02_異穴
東京スカイツリーと呼ばれていた巨大な電波塔が、一夜にして消滅した。
跡地には直径100メートルに及ぶ円形の、底の見えない大穴がぽっかりと口を開けていた。
大穴を発生源とする未知の成分「瘴気」が検出され、獣化症をはじめとした人体への影響が確認されるのは、もっと後々の話。
当日に起きたのは、穴の縁から這い出した外見もサイズも地球上の生態系から逸脱した異様な生物たちが、見物に来ていた群衆を片っ端から喰い殺すという惨劇に端を発する、阿鼻叫喚のパニックだった。
その日の朝の食卓には、現場のリポートに出ていた新人女性アナウンサーが上半身を齧りとられた直後──下半身のみでその場に座り込む瞬間が生中継され、日本中を震撼させたという。
大穴は「異穴」、這い出した異様な生物群は「異獣」と呼称が決まってから、二年後のこと。自衛隊と米軍共同による異穴封鎖/異獣掃討作戦は第六次の失敗をもって完了し──日本の首都・東京は、「放棄」された。
すでに、それから半世紀以上が経過している。
首都放棄の影響で急下降した経済には未だ回復の見込みもなく、日本の国力は地に落ちた。引きずられるように、治安も悪化の一途を辿っている。
そんな社会からあぶれた人々が最後に流れ着いたのは結局、廃墟と化したかつての東京だった。
当初は異獣に脅えながら隠れ住んでいた彼らの中から、まるで環境に適応するかのように、獣化症や過感応症など超常的な力を得る者が現れたのは、首都放棄より十年ほど経過したころのことだ。
発症の報告は、異獣の活動圏とも一致する異穴より半径20キロ圏内に限定されていた。また瘴気濃度──瘴度の高い区域ほど、件数も多かった。
そういった事実から瘴気の影響による「風土病」として、便宜的に「病名」を与えられているが、原因も仕組みも治療法も何もかも、未だなにひとつ解明されてはいない。
法の及ばない地ということも後押ししてだろう、超常の力に目を付けた反社会的組織やカルト宗教団体が流入し、廃墟に根を張っている。
そうして、かつては日本の経済の中心だった場所に独自の経済圏が──相応に歪んだものではあるが──形成されるまで至ったことは、皮肉と呼ぶべきなのかも知れない。
すべての元凶、異穴。瘴度も異獣遭遇率も廃都全体で最高値を叩きだすそこに飛び降りて、生きて帰れる道理はない。そもそもそれが斡旋屋の昔話なら、彼の若々しさは計算が合わない。
──とは言え、一本残らず真っ白い髪も、同じく白い睫毛に飾られた涼しげな目元の向こうで、黒瞳がたたえる深淵にも、刻まれた歳月の重みを見出すことはできる。
だから彼を目撃した者に、何歳ぐらいに見えたか問うたなら、多くは年齢不詳と答えることだろう。
転がる三つの骸から、流れ出てひとつに繋がる血だまりに、嘲るように映った三日月。それを背に佇む黒衣の男に、闇の中から足音が近付いた。
「あの……あぶないところを助けていただき、ありがとうございます……」
いまや動かぬ肉塊と化した男たちから、先刻まで必死に逃げていた女だった。半分だけ振り向いた恩人の横顔を、潤んだ瞳が凝視する。
「どうかお礼を、させてください……」
紅い唇から、濡れた声がこぼれた。
──街のどこかで、猫がにゃあと鳴いた。