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「呼びたくないのなら、ムリにとは申しません」
顔を背けながらドロシーは、ぽつりと言った。その声には、どこか叱られた子供のような気まずさと開き直りがこもっていた。
「そういう問題ではありません。何故、私に黙ってこのような届け出を出されたのかを伺っているのです」
ドロシーも貴族になるのだから跡継ぎは必要だろう。結婚するつもりがないのなら、養子を取らなくてはならない。そこまではわかる。けれど、自分より十も年上の男を養子に迎えるなど、非常識にも程がある。
「……恩返しがしたかったんです」
目線を下げ、両手をぎゅっと握り締める。
「この半年間……いいえ、王宮に来て以来、エクスには大変良くしていただきました。何かお礼が出来ればとずっと考えていました。前に、エクスは出世がしたいと言っていたので」
「それで、爵位と領地を?」
ドロシーはこくりとうなずいた。血縁のないエクスへ譲るとしたら、なるほど養子縁組が一番手っ取り早い。
「私は、貴族になんてなるつもりはありません。爵位も領地もあなたに差し上げます。お好きにして下さって結構です」
「それで、あなたはどうなさるつもりなのですか?」
「旅に出ようかと思います」
ずっと前から決意を固めていたのだろう。そこだけは迷いのない瞳だった。
「これまでのように辺境で『結界』の外で苦しむ人たちを助けたいと」
「でしたら、私も参りましょう。お忘れですか? 私は、あなたの騎士です」
「忘れて下さい」
ドロシーは首を振った。
「あれは、あなたの覚悟を試しただけです。もう私に付き合う必要はございません。何より、新しい領地の民はどうなるのですか」
ただでさえ、魔物の氾濫に加えて領主交代が重なったのだ。管理する者がいなくなれば混乱する。だが、それはドロシーがいなくなっても同じ事だ。
「あなたがいてこその爵位と領地です。聖女であるあなたがいなくなれば、すぐにでも取り上げられるでしょう」
ドロシーのいない侯爵位と領地を遊ばせておくほどこの国の貴族は甘くない。餓狼の如く食い荒らされ、むしり取られるのがオチだ。それに抵抗できるような政治力などエクスにはない。
「名前だけは残しておきます。それで厄除けにはなるでしょう」
「半年前とは状況が違います。あなたがいなくなれば、国王陛下は血眼になってあなたを探すでしょう」
魔物の大群を退ける魔力もそうだが、『結界』の管理権限とやらを握っているのはドロシーだ。自分たちの命綱を握ったまま、他国への逃亡など許されるはずがない。何が何でも探し出そうとするだろう。
「その時は、追い払うだけです」
ヘリクツにヘリクツを重ねて、まるで子供の口げんかではないか。
「ですが」
「いらないって言っているでしょう!」
不意の感情的な叫びに、エクスは虚を突かれた。何よりドロシー自身が驚いているようだった。申し訳ございません、とささやくように言った。
「……これ以上、私を苦しめないで下さい」
顔を背けながら小鳥のように肩をふるわせる。魔物の大群を消滅させた人と同一人物とは思えないほど、ひどく弱々しい。エクスはふと、手の中の紙を見つめる。たかが紙切れ一枚だが、ドロシーとの関係は大きく変わるのだ。だが、それはエクスの望む形ではない。
これまでにないほど緊張していた。これからの行動次第で、二人の運命が変わる。正直に言えば怖い。けれど、いつかは通り抜けなくてはならない道だ。いくら心地よくても今と同じままではいられないのだ。やってやる。
自分の顔を張ると、大きく息を吸い込んだ。
「あなたがどうしてもというのなら止めはしませんが」
エクスはもう一度、養子縁組の紙を掲げた。
「この書類では、百回出したところで通りませんよ。重大な間違いがあります」
ドロシーが振り返ったところで、エクスは静かにその箇所を指さした。
「私は、エクス・ピークマンではありません」
