03_捕食
「……このへんで、いいかしら」
ついてきてください、と細い路地を馴れた足取りで先行していた彼女が、足を止めて振り向いた。数歩後ろに無言でつき従う黒衣の男も、同時に立ち止まる。
月がまっすぐ照らす、蒼白い路地のまんなかで、美しい女と、さらに美しい男が向き合う。
「だって、もう我慢できないもの」
女の声は、濡れそぼっていた。
対する男の美貌からは、一切の感情が読み取れない。その代わりでもあるかのように、いつからそこに居たのか、彼の足元で小さな黒い影──黒猫が一匹、すり切れたコートの裾にじゃれついていた。
ベルベットの光沢まとう毛並みに、青い瞳の小さな仔猫。両手にすっぽり収まりそうな体格に対し、いささか長めの尻尾は、根元の近くで──二又に割かれていた。
それは、この街ではさほど驚くようなことでもない。
同様に、嫣然と微笑む女がスカートの裾をゆっくりと持ち上げ、下半身をすべて月光のもとに晒すような光景も、裏路地ではそう珍しくもない。
露わになった、下着もつけない美脚の付け根にある黒い翳りのなかから、ぼたぼたと粘液を地面にしたたらせているのが、縦にぎざぎざの噛み合う蟲の顎で、その周りに8つの黄色く丸い眼が並んでいたとしても──まあ、そんなにおかしなことではない。
「アァ、ナンテ美味ソウナオトコ」
下の口が濁った声を漏らすと同時に、女の背中から四本、柔肌とワンピースを引き裂いて長く黒い蟲の脚が生えた。
これこそが、異穴より出て人間を喰らう異形の獣──異獣である。美女の姿は、人間を捕食することに特化した擬態であった。
「さあ、愉しいことしましょ」
今度は上の口で淫らに囁きながら、破れてめくれた服の下から溢れた白い乳房を、人間としての両腕で隠して見せるのは、そのほうが煽情的だと理解しているからだろう。
「──その顔、どこで窃んだ」
男がようやく口を開く。異獣の擬態の多くは、捕食した人間の外見を取り込んで使うのだ。
「ソンナモノ、ワスレタワ」
「他の女のことなんて、忘れさせてあげる」
言い残して、異獣の姿はその場から消えた。
がガガッ、と硬いものを連続して穿つような音が響き、一拍置いて、男の白い前髪をかすめるように粘液が──異獣の涎が、滴り落ちる。
「ホラ、ツカマエタ」
続いて頭上から降る濁った声。見上げようとした首の動きを、彼はすぐに止める。切断された白髪が数本、はらはらと落ちていった。
「そう、あなたはわたしの糸に絡めとられた、憐れな羽虫」
女の声が詠う。
頭上、彼の背丈を三つ積み上げたぐらいの位置に、異獣は浮かんでいた。拡げた背中の四肢の、先端の鉤爪に目を凝らすと、微かに見える細い線が路地の左右の壁に伸びている。
ぶらさげられた女体の下半身では蟲の顔が真下を──男の方を向き、はしたなく開脚した両足の踵からも、鋭い鉤爪が飛び出していた。
異獣は、背中の四肢で左右の壁を蹴りながら、一瞬でその位置まで駆けのぼったのだ。その軌跡に、縦横無尽に行き交う蜘蛛の糸を張りめぐらせながら。
「ウゴカナイデ」
「じっくりと嬲り喰らってあげるから」
「ウゴイタラ、バラバラヨ」
上と下の口が交互に話す。いったい脳は一つなのか、別々にあるのか、興味深いところだが、それよりも今は糸のほうが問題だった。
さきほど、ほんのわずかに触れただけで男の白髪を切り落としたそれは、地球上の如何なる刃物をも上回る鋭さと硬度を備えた超微細剛糸で、それが彼の周囲を完全に包み込んでいるのだから。
張り巡らされた糸と糸の間に、体をねじ込めばぎりぎり通り抜けられそうな隙間があるのは、わずかな希望を持たせて、いずれそれを断つための罠。
「さて、まずはその物騒な刀を」
「ヒダリウデゴト、キリオトス」
勝ち誇った異獣が、右上の蟲肢をぐいとひきあげ、その動きが伝わって糸の隙間の大きさが変化する。刀をぶら下げる左腕の通っていた隙間が、完全に、閉じる。
