんだって!」
春宮が慌てた様子で飛び出してきた。
私がとっさに後ろに下がるのと入れ違いで誰かが春宮の目から私を隠すように前に立った。
「春宮様、あちらへお逃げ下さい」
目の前の人が言った。
若い男性の声だ。
「分かった」
春宮が逃げていったのと入れ違いに複数の足音が近付いてきた。
警護の者達に私の声が届いてしまったらしい。
私が急いで二の姫の寝所に入ると男性は妻戸に立って中が見えないようにしてくれた。
「何があった!」
駆け付けてきた警護の者に、
「春宮様はあちらへ行かれました」
若い男性が答える。
警護の者達は春宮が逃げた方向へ足早に向かった。
「二の姫、大丈夫?」
私の問いに二の姫が震えながら頷く。
「もう大丈夫だから寝なさい」
私がそう言うと二の姫は素直に横になった。
「二の姫に付いていましょうか?」
男性が言った。
「あなたが寝所に押し入らないって保証は?」
「ありません」
男性がおかしそうに答える。
「ならお断りするわ」
「春宮の誘いを断って良かったんですか?」
男性に聞かれた。
「春宮様は明日の晩と明後日の晩も来られるの?」
私の問いに、
「いいえ、明日からしばらく方塞りでこの邸には来られません」
若い男性が答えた。
方塞り、または方忌みというのは神様が滞在していて行かれない方角である。
自分の邸から見て神様が滞在している方向には行かれない。
神様は何柱もいてそれぞれが移動しては一定期間滞在する。
「なら遊びじゃない。お断りよ」
どの神様で方塞りなのかは知らないが婚姻というのは三日連続で通ってこなければ成立しない。
一日でも来られない日があるなら、そしてそれが事前に分かっているなら、それは遊びなのだ。
まぁそれ以前に春宮は通い婚ではないが。
子供に遊びで手を出そうとするなんて信じられない……。
「……殿」
誰かの呼ぶ声がした。
なんと言ったのか聞き取れなかったがこの男性の名前のようだ。
「それでは」
若い男性は橘の香りを残して行ってしまった。
――ということがあったので春宮はどうしても好きになれないのだ。
お母様の話は続いていた。
「聞いていますか。あなたは春宮様に……」
「お母様、私の名前に『子』が付いたら『みやこ(都)』になってしまいますわ」
私が苦し紛れにそういうと、
「それの何が悪いんですか!」
お母様が更に怒る。
『子』が名前に付くのは帝や春宮の妃か、官位を持っている女性だけなのである(それと皇族)。
別に『みやこ』になるのがイヤだからと言う訳ではないのだが、入内はしたくない。
殿方がされている噂をご存じ?
公式行事や仕事で『あいつはあそこを間違えた』とか『しきたりもしらない恥ずかしいやつ』とか。
些細な失態を一々あげつらってて聞いてると死にたくなりますわよ。
死にませんけど。
そのうえ皆してそれを日記にまで書いて……。
あり得ませんわ!
帝の寵愛を受けた更衣(妃)が他の妃達からいじめられて亡くなった物語もあるし。
ついでに女官同士もしょっちゅう嫌がらせをしあっているし。
内裏は地獄のようなところですわ!
とても入内したいなんて思えない。
はっ!?
そうだ……!
「春宮様と中の君が幼馴染みなら入内は中の君……」
「大君!」
お母様が怒鳴る。
まぁ自分が嫌いな人を妹に押し付けるなんて良くないですわね……。
いくら幼馴染みでも子供に手を出す男はイヤだろう。
内裏は地獄のようだし春宮は子供に手を出そうとするし――。
誰か私を連れて逃げてくれないかしら……。
一瞬、橘の香の男性が脳裏をよぎった。
それを振り払う。
どこの誰かも分からないんだし……。
「ええと、では勅撰和歌集を読みますので失礼致します」
私はお母様がそれ以上何か言う前に急いでその場を離れた。