コモドの帰還10
鼻をくすぐる良い香りがする。目の前には黒髪の後頭部があった。彼女は嬉しそうに声を上げている。
「ペケちゃん、ゴーゴー!」
「あんまり急かすと少年が追いつけないから。それに落ちて怪我でもしたらロベルト村長に合わせる顔が無いよ」
コモドは困惑気味に、そして呆れて言うと、クレハは振り返った。
「ロッシも早いけど、ペケちゃんはそれ以上だね」
「話、聴いてた? まぁ、良いけどとりあえず前向いてね」
「はーい」
そしてコモドは振り返る。アネーリオはコモドの盟友ヒューから教わった馬術で追いついてくる。黒くたてかがみの長いロッシはイケメンの馬だが、脚力はペケの方が優っていた。
コモドは速度を落とした。ただでさえ、街道である。人の往来だってあるのだ。急ぎの旅かもしれないが、急ぎでもないかもしれない。だったら急ぐべきだが、コモドは速度を落とした。
アネーリオが追いついた。
「コモド兄ちゃん、俺のこと置いてけぼりにしようとしてた?」
不満気にアネーリオが口を尖らせた。
「違うよ。とりあえず、速度落とそう。途中のグミ村で今日はおしまい」
「ええ? 王都まで突っ走ろうよー」
クレハが袖を引っ張る。
「ちゃんと掴まってなさい」
「はーい」
そしてコモドに抱き着いた。
「あのねぇ」
「えへへ。胸当ててあげようか?」
「何言ってるの。ダメだよ、そんなことしたら」
「コモドにぃなら良いもん」
ああいえば、こういう。コモドはもはや口ではかなわなかった。このコモド様がねぇ。少しだけ悔しくも思った。
アネーリオは別段興味なさげに前を向いていた。そして剣を抜いて手綱を放して振るった。
「うーん。やっぱり、重心が傾いちゃうな。足の筋力つけないとダメだな」
少年は剣を腰の鞘に収めた。
2
グミ村はグロウストーンとは隣同士仲の良い村であった。村人同士名前も知ってはいるようだが、コモドはこう見えて前回の旅以前に村からあまり外に出たことが無かった。老師との稽古、村の雑事、カラカラの世話。やることは色々あった。年に二回、春と秋にグロウストーンから民芸品を王都に売りに運ぶ際の護衛も退屈そうで引き受けたことは無かった。つまり、コモドはこう見えて王都は初なのだ。グミ村も久しぶりだ。
クレハの顔パスで門を潜ると、馬を下り、ペケとロッシをすぐの厩に預けた。それもクレハの案内によるものだった。彼女は民芸品を売るために王都へは何度も足を運んだことがある。その時は父のロベルトや村の鍛えられた男達に護られていた。
厩の主もクレハと顔馴染みで話し込んでいた。表面的に人好きのコモドが、その様子を遠くから眺めている。
俺っちがしっかりしないと。アネーリオを荷物だとは思わないが、彼だって王都は初めてだし、この大陸だってそうだ。どうにか年長者として二人を先導したいものだ。
戻って来たクレハの笑顔を見てコモドは溜息を吐いた。
「どうしたの、コモドにぃ?」
「何でもないよ。二人とも暇なら遊んで来ていいよ」
コモドが言うとクレハが応じた。
「コモドにぃ、宿の場所分かる? ウェルギリウスっていうところしかないから、早めに部屋とっていた方が良いよ」
「そだね」
「コモドにぃと一緒の部屋が良いな」
クレハがウインクし、誘惑してきた。
「それは」
「それが良いと思う」
意外なところから敵が現れた。アネーリオは生真面目な顔で続けた。
「何かあったときのために固まっていた方が良いと思う」
エクソアのゾンビ騒ぎの余韻と経験が少年をそう言わせているようだ。
「大丈夫だよ、もうゾンビとかは無いから。酔っ払いが部屋を間違えるぐらいでしょ」
「いいや、気を抜いちゃだめだよコモド兄ちゃん。俺が未明まで部屋の前で番をするからコモド兄ちゃんはそれからね」
どうやら、あの経験は少年の意識と心に根深いものとして刻まれてしまったらしい。確かに、ゾンビ騒ぎで昼夜問わず、気を張っていた。それがこの少年をここまで神経質に、いや、仲間を思う心を大きくさせてしまったのだろう。
コモドは折れた。少年が納得するように付き合ってあげよう。そのうちあの時は異常で、本来、世界は平和だと思い知るだろう。愛しのマリアンヌ姫が諭してくれたら一発だったかもしれないが。
「うんうん、それが良いけど、あんたさ、アタシに欲情して襲ってきたりしないでよね?」
クレハが言った。
「欲情って何?」
アネーリオが純真な目でコモドを見た。
「うーん、してはいけないこと。自分との戦いだよ、少年」
「自分との戦いか。分かった、欲情しない」
アネーリオはそう応じた。コモドは少し疲労感を覚えた。
「宿なら村の人に訊いて最優先で取るから、二人は遊んでらっしゃい。これ御駄賃」
コモドは銀貨を二枚ずつ渡した。
「ありがとう、コモド兄ちゃん。じゃあ、村を見てくるよ。武器屋はあるかな」
アネーリオはそう言って去って行った。
「うーん、アタシは銀貨よりもコモドにぃの子種の方が欲しかったな」
「そういう話はこの旅ではしないでおこうね。そら、クレハも行っといで」
「……はーい」
クレハは不服そうな返事を残して去って行った。
コモドは一気に疲れた。少年はヌイさんに任せるべきだったかな。重い荷物を自ら引き連れて来たような気分になった。
村人に顔見知りはいない。コモドは丁寧に接し、辞去し、居酒屋兼、宿のウェルギリウスへ辿り着いた。
村一番の建物だろうか。グロウストーンにも宿はあるが、居酒屋も入っているためか、故郷の集会所よりも大きな建物にコモドは少し驚いた。
こんな小さな村にねぇ。俺達みたいに王都までの旅の途中に泊る人がいるんだろうな。
実際、露天商が呼び込みをしていたり、旅姿の外套を纏った人達もいた。建物が混在する村の本道はそんな人間ばかりが目立った。
ウェルギリウスの大きな扉を開くと、体格の良い壮年の男がカウンター越しに現れた。一階は当然、居酒屋だ。テーブルとイスがある。客はいなかった。
「二人部屋を一晩」
「空いてるよ。宿帳にサインとお金は前払いだよ」
コモドはサインし、お金を支払った。散策に出ようかと思ったが、後から入って来た客達に道を阻まれ前に進むしかなかった。
「いい娘だったぜ」
「今夜あたり」
男達は背の低いコモドが見えていないようでそう言い、怪しく笑っていた。
コモドは不穏な気配を察し、男達を観察した。黒の外套に黒のカウボーイハット。外套の膨らみからすれば長剣を佩いている。手練れかどうかは分からない。
今夜、どこかの娘が襲われる。
コモドは相手が気付いていないことを確認し、そっと後ろを抜けて外に出たのだった。