第一話 物語が好きな姫
牛車というのは当然だが牛が引いている。
当たり前だが引いている牛が暴走すれば牛車も暴走する。
これが意外と速い。
そして牛の暴走というのはそれほど珍しくなかった。
何が言いたいのかというと――。
「牛車が暴走した!」
「誰か止めろ!」
という道行く人達の声に振り返った瞬間、牛車が突っ込んできて撥ね飛ばされ意識を失った。
「姫様! 気が付かれましたか!?」
目を開けると乳母子のトメがいた。
「ようございました。三日もうなされてらっしゃって……」
「心配いたしましたよ」
他の女房達も次々に言った。
外からは陰陽師や僧侶達の祈祷の声が聞こえてくる。
「私、一体どうして……」
意識を失っている間に前世の記憶を取り戻し、現世の記憶もそのままである。
だから自分が今は水弥という名の左大臣の大君(長女)だということは分かる。
問題は何故今の自分が意識を失っていたのかが分からないということだ。
「今、都で流行っている痘瘡(天然痘)に罹られたのです」
トメが教えてくれる。
そう言われてみたらなんだか気分が優れないと思っていたのだが――。
痘瘡ね……。
そういう理由なら意識を失って当然だ。
むしろ高熱で苦しい時に意識がはっきりしている方がイヤだし……。
「お顔には痕が残らなくてようございました」
トメが顔を覗き込みながら言う。
痘瘡というのは痘痕が残る。
だから痘瘡に罹る前の娘や娘を持つ親は「痘瘡に罹っても命と顔は無事ですように」と祈るのだ。
まぁ、夫以外の男性とは昼間に会うことはないし、飛ぶ鳥を落とす勢いの左大臣の娘だから器量が悪かったところであまり関係ないが。
左大臣の娘に求婚してくる男は出世の手伝い目当てだからだ。
……って、私って意外と覚めた物の見方するわよね。
前世では継母にいじめられている物語の主人公に同情して「なんて可哀想なの」と涙するような素直で心優しい性格だったはずなのに。
自分で言うな、という感じだが、今の自分は別人なのだから別にいいだろう。
死んだ人を悪く言うものじゃないわよね?
けど……。
前世のことを覚えているなんて話は物語でしか聞いたことがない……(その物語ですら稀)。
それはともかく、どうやら前世の私は牛車に轢かれて死んだらしい。
中々恥ずかしい死に方だ。
牛車の暴走はそこそこあるから跳ねられて死ぬこと自体は珍しくないのだが、滅多に外出しない貴族の姫がたまたま道を歩いているという事はあまりない。
だから牛車に轢かれて死んだ姫がいるという話は聞いたことがない。乗っていた牛車が暴走して死んだ姫ならいるが。
暴走牛車に跳ねられるような恥ずかしい死に方など思い出せなくて良かったのに……。
「姫様、まだ寝ておられた方がよろしいですよ」
「薬湯をお持ちしましょうか?」
という女房の言葉に慌てて目を瞑って寝た振りをする。
薬湯というのは死ぬほど苦いんですのよ。
暴走牛車に跳ねられて死んで、その次の死因が苦い薬湯なんて立て続けに恥ずかしい死に方はしたくない。
実際、まだ治りきっていなかったからか目を閉じるとすぐに意識を失った。
「姫様! 物語の続きが手に入りました」
キヨの声に目を開けるといつもの自分(少納言の大姫)の部屋だった。
牛車に轢かれて死んだような気がしたけれど……。
気のせいだったらしい。
貴族の娘である自分が外に出るはずがないのだ。
もちろん貴族の女性だって全く外出しないわけではない。
女官として出仕することもあれば、物詣と言ってお寺に泊まり掛けで出掛けることはある。
ただ、出仕はともかく物詣には金が掛かる。
うちにそんな余裕はない。
貴族だからと言って金持ちとは限らないのだ。
金のない貴族の娯楽と言えば物語を読むことくらいである。
手持ちの物語が少ないから同じものを繰り返し読む。
見なくても暗唱できるくらい繰り返し読む。
だからみんな新しい物語に飢えていた。
なので、たまに誰かが物語を貸してくれると皆飛び付くし、それを借りるという手柄を立てたキヨも誇らしげなのだ。
「キヨ、早く読んで」
妹の三の姫がキヨにせがむ。
息子でも娘でも、というか庶民は知らないけど少なくとも皇族や貴族は男女を問わず名前で呼ばれることはほとんどない。
姫はどこの家も長女は大君か大姫、次女は中の君か中の姫か二の姫、あとは三の君、四の君と呼ばれる。
私は長女だから大姫、妹が二の姫と三の姫だ。
それはともかく、紙は貴重だから、まず読んでみて手元に残してもいい話だけ書き写すか決めるのである。
金持ちならいざ知らず、うちは金がないから紙は一枚たりとも無駄に出来ないのだ。
「はい」
キヨは本を開くと読み始めた。
「この前のお話の続きね!」
物語を聞いて妹(二の姫)が嬉しそうな声を上げる。
これは今、都で一番人気がある物語なのだ。
最初、世間の人々はこの物語をよくある〝継子いじめ譚〟だと思って読んでいた。
〝継子いじめ譚〟というのは読んで字の如く継母が継子をいじめる話だ。
まんまの説明で申し訳ない――。
大抵の場合、継子は大貴族の青年に見初められて結婚し、ツラく当たった継母を見返して終わる。
この物語の主人公の姫君は継母から毎日毎日、夜遅くまで縫い物をさせられていた。
時には夜通し!