──しかし、そこには何もなかった。
タタタン、と軽快な音が響く。
上部の女の顔が、焦って周囲を見回し、人間の可動域を超えて真後ろを向いたところで、目を見開く。
真上に、彼は居た。
異獣と同様に左右の壁を蹴り、糸の隙間を縫ってくぐり抜け、一瞬で異獣の頭上まで翔け上がっていた。
その右の黒瞳が、月光の反射にしてはあまりに月そのもののような、蒼褪めた銀色の光をはなつ。
「マサカ……」「ぁあッ……」
下と上の口から同時に、驚愕と恍惚が漏れた。
左手の刀の、柄頭に右手を添えながらも抜刀はせず、ただ黒鞘の先端で異獣の背中のまんなかを、トンと突く。さほど強い力が込められているようには見えない動作だったが、次の瞬間には、異獣の体は凄まじい勢いで地面に叩きつけられていた。
──自らがそこに張りめぐらせた糸によって、全身を無数の肉片に切断されながら。
そして男は、信じられないことだが、どう見ても空中の糸をつま先で蹴ったとしか思えない動きで前方に跳躍し、黒いコートに風をはらませ、ふわりと着地していた。
「挫黒」
静かに呼びかけたのは、誰かの名前だろうか。それに答えるのは彼の背後、月が雲に隠れて濃度を増した闇のなか、異獣の死骸があるはずの空間から聞こえる、ずるりずるりと何かが地面を這いまわるような異音だけ。
「みゃあ」
いや、そうでもなかった。闇の中より、とてとて歩み出てきた小さな黒猫が、足元から返事するように見上げて鳴いた。異音は、すでに止んでいる。
二又の尻尾をぴんと立てた猫は、髭を震わせながらきょろきょろと周囲を見回していたが、やがて前方右斜め上の一点を見詰めた。
「──ジャンガ・ジャンガ、か」
同じ方角を見詰めながら呟く男に、「にゃあ」と答えて猫は走り出す。追うように、男もコートの裾を翻す。
彼らの立ち去った路地。雲が晴れて月光が照らしたそこに、あるはずの異獣の死骸は、飛び散った血と小さな肉片だけ残して、どこかへ消え失せていた。
──何者かが、貪り喰ったように。
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黒くて四角い塊の、なかでも際立ち天をつく巨塔──かつてはこの廃都を統べ、東京都庁と呼ばれた巨大建造物。
周囲に発生した地割れから沁みだす瘴気によって局地的な高瘴度が記録され、異獣の巣と成り果てた魔塔の、最上階はふたつあった。
天高くそびえる南と北の展望台、並び立つ双塔が「ジャンガ・ジャンガ」と呼ばれる由来は、今となっては定かでない。
どこかの国の神話で、二人の巨人が世界を滅ぼすとき唱えていた呪文だとか実しやかに囁かれているが、廃都に真偽を確かめる手段はないし、一銭にもならないことをいちいち気にする住人もいない。
そんな双塔ジャンガ・ジャンガの真ん中の空間いっぱいに、塔と塔をつないで巨大な蜘蛛の巣が張りめぐらされていた。そして糸の集まる中央には当然のことながら、相応しく巨大な蜘蛛のシルエットが鎮座している。
「……あァ……我が愛し娘の糸を切りしは……何処の誰ぞ……」
悲しくも恨めしい声に応えるように、ざわざわと巣が蠢いた。糸の根本に集う無数の半人半蟲──裏路地で黒衣の男が斃したものと同じ姿、まったく同じ女の顔が付いた異獣どもが身を震わせ、飾り物の白い乳房を揺らしている。
「赦さぬ……絶対に、赦さぬぞ……」
現在の廃都は七体の特定危険異獣──特異獣の恐怖によって、支配されていると言ってもいいだろう。
其ノ指定参號、新宿廃都庁に巣食いし大魔蟲「阿羅拗」は、星空に昏い呪詛を響かせた。
(読了ありがとうございます! とても趣味に走った作品ですが、もしお気に召しましたら、ブクマや★評価をよろしくお願いいたします)