1話 下衆の思考
古めかしい、煉瓦造りの家々が通りに建ち並んでいる。王城に向かって伸びるこの大通りには、多くの市民が行きがかる。活気に溢れた人の波の中、すいすいと、すり抜けるように流れの逆を歩く少年がいた。
「はー、これ便利だな、『自動歩行』。普通に歩いてたら絶対潰されてた」
ぶつぶつと独り言を呟いている、猫背気味の少年。彼の姿は、現代日本であれば極めて一般的なものだった。少し裾が余っている黒のパーカーと紺色のジーンズ、右手にはスマートフォン。黒い髪はナチュラルヘアと言い張れなくもない程度にボサボサで、長い前髪の隙間からはやはり真っ黒な瞳が覗いている。
取り立てて特筆すべきところもないような彼の姿は、しかしこの空間において異様なまでの存在感を放っていた。
トカゲ頭の大男が、淡い光を放つ薄い板に怪訝な視線を向けていく。ウサギの耳を生やした少女は彼の風貌に指を指し、手を繋ぐ母親に注意される。それ以外の、人外的な特徴を持たない"普通"の人間は、現代の社会であれば異質とみなされるような、カラフルな髪色と瞳の色を持っている。
この空間においては、彼の存在こそが異様そのものであった。
「……そういえば、この格好だいぶ浮いてるな。なんかいいスキルないかな」
そしてそのことに気づく少年。せっかくのファンタジー世界なんだし、と呟きながら、スマホの画面をスクロールしていった。くるくると流れていく無数の項目。やがて画面は一つ、『着せ替え』と書かれたアイコンを表示した。それをタップすると、途端に、少年の身体が眩い光を発しはじめる。しかし周囲の人々は、そんな不思議な光景を意に介さず進んでいく。
光が収まった時、少年の姿は、先程までとは全く違うものとなっていた。鮮やかなオレンジ色の髪に、赤と青のオッドアイ。服装も周囲に溶け込むようになり、まさしく異世界の住人といった様相だ。ただ一つ、この世界で最も異質なスマートフォンを除いて。
「……これ変わんないなら意味ないだろ」
不満げに呟いた少年は、ポケットにスマホを仕舞い込み、前を向いて歩いていく。
七花 燕は小市民である。半引きこもり、高校生。学校には行っていないのでニートと形容してもいい。一日の大半を家の中で過ごし、勉強に精を出すわけでもなくダラダラとした日々を送っている。誰からの賞賛も承認も受けられない生活。しかしそれを打開しようと努力をするわけでもない。そんな少年、あるいは社会のクズが行き着いた結末は、軽自動車に撥ねられての事故死だった。
不慮の死を遂げた不幸な人間が自分で良かった、最後に誰かの身代わりとなれた、そう考えることもなく社会への恨み言を吐きながら生き絶えた彼は、気づくと謎の空間にいた。光源の不明な光が四方から注ぎ込まれる、床のない場所。そこに現れた神々しい女性。彼女は自分を中世ヨーロッパ風の異世界へと転生させてくれるという。ツバメの脳裏に湧き上がる、一つの疑問。
「あの、つかぬことをお聞きしますけれども」
「はい?」
「それって当然チートスキル付きなんですよね?」
「もちろん」
彼には、スマートフォンの中に搭載された無数のアプリに対応したスキルを行使できる、という力が与えられた。彼の所持していたiPhone7が姿を変え、幾何学的な文様の掘り込まれた近未来的なものになる。
「かっこよ……!」
「それは壊れることがありません。他の人には扱えず、念じれば貴方の元に飛来します。それでは頑張ってくださいね」
光がツバメの体を包む。徐々に視界が白く塗り潰されていく。やがてぷつんと、意識が途切れた。
かくして、ツバメは異世界への転生を果たした。王城の庭の隅に生み落とされた彼は、守衛の兵士に発見され不法侵入として追われ始める。咄嗟に発動した催眠スキルによって逃げ延び、王城の外へ飛び出したツバメは、溢れかえる人間の中でたった一人、新たな人生への第一歩を踏み出したのだった。
「それで、どうしよっかな」
今後の展望についてあまりにふわっとしていたことに気づき、ツバメは休憩がてら公園のベンチに座っていた。疲労回復のアプリもあったが、なんとなく字面が怖かったのでやめておいた。どちらにせよ、一日中歩き回っているわけにもいかないのだ。スキルも万能ではあるが無制限ではない。さらにツバメには目標があった。
「……やっぱまずは、女の子だよな。ハーレム作ろうハーレム」
ぼんやりと、転生することを聞かされてから頭に浮かんでいたビジョン。前世で関わった異性は母親と祖母ぐらいしかおらず、日頃から摂取してきた創作物頼りの知識でなんとなく憧れてきただけなのだが、彼にとっては大きな目標だったのだ。そして今、彼の手にはそれを容易に達成しうるだけの力が与えられている。
「……洗脳、とかはできなくても、なんか、バトルで大活躍とかしてたら多分誰かしら寄ってくるよな」
ふわっとした目標から、ふわっとした展望が練られてゆく。
「んじゃやっぱ冒険者ギルドとかかな、あるよなそういうの」
検索アプリを起動し、調べてみる。結果、ギルドと呼ばれる組織が存在すること。そしてギルドに所属することが、この国での身分を証明することになるということが分かった。そうすれば、例えば魔獣の討伐依頼だったり、薬草の採集依頼だったりの仕事も受けられる。スライム討伐なんかの簡単なものでも日銭を稼ぐことぐらいは出来るらしい。おそらく、スキルを使えばもっと高難度のものでも可能なのだろう。
ハーレムもいいけどとりあえず今日は夜を越すための場所が欲しい。そんな思いで、ツバメはひとまず冒険者ギルドを目指すことにした。地図アプリでギルドを指定し、自動歩行で歩き始める。
意識せずとも、勝手に傷害を避けて歩を進める身体。必然、脳は暇になる。彼は流れていく景色をぼんやりと眺めながら、この先この世界で無双していく妄想を広げていた。
その時、一人の少女と目があった。――いや正確には、目を合わせた。
美しい少女だった。整った顔立ちの人間が多いこの世界でも、一際端正な相貌。長い白髪は、それそのものがプリズムの役割を果たし、虹色の光を帯びている。そしてそれ以上に華麗で、清雅で、壮麗な輝きを放つ、水晶でできた二本のツノ。
(――鹿?)
ツノの形と、彼女の纏う荘厳さ、神秘性にふと連想する。
(……けど、あれは)
しかし、そんな存在、神々しさすら感じる鹿の少女は、今、鎖の付いた首輪にその肉体を繋がれていた。みすぼらしい服装。汚れた肌。せっかくのツノは、片方が無惨にも折れている。路地裏で、何者かに首輪を引かれているらしい、奴隷の少女。
一瞬にして、そんな、この世界の最底辺を生きる少女に、目を奪われた。
「……そういや、奴隷の女の子助けたら、惚れてくれるんじゃね?」
下衆の考えが、次に浮かんだ。