遅れると継母にいじめられるからだ。
そして、この物語も最初は継子いじめ譚で良くあるように青年と知り合って恋仲になった。
その青年と姫君は幼馴染みだったのだが、しばらく疎遠になっていたのだ。
姫君は幼馴染みの青年と再会し、互いに想いを寄せるようになった。
ここまでは予想通りで、後は青年が実は大貴族の御曹司(継母よりもずっと上の身分)だったという事が明かされて姫君は北の方として迎えられ(夫が妻の元に通うのではなく、夫が妻を引き取ることもあるんですのよ)幸せに暮らす――と、皆が思っていた。
だが姫君と青年が親しくなったところで別の姫が出てきて主人公の姫君を邪魔するようになった。
北の方が主人公の姫君にツラく当たるだけなら分かる。
〝継子いじめ譚〟とはそういうものだ。
でも継子いじめ譚で他所の姫が恋路の邪魔をしてくる話はあまりない。
恋愛ものと継子いじめ譚は別ものだからだ。
そんな時に――。
〝女(邪魔をしてくる姫)、(庭に落ちている)孔雀の羽を(乳母子に)拾わせ給いて――〟
という一文が出てきて読者は(もちろん私も)、
「えっ……!」
と、なった。
というのも孔雀がいるのは内裏を除けば左大臣の邸だけだからだ。
右大臣がまだ大納言だった頃、左大臣家の孔雀を羨ましがって何度か左大臣家の孔雀の様子を日記に書いていたというくらい珍しい鳥なのである。
内裏の庭をうろうろしているので貴族なら孔雀がどんな鳥かは知っている者が多いが、逆に言うと内裏と左大臣邸にしかいないくらい珍しいのだ。
少なくとも中納言の邸の庭に孔雀がいるはずがない。
でも、物語だし――。
庭に孔雀がいても、まぁいいんじゃない?
一度はそう思い掛けた。
ところが――。
〝青きおほむの香炉(で乳母子に香を)、焚かせ給ひて――〟
という一文が出てきた。
この「おほむ」って何?
都中の者達が首を傾げ、その中の誰かが博識な人に訊ねた。
するとその博識な人は「それは鸚鵡という唐土にいる人の言葉を話す珍しい鳥のことだ」という答えたらしい。
てっきり「おほむ」というのは材質か何かの名前かと思ったのだが――。
中納言家に――孔雀や鸚鵡?
と思っていると、別の誰かが今の中宮(帝の妃)は鳥が好きで青い鸚鵡の香炉を愛用しているという話を聞き付けてきた。
〝女(邪魔をしてくる姫が)、(庭に落ちていた)孔雀の羽を拾わせ給いて――〟
今の中宮は左大臣家の大姫だ。
もしも、この〝女〟が左大臣の大姫なら青年は今上帝という事になる。
実は今上帝が春宮だった頃、幼馴染みで相思相愛の姫君がいた――と言われている。
そしてそれは左大臣の大姫ではなかった。
幼馴染みの姫君もそれなりに身分が高く、いずれ入内するだろうと言われていたらしい。
ところがそこに左大臣の大姫が割り込んできた。
そして、幼馴染みの姫君に様々な嫌がらせをした挙げ句、左大臣の大姫は先に春宮に入内して妃になった――と噂されていた。
複数の妻を持つのは普通だし、ましてや帝の妃が一人というのはまずないから左大臣の姫君が入内したところで別に問題はない。
幼馴染みの姫が入内していれば良くある話だから誰の興味も惹かなかった。
恋の話の部分がちょっと珍しい継子いじめ譚で終わっていただろう。
そうはならなかったのは幼馴染みの姫は左大臣の大姫が入内したのと同じ頃に行方をくらましてしまったからだ――と言われている。
それで、この話は今上帝の春宮時代に起きた話を実在しない中納言家に仮託して書いているのではないかと、まことしやかに噂されるようになったのである。
つまり、この物語に書かれているのは今上帝が春宮の時代に実際にあった話。
それも失踪者まで出た!
そりゃ誰だって食い付きますわよね?