要求
魔法円にモヤが集まり出したのを見て、水姫は近くの家の屋根に飛び乗った。そこから屋根伝いにどんどん高さを上げ、八階建てのビルの屋上へ上がる。周囲をぐるりと見回し、標的の位置を記憶すると思い切り良く地上へ飛び降りた。
二メートル、中型の狼を手当たり次第に叩き割る。何時もならどこでも当たれば良しと振り回すのだが、大発生という異常事態の空気が彼女に驚異の集中力を発揮させた。動きの素早い狼の頭部に、一撃、二撃、正確無比な打撃を叩き込む。
確認した範囲の討伐を終えると、足りなかった、逃げたと思われる悪意を追いかけまた屋根伝いに駆ける。五つ程路地を越えた先に、いた、女性に牙を向けている狼が。水姫は屋根から勢いそのままにジャンプし、背後から狼に戦鎚を振り上げた。
それは女性を巻き込みかねない位置。けれど今の水姫には、人間など目に入らない。
「――危ないっ!」
ずがん、武器の先端は狼の後頭部を捉え、コアを割っても勢い止まらず灰色の身体が地面に抉り込む。悪意がモヤとなって消えたのを確認し、水姫は信護の足先すれすれから戦鎚を引き抜いた。
押し飛ばした女性に怪我がない事を確認し、避難経路を伝え見送る。付いて行かなかったのは、妹が心配だったから。
「水姫、今のはあの人に当たってたらどうするつもりだったんだ! もう少し周りを見ろ! 一人で戦ってるんじゃないんだぞ!?」
「……うっさい」
「水姫!」
兄を無視し、水姫は敵を探す。今度は悲鳴の聞こえた方へ、助ける為ではなく、倒す為に。信護はそんな彼女にめげず、一般人の運動力で何とか後を付いて行く。
公園の真ん中に、三十人程の民間人が固まって震えていた。その周囲を取り囲む様に、五体の狼と十体の烏がうろついている。襲っていない、見張っていた。その始めて見る異様な光景に、信護は少し尻込みする。一方の水姫は武器を構え、一目散に突っ込んでいった。
「動くな!」
人混みの中の一人がそう声を出したが、水姫の戦鎚は既に狼の身体を捉え、灰色の躯体が後方に吹き飛ぶ。やったな、そう呟いて、女性はぱちんと指を鳴らした。
「きゃあああああああ!」
少女のか細い腕に烏の嘴が突き刺さる。動揺は人混み全体に広がり、パニックになり駆け出す人もいたが、その行き先は烏に塞がれた。
「悪意達に手を出したら、何も関係ないこいつらが傷付くよ。大人しくしな、狩人め」
「っ……水姫、止まれ!」
「なっ……離せ! 悪意を放っておく訳には……!」
「今は民間人の安全が最優先だ!」
信護は水姫を羽交い絞めにして引き留める。彼女は暫く暴れていたが、悪意ではない『敵』の存在に気付き冷静さを取り戻した。
女性は灰色の烏を従え、人混みから一歩前に出る。
「要求がある。この人質達の命と引き換えに――久々里菘を解放しろ!」
自分達にそんな事を言われても、兄妹は二人してそう言いたげな表情を浮かべた。
新月はワンピースのポケットから光る刃物を取り出した。
「これは純銀のナイフ。昔から化け物退治の道具として知られている。けれど、わたしが使っても効果が無いの」
言いながら新月はナイフの刃を自分の左手首に当てた。その刃物は切れ味が良く、どんどん深く内側へ入っていく。頸動脈が切れた、そう分かる程の出血がぼたぼたと地面のコンクリートに落ちる。慌てるあなたに、新月は見てて、と静かに声を掛け、ナイフを手首から離す。
断面からモヤが染み出て来た。傷は見る見る内に塞がり、零れた血もモヤになって消える。一分も経たないうちに、彼女の腕は元通りになった。
「何度も試したのだけれど、自分じゃ自分を殺せないみたい。わたし以外の念が流れていないと駄目なのね。だから、お願い、
わたしを殺して」
ナイフの柄をあなたに差し出し、新月は笑顔でそう言う。
通信機の声が遥かに遠く聞こえた。悪意に周囲を取り囲まれている事なんてすっかり頭になかった。彼女の姿と声だけが、あなたの脳内を支配した。
「殺して」
何故こんな事になったのか、あなたは知らなければならなかった。