第十二話 随身の名前
「トメ、物語が読みたいわ」
私はトメに声を掛けた。
ツユのことがあり今日は箏のお稽古どころではないから、どうしたら中の君を入内させられるか考えることにした。
誰かは知らないが中の君の命を狙っている者がいるのだとしたら、ここに置いてはおけない。
かといって誰かの北の方として迎えられるか出家するのでない限り、女性が家を出ることは難しい。
となると後は入内しかない。
幸い左大臣家からは姫を入内させられるのだし。
物語に参考になるような話があるといいのだけれど……。
とはいえ話を覚えていない物語はないはずだ。
いくら金があるとはいえ物語そのものが多くないからである。
書き手が書いたものを誰かが借りて読んで、手元に残しておきたいと思った人はそれを書き写す。
それをまた誰かが借りて書き写す。
物語というのはそうやって人から人へと伝わっていく。
だが――。
手書きで貴重な紙に書き写す、という工程を経ない限り複製が作られないから後世にまで残る物語は少ないのだ。
作られないだけなら元の本が残っているのでは? と思うでしょうけど――。
言いましたよね?
紙は貴重だって。
他の用途で紙が必要になった時に裏を使われてしまうのである。
歌集に使われている紙の裏が割と重要そうな役所の書類だったりすることもあるくらいだ。
役所の書類(の裏)を歌集に使ってしまうくらいだから物語など容赦なく裏を使われる。
だから必要ないと判断されてしまった物語は後世に残らないのだ。
「では持って参ります」
トメが出ていった。
その時、庭の方から橘の香りが漂ってくるのに気付いた。
御簾越しに外を見ると随身が歩いている。
あの位襖(随身の衣裳)は……。
ツユの手当てをしていた随身が着ていた位襖に色や紋が似ているし、何度か助けてくれた人かも知れない。
お礼を言いたいけど……。
貴族の女性は夫でもない男性と軽々しく口を利くわけにはいかない。
私はちょっと考えてから歌を詠んだ。
「散る葉朽ち 菜は咲くなりや 橘の ちかきまもりの 名こそなのらめ」
(蛇を斬ったのがあなたならお名前を知りたいですわ)
上手いとは言い難いが急がないと行ってしまうのだから仕方ない。
これなら話し掛けたわけではない。
私が勝手に歌を詠んだだけだ。
歌を聞いた人が別の歌を詠んだとしても関係ない。
貴族というのは何もなくても歌を詠んでいるものだからである。歌が好きな人は、だけど。
分かってくれるかしら……。
随身というのは近衛府の官人だから貴族である。
当然、歌は詠めるはずなのだが――。
名前によっては歌の中に詠み込むのが難しいこともある。
歌を詠むのが苦手なら無理かもしれないが、それなら普通に名乗ればいいだけだ。歌の意味理解できれば、だが。
随身は足を止めて少し考えていたようだった。
「橘の よりちかき香は ならのはの はねのはやしは 深き緑と」
あら……。
自分で聞いておいて驚くのもどうかと思うが、まさか返事が来るとは思わなかった。
あまり上手いとは言えないけれど必要なことは言っている。
要は橘よりちか(漢字は書いてもらわなければ分からない)と言う名前という事だ。
名前を歌に詠み込めたと言うことは『蛇を裂いたのはあなた?』という質問も分かったはずだ。
その上で名乗ったなら間違いないだろう。
随身は微かに会釈すると言ってしまった。
う~ん、あの随身の名前は分かったけど……。
それでどうなるというものでもない。
けど……。
橘……?
二十歳前後に見えるし、それで六位なら蔭位のはずだ(六位というのは上級貴族の息子以外では生涯を掛けてようやく辿り着けるかどうかと言う官位ですのよ)。
確か近衛で、しかも舎人より上の随身は摂関家など一部の公卿の子弟しかなれないと聞いていたけれど……。
その一部の中に『橘』はいなかったはずだ。
皇孫とか?
しかし臣籍降下して名字を名乗る場合、源でなければ領地の地名のことが多いはずだが――。
橘って地名、どこかにあったかしら?
