コモドの帰還39
人々はまるで今か今かと暇さえあれば港へ赴き、水平線を見詰めていた。
フラマンタスはまだ到着しない。コモドはまずは友の安全な航海を願っていた。そうしながら、一つの疑問を解消すべきか悩んだ。これは場合によらなくとも誰も得のしない言わば個人的な詮索だ。相手をただ不愉快にするかもしれない。これから村を取り返して住人として一緒に暮らすというのに。訊くか訊かないか、コモドの煮え切らない気持ちを変えたのは一羽のカモメだった。
晴天の宙を舞うあのカモメが俺っちの口笛に応えてくれたら尋ねよう。そんな馬鹿な思い付きをしていた。
コモドは右腕を差し出し、口笛を吹いた。リズミカルにお茶目な音色だった。まだ楽譜は書いていない。いずれ時間が取れればリュートで弾けるようにするつもりだ。
一方のカモメはコモドの周囲を二度旋回し、その腕に止まった。
ズシリと重い衝撃を受けてコモドの心は決まった。
運命神サラフィーのお導きだ。
カモメはパッと飛び立つ。コモドは海に背を向けオルタの町へと歩んで行った。
2
長屋を訪ねるとイシュタルは一人、縫物をしていた。
「こんにちは、イシュタルさん」
コモドが声を掛けるとイシュタルは頷いた。
「コモドさん。こんにちは」
「何を縫ってるんですか?」
「上着を」
「ウルフさんのですか?」
「ええ」
イシュタルは縫物の手を止めて改めてこちらを見詰め返した。
「コモドさん、あなたがエクソア大陸に渡ってから、私のもとへ来るのは分かっていました。あなたが私の口から何を求めているのかも」
コモドは少し驚いて目を見開いた。
「ウルフはいません。お入りなさい。お話ししましょう」
イシュタルが促し、コモドはブーツを脱いで家に上がった。戸は開いたままだ。年頃の二人がまるで密会でもしていると思われたらイシュタルに迷惑が掛かる。
「尋ねなさい」
コモドが隣に座るとイシュタルは言った。冷厳なエメラルド色の双眼がコモドを注視する。
イシュタルの方から話しかけて来るとは思わなかった。まぁ、どちらのペースでも良いんだ。極秘の真実を知るためには。
「率直に訊きます。マグナスという名前に心当たりはありますか?」
イシュタルは頷いた。コモドは大きく驚いた。動揺するほどに彼はビックリした。まさか初手から真実に斬り込むことができるとは思わなかった。
「じゃあ、マグナスの正体はウルフさんですか?」
「ええ、そうよ。彼の本当の名はウルフではなくマグナス」
コモドは思わず身を乗り出していた。
「フラマンタスにも話すつもり?」
イシュタルの声は非難も後悔も感じられなかった。諦めも感じられなかった。ただ訊いてきただけだ。
「それはまだ決めてないです。何故、こうもあっさり認めてくれたのですか?」
姿勢を戻してコモドは訊いた。
「記憶は消せても記録は残るもの。いつかこの日が来るのを私は覚悟しながら彼と歩んで来たわ」
ウルフの正体がマグナスだと知っても、コモドにはマグナスがどういう人物かは当然思い出せるわけが無かった。
「とても長い言い訳を聴いてくださるかしら?」
「勿論」
「……彼は優しかった。私はずっと孤独だった。別の遥か遠い国で仲間と呼べる人達も居たけれど、彼らの前から去らねばならなかった。その前も後も私は孤独が嫌だった。私は孤独を紛らわすために、己の力と使命を悪用し乱用して人々を苦しめた。そして幾度か殺され、天へと召され、再び地上に舞い降りる。私は突然生まれたの。子供の頃もなく今の姿のままに。コモドさん、精霊神を見たあなたなら、神々の存在も信じられるかもしれないわね」
「そうですね」
イシュタルの話は終わってない。彼女は言った。
「孤独な私に手を差し伸べてくれた人がいたの。その人の名前はマグナス。だけど、名前を偽らなければならなかった。その名前はウルフ。彼と少し二人きりで旅をし、私は人間の優しさに気付いたの。そしてその時になってようやく感じたの私は寂しかったのだなって。あなたの記憶には無いですが、マグナスはあなた方の仲間だった。けど、去らねばならなかった。孤独を背負った者同士、私達は打ち解け合った。コモドさん、真紅の屍術師を御存知よね?」
