第十三話 中の君の婚姻
その夜――
「いさりびの ほのかな灯り 篝火と さそひとまごふ まよふ虫かな」
(灯りに誘われた虫が迷い込んできました)
外から随身の声がした。
他の随身に言っているのでなければ私に言っているということになるけど……。
誘われた?
名前を聞いたから勘違いしたのかしら……?
私が無視して寝ようとした時、妻戸を叩く音がした。
呆れた……。
図々しいにもほどが……。
そう思い掛けた時、
「お姉様……」
中の君のか細い声が聞こえてきた。
私は慌てて起き上がると妻戸を開けた。
そこには中の君が立っていた。
その後ろに、私達に背中を向けるようにして随身が立っている。
橘の香りがするし、さっきの歌からして、よりちかだろう。
「中の君はいらっしゃいません」
ツユの声が中の君の寝所の方から聞こえて来た。
「いいから通せ」
男がツユに命令する。
「いかがいたしましょう」
よりちかが小声で指示を仰いでくる。
「言ったはずよ。膾にして鯉の餌にしてって」
私が答える。
勝手に忍んできた男が警護の者に叩き出されるのは珍しいことではない。
合意の上の逢引でも親に秘密にしている場合などは警護と揉めることは良くあるのだ。
「無断で入ってきたのでしたらそれも可能なのですが……」
「なに言ってるのよ。誰の許しがあったって言うの」
今日は方違えなどの泊まり客はいないはずだ。
「女房が少納言の沓を殿と北の方様のところに持っていきました」
よりちかの言葉に愕然とした。
正式な婚姻の場合、三晩(つまり婿として認められるまで)男が履いてきた沓を妻側の親が抱いて寝る。
それは『沓取りの儀』といって親が男を婿として認めているという事なのだ。
駄目押しをするように、よりちかが『見て下さい』というように微かに顔を傾ける。
そちらに目を向けると火が灯されていた。
「決して消さないようにと申しつかっております」
よりちかが言った。
これも婚姻の儀式の一つだ。
「お姉様……」
中の君が助けを求めるように私を見た。
私は妻戸を開いて中の君を入れた。
「よりちか、でいいのよね?」(後で漢字を聞いたら『頼浮』と書くのだそうだ)
「はい」
「あの男がツユに暴力をふるうかもしれないからここに連れてきて」
私の言葉に、
「はい」
頼浮はすぐに中の君の部屋に向かう。
「お姉様……」
中の君が感謝の視線を向けてくる。
頼浮が上手く言ったのだろう、すぐにツユがやってきた。
「あの不心得者がここに押し入ってこないようにしっかり見張っててよ」
私がそう言うと、
「お任せ下さい」
頼浮はそう言って妻戸を外から閉めた。
今夜はこれでいいとして――。
翌日――
沓取りの儀までしているとなると、このまま中の君が逃げ回っていても三日――いえ、もう一晩たってしまったから明日の晩には婚姻が成立して少納言は中の君の婿になってしまう。
夫がいては入内が出来ない。
妻は何人でも持てるが夫は一人だけだからだ。
考えた末、私は火の番を頼浮にさせるようにと侍女に言い付け、几帳を火の近くに用意させた。
頼浮がやってきて火の側に立つ。
「夕辺一晩中、寝ずの番をさせたのにごめんなさいね」
私は几帳の裏から頼浮にだけ聞こえる声で言った。
「お気になさらず」
「中の君を助けてくれてありがとう。この前の蛇の時も」
私は礼を言った。
「いえ、噛まれる前にお助けできず……」
「ツユの側に箱が落ちていたけど、蛇はあれに……」
「……おそらく」
頼浮は一瞬躊躇ってから答えた。
この前もそうだったけど、中の君に何か思うところでもあるのかしら?
単に慎重なだけ?
「あなた、私が春宮に入内するべきだと思ってる? 中の君ではなく」
「……私には関係ないと思いますが」
やはり僅かに間があった。
「それは中の君でもいいという事?」
「どちらでも……」
「では、中の君の入内に賛成するという事で話を進めるわね」
「は?」
頼浮が面食らったような声を上げる。
「どちらでもいいなら中の君でいいでしょう」
「…………」
頼浮は答えない。
「イヤってこと?」
「いえ、そういうわけでは……」
「じゃあ、いいわね」
「…………」
やはり頼浮は答えない。
「イヤなの?」
「……いえ、驚いただけです。本気で入内なさりたくないのですか?」
まぁ、入内は一応、女の夢とされているけど……。
「物語に出てきた主人公の母君は入内して他の妃達にいじめ殺されたのよ。あれを読んだら入内したいなんて思いませんわ」
「私の妹にもその賢明さがあれば良かったのですが……」
頼浮が溜息を吐いた。
どうやら頼浮の妹は妃に憧れているらしい。
入内は大貴族の娘でなければ出来ないから親王(皇子)の乳母で妥協する、などと日記や随筆に書いている女性達がいるくらいの憧れの的なのだ。
「私は入内したくなくて、中の君は春宮と一緒にいたいのだから中の君が入内すれば問題解決でしょ」
「はぁ……」
頼浮が気の抜けた声で答える。
「それで、どうなさりたいのでしょうか?」
頼浮が訊ねてきた。
「少納言があと二晩続けて来てしまったら中の君の婿になってしまうでしょう」
「そうなりますね。もう餅の用意をしていますよ」
頼浮が言った。
婚姻の話で餅が出てきたら『三箇夜餅』のことである。
三日目の晩に婚姻が成立すると食べるのだ。
これは妻側の家が用意するものだから婿と認めてなければ出さない。
やはりお母様は本気なのだ(お父様は渋々でしょうけど)。
そこまでいってしまったら少納言が通ってくるのをやめない限り離縁は出来ない。
離縁成立までには来なくなってから三年(理由によって年数は異なるが)掛かる。
となると私の入内撤回より先に少納言を何とかしなければならない。
正式な婚姻は三日続けて来なければ成立しない。
つまり今夜か明日の晩、少納言が来なければとりあえず今回は話が流れるのだ。
私は几帳の脇から空を見上げた。
良く晴れていて雨は降りそうにない。
ひどい土砂降りになったりすると道が悪くて通れなくなったり川が溢れたりするから来られなくなることはあるのだが、婚姻は三日続けてこなければ認められないから少しの雨くらいなら来るのだ。
特に、どうしても妻に迎えたい女性が相手の場合は――例えば左大臣の姫とか。
物語だと――。
「少納言の上司に知り合いは?」
私は頼浮に訊ねた。
物語にあったのだ。
男は三日続けてくる気があったのに上司から宴に誘われて断り切れずに一晩中付き合うことになってしまった話が。