臣籍降下したときに聞いた事のないような辺鄙なところにある領地をもらうことはないと思うのだが――。
私が考え込んでいるうちにトメが物語を持って戻ってきた。
トメが持ってきた物語を片端から読んでみたものの私の代わりに中の君を入内させる方法は見付からなかった。
数日後――
私は中の君の部屋に向かった。
「ツユの具合はどう?」
私が訪ねていくと中の君が勅撰集を読んでいた。
「大分良くなったようですが念のために休ませています」
中の君が答える。
「そう。ツユを休ませるために読んでるの?」
私は勅撰集に目を向けた。
乳母子は養君(ツユなら中の君)にどこまででも着いていって世話を焼く。
だから養君が大人しくしていないと乳母子も休めないのだ。
「それもありますけど……」
中の君が困ったように俯く。
「歌を詠もうと思っているのですが……」
中の君が口籠もる。
ああ、春宮から文ね……。
ごたごたしていて忘れていたが蛇騒ぎの時に文が落ちていた。
中の君はきれいな色の文を取り出した。
やはり蛇騒ぎの時の文だ。
〝橘を 守部は枝を 届けまし 君への思いで 花は咲くらむ〟
「春宮様が昔、左近の桜、右近の橘というお話をして下さったんです。それで――」
そうか……。
蛇の時に届いたのならあの大量の桜の枝と一緒に来たのではない。
「――てっきり春宮様からだと思ったのですが……」
中の君が沈んだ声で言った。
もし蛇の入った箱と一緒に届いた文の差出人が春宮だとしたら中の君を殺そうとしたと言う事になる。
だが、それはちょっと考えづらい。
女を捨てるのに殺す必要はない。
特に春宮はそう簡単に外には出られないし女の方から内裏に押し掛けることも出来ないのだ。
ん……?
橘は分かるとして……桜?
私は首を傾げた。
もう一度文に目を落とす。
〝橘を 守部は枝を 届けまし 君への思いで 花は咲くらむ〟
さくらむ……。
『咲く』と『桜』を掛けているのだ。
『きつね』といい、物名歌の好きな方ね……。
春宮からの文だとしたらだけど……。
「とりあえず返歌を贈ってみたら?」
「でも、もし春宮様からではなかったら……」
中の君が躊躇うように俯く。
どう考えても返歌なのに春宮の方に歌を贈った覚えがなかったら他の男にも歌を贈っていると思われてしまう。
「この歌を知っていれば返歌だと分かるけど、知らなかったら気付かないような歌を詠めば?」
「そういう歌が詠めなくて……」
なるほど……。
確かに普通に返歌を詠むより難しいかも……。
「お姉様はお歌がお上手だとか」
中の君が縋るような目を向けてくる。
「そんなでもないけど……」
代詠して欲しいってことかしら……?
そういえば……。
「これは何通目?」
「四通目だと思います」
「思う?」
「春宮様は以前に三通贈って下さったと……」
あれ以外にも贈られてきているけれどお母様は中の君に渡してないのね……。
何通目から親が代詠で返すものなのかは分からないが、四通目なら『すぐに返歌するなんて』などと思われたりはしないだろう。
春宮はそもそもそういうやりとりをして誰かの婿になるものではないのだし。
〝橘の みをりて届く なかぞらに 君の心は ここになしやと〟
(空の箱が届いたのですが、これがあなたのお気持ちですか?=私を想ってくれていないということですか?)
「トメ、これを春宮様に。左大臣家の姫だと言ってね。大君ではなく」
私は歌を書いた文をトメに渡した。
あの歌の贈り主が他の人なら春宮は『左大臣家の姫』は私だと考えるだろう。私のことを突然わけの分からない歌を贈ってきた変な女だと思うかもしれないが。
あの歌が春宮なら中の君からだと思うはずだ。
筆跡が違うがそれは私の代筆だと言えばいい。最初のうちは親などが代筆するものだ。
「申し訳ありません、お姉様。ありがとうございます」
中の君がすまなそうに頭を下げる。
「いいのよ、私は内裏になんて行きたくないから」
中の君が春宮と結ばれてくれれば双方が幸せになれるわけだし。
「春宮様も同じことを仰っていました」
中の君が遠い目をしながら言った。
おそらく昔、聞いた話なのだろう。
今は春宮は内裏に住んでいるわけだし。
「そう……」
私はなんと言っていいか分からないまま頷いた。
まぁ春宮がいやいや内裏に住んでいるのなら尚のこと中の君がそばでお心をお慰めしてあげた方がいいのだから入内は中の君の方がいいですわよね。
春宮にとっても中の君にとっても――。
決して入内を押し付けようとしているわけではありませんわよ。