「忘れませんよ」
するとイシュタルが縫物を膝から退いて、厚手の上着を舞うように纏った。その色は赤だった。それを意味することを知り、コモドは瞠目したが、辛うじて声を押し止めた。
「真紅の屍術師だったんだね」
「ええ」
コモドはゾンビ騒ぎの首謀者とは言わなかった。言ったところで得られるのはイシュタルを無意味に傷つけられることのみだ。
「正体を知った私を、ウルフは、いえ、マグナスは一度は拒絶した。私はそんな彼を傷つけてしまった。心の中で嘲笑い、心の中で後悔した。だから罪滅ぼしにフラマンタスの手にかかった。だけど、多くの罪のない温かい人々を屍に変えたことへの後悔がそこで押し寄せた。散々罪滅ぼしと言ったかもしれないけれど、私はここでようやく自分の罪を理解した。そこで天へ帰る前に決めたの。今度は罪滅ぼしがしたいと」
イシュタルは一呼吸置いた。そして口を開いた。
「だから眠っているクシルスト姫の起こし方をマグナスに伝えた。彼にとって最愛の人だった。私は一人、孤独に罪滅ぼしの旅に出ることを決意した。だけど、その時、彼が、マグナスが言ったの。自分も共に私の罪を償うって。私は彼を愛した。クシルスト姫に奪われたくは無かった。だから彼と彼にまつわるあなた方の記憶を消し、彼と共に歩むことにした。コモドさん、私はまた罪を重ねてしまったわ。私は記憶の封印を解くべきなのかしら? いえ、あなたに訊くまでもなく解くべきなのよ。私は罪滅ぼしのためにこうしてイシュタルとして降臨したのだから」
イシュタルが素早く立ち上がった。
「イシュタルさん、余計なことを詮索してごめんなさい! イシュタルさんは記憶の封印を解くべきではないよ!」
コモドは慌てて声を上げた。だが、目を閉じたイシュタルは何らかの聞き覚えの無い言葉を紡ぎ始めた。
こうなることは分かっていたんだ! 俺っちの馬鹿野郎! 自分の好奇心を満足させるために、こんなことをしてはいけなかった!
だが、イシュタルは旋律を詠み続けている。
「ただいま、イシュタルさん」
声がし、ウルフが表に立っていた。
イシュタルの声が止まった。
「おう、いらっしゃい、コモドさん」
ウルフが言った瞬間、イシュタルは駆け出し彼の胸に飛び込んだ。長い緑色の髪の毛が舞った。
「おっと、どうしたんだい、イシュタルさん?」
イシュタルは静かに嗚咽を漏らしていた。ウルフの目がコモドに向けられた。コモドはバツの悪いし、不思議がる視線を受け止めた。
「早合点しないで。コモドさんは相談に乗ってくれたのよ。彼が神父で私が教徒。私のあなたにも話せなかった苦しみを打ち明けてたのよ。ウルフ! あなたの本当の名前はマグナス! あなたを記憶喪失にしたのは私! あなたを世界で孤独にしたのも私! 許してとは言わないわ、私は」
そこでイシュタルの言葉が途切れた。ウルフが、いや、マグナスが口付けしていた。そして顔を放すと微笑んだ。
「私は孤独ではない。あなたがいる。過去なんか要らない。私達はこれから共に歩んで行くことだけを未来だけを考えればいい。あなたが挫ければ私は手を貸す。ウルフ本人として。それともマグナスの方が良いかい?」
「いいえ! いいえ! 私だけのウルフ!」
イシュタルは激しく取り乱し、かぶりを振った。
「だったら、私はウルフだ。イシュタルさんと共に歩む者、あなたを愛する者ウルフ」
ウルフはそう言うとイシュタルを強く抱きしめ、目を閉じた。
コモドはそのまま出て行った。
イシュタルの正体、ウルフの素性。知らなければ良かったんだ。知らないままならどれだけ楽だったか。
コモドは重い自責の念の囚われているのを悟った。
フラちゃんにも話さない。これは墓場まで持って行く秘密だ。例えクレハにでも話せない。話したところでどうというわけでもないとは思うが。
コモドは振り返った。ウルフとイシュタルの部屋の引き戸は閉められていた。
二人を安易に傷つけてしまった己が恥ずかしかった。コモドはそのままただ港へと向かったのであった。