01_時雨
黒くて四角いかたまりが、星を隠して乱れ立つ。かつては日本の首都と呼ばれた巨大な廃墟の一角に、その街は存在している。
──傾鬼町。それが、現在の呼びかただ。
眠らない夜を彩った明りが消えて半世紀以上。人通り途絶えなかった道はひび割れ、闇を行き交う影もまばら。そもそもこの街の夜を闊歩する影なぞ、人かどうかすら怪しいが。
そんなふうに廃れ果てた街並みを、若い女が走っている。逃げている。
黒い建造物の影が途切れた瞬間に、蒼白い三日月が照らす整った貌は、恐怖に歪んでいようとも美しさを損なわず──乱れた長い黒髪もあいまって、嗜虐的な魅力さえはなっていた。
事実、彼女を追いすがる男たち三人の目は暗がりでもわかるほど獣欲にぎらつき、卑しい笑みに歪んだ唇の端から、こぼれた粘液が頬を這いずっている。
「待てよ、殺しゃあしないから」
「いっしょに愉しもうぜ」
小花柄ワンピースの裾をひるがえし、必死に走る女の鼓膜を、背後から男たちの声が舐めずる。そのおぞましさのせいか、彼女の足はもつれて、しなやかな肢体は前のめりに宙に浮かんでいた。
「あッ……!」
赤い唇から思わず漏れた嬌声は、ますます捕食者どもの劣情をかき立てる。前をゆく二人は我先にと、倒れこむ彼女の背中に手を伸ばしていた。
そのときだ。女の前方、闇の中から伸びた何者かの手のひらが、彼女の胸で揺れる豊かな乳房の中央を「トン」と軽く突く。
「え……!?」
ただそれだけで彼女の全身はバランスを取り戻し、そこに佇む何者かの真横を、戸惑いながらもしっかりした足取りで走り抜けていった。
「クソ、なんだてめえは」
「邪魔してんじゃねえぞ」
手の届きかけた悦楽をお預けにされ激昂しながらも、獲物を追って前方の何者かの両脇を走り抜けようとした彼らの言葉は、半ばで途切れる。
──同時に細い銀色の線が、闇の中を走った。
今度は男たちの足がもつれ、前のめりになっていた。
倒れ込みながら、彼らの頭部のシルエットがちょうど上下均等に分割される位置でずれる。鼻梁から耳を通って後頭部まで、きれいに輪切りにされた顔の上半分は、倒れた勢いのまま前方にすべり落ちて、びちゃりと黒い液体をまき散らしていた。
「ああ!? なんだ、おまえ」
少し遅れて追いついた三人目が、異変に気付いて足を緩める。輪切りの頭部から体液をぶちまけ、地べたで痙攣する仲間二人に挟まれた人影と、対峙する。
三人目は巨漢だった。ちょうど建物の影が途切れた場所で立ち止まり、月光に照らし出された背丈は二メートルをゆうに超えるだろう。タンクトップのはち切れそうな筋肉たちは、八割方が黒い剛毛で覆われている。
対する人影は、丈の長いコートらしきアウターをまとい、片手に何か細長いものを携えた長身痩躯の、おそらくは男──闇の中でわかるのは、そのくらいだ。
「きれいな顔だな。さっきの女より、おまえのほうがよさそうだ」
頬の半ばまで裂けた唇を、べろりと舐める巨漢の舌は異様に太く長く、その奥に獣じみた大きさの犬歯がちらり覗いた。
──獣化症。瘴度の高いこの街では、比較的ポピュラーな異形である。
夜目が利くのもその症状のひとつ。仲間たちを殺した相手の顔が、闇の中でもくっきり見えているのだろう。ただし、その視線に宿る熱は怒りでも悲しみでもなく、爛れた欲望だった。
「しかも、そいつは日本刀だろ? 真物ならいい金になるじゃねえか」
さらに相手の片手の長物に目を向け、にたァと下卑た笑みを浮かべる。
彼は刃物を恐れていなかった。獣化症患者の身を覆う剛毛は、非常に高い靭性を備えるのだ。鋼鉄の刃を通さず、銃弾を受け止めたという記録さえある。
「そういやあ……この街でいちばん腕のいい始末人は、いちばん顔も良かったとか、斡旋屋のババアの昔話で何度も聞かされたな」
斡旋屋とは、合法非合法に関わらずあらゆる仕事を斡旋する老婆たちの呼び名だ。
「そいつは女を人質にとられて、自分から異穴に飛び降りたんだと。馬鹿なやつだよ、女なんざいくらでも替えが効くだろうに」
巨漢は月光に照らされた獣貌に嘲笑を浮かべ、一歩ずつ間合いを詰める。影の中の男は鞘を持った左手をだらりと下げ、身じろぎもなく無言で待ち受けている。
「名前はしぐれとかいったな。──ま、お前は別人だろう? ババアと同世代にしちゃ若すぎるし、だいたい異穴から戻れるはずない」
剛毛に覆われた太い右腕を刀に伸ばし、巨漢は影に踏み込んだ。それと同時、影の中から男は月下にゆらりと踏み出す。影を引き連れるように黒いコートをまとって。
すれ違うように交差する二人の間を、銀光が閃く。月光に照らし出される男の横顔はあまりにも端正で、肩下までさらりと流れる真っ白い髪とあいまって、どこか人間離れした美しさをまとっていた。
そして彼の右手には、いつの間にか刀が抜き放たれている。緩やかに反った刀身は、月の光に照らされて、刃紋がゆらゆら波を打つ。
「は?」
刀を掴めず空を切った自分の右手が、そのまま地面に落ちていくさまを、巨漢は呆けながら見ていた。
手だけではない。はらはらと舞う剛毛とともに、二の腕から先が丸ごと切り落とされている。さらには左の腕も、同じように足元に落ちて紅い断面を晒していた。
「──時雨は、刀の銘だ。おれに名は無い」
流麗な所作で刀を納めた男の声は、秋の夜風を想わせる。
「え……なんで……」
最期にこぼれ落ちたのは、何に向けての疑問符か。
キンと響いた鍔鳴りと、同時に巨漢の上半身は、ちょうど二の腕の断面から両の乳首を横切る一直線で、ずれて地面にすべり堕ちていった。