「へ?」
間の抜けた声が出た。
「実を言うと、半年ほど前に養家を追い出されました。妻とも離婚しましたので、今の私はピークマン家とは縁もゆかりもありません。ただのエクスです」
「え、でも、そんな……」
ドロシーは目を泳がせながら何事か小声でつぶやいている。
「ですが、この前はその、奥様とお会いになって……」
何故それをドロシーが知っているのかという疑問が頭をよぎったが、事情を説明すべきという義務感と話を先へ進めたいという欲望が勝った。
「屋敷を見に行った際に偶然出会いまして」
十五年もいたのだ。それなりに思い出はある。
「けれど、夫婦としての愛情はもう大分前に消えていました。未練はありません。ついでに言えば、ピークマン家にもです」
「……」
ドロシーは脱力したように四阿の長椅子に腰を落とした。目はどこか虚ろで、魂を抜かれたように惚けていた。そこまで驚くことだろうか? けれど、この程度で狼狽されても困る。これからもっとびっくりする羽目になるのだ。
エクスはその前にひざまずき、その手を取る。
「ドロシー、君を愛している。どうかこれからも君の側にいさせて欲しい。息子ではなく、君の夫として」
四阿に風が吹き抜けた。池の水に浸かった体を冬の冷たさが情け容赦なく温もりを奪っていったが、寒いとは感じなかった。握った手からは今、二人の間には途方もない熱量が行き交っていると感じられた。ただ、金と青の二色の瞳が見開かれ、頬に赤みが差していくのを黙って見上げていた。
騎士爵の分際で女侯爵に求婚など、身分違いも甚だしい。きっと世間は色々と取り沙汰するだろう。貴族社会には、悪評や下世話なウワサが駆け巡るだろう。それも重々承知の上だ。たとえ誰に百万回罵られようと、世間の常識という名の鞭で責め立てられようと、この思いを隠しておく理由にはならない。
初めて出会った時はまだいたいけな少女だった。やせ細って、今にもへし折れてしまいそうなか弱さの中に、星明かりのような輝きを感じた。だからこそ、できうる限り守ってあげなくては、と思った。やがて聖女となり、メレディスの婚約者となり、この国の基準から大きく外れても、目を掛け、気を配ってきたつもりだった。けれど、やはり自分もメレディスやほかの連中と同類だったのだろう。本当のドロシーに触れていなかった。
年齢よりずっと子供っぽいところを知っていただろうか。おかしい時には、口を開けて笑うクセを見つけていただろうか。そそっかしくて、ひどく心配性なところをわかっていただろうか。辛さや苦しみを抱え込んだその胸に、何千何万の言葉が渦巻いているのを気づいていただろうか。
この半年、ドロシーはエクスに色々な顔を見せてくれた。それは決して美しいものだけではない。聖女の名にふさわしくない願望すら抱いている。けれど、何もかも全てひっくるめて、ドロシーを抱きしめようと、抱きしめたいとエクスは思った。思ってしまったのだ。
どれほどそうしていただろうか。ふと、ドロシーの目に涙が盛り上がるのが見えた。目の端に溜まった涙は堰を切って流れ、頬から顎をつたって雫となって四阿の床を塗らした。
もう一度、声を掛けようかと思った時、ドロシーが手を振り上げた。軽い音がした。手刀をエクスの頭に振り下ろしていた。
何事かと顔を上げると、ドロシーはまた無言でエクスの頭を叩いた。
「早く言ってよ……」
「すまない」
「わたし、本当に、どうしたらいいかって、毎日……」
「申し訳ございません」
「敬語はやめて」
「……ごめん、ドロシー」
なきじゃくるドロシーを抱きしめようとして、自分の体がひどく濡れているのを思い出した。ついでにいえば靴もない。
どうしたものか、と立ち尽くしていると、ドロシーが泣きながら何事かつぶやいた。
その瞬間、エクスの服が一瞬で乾いた。泥や汚れもキレイさっぱり取れている。
便利なものだな、と感心していると、ドロシーが上目遣いで急かすように訴える。
エクスは苦笑した。そして細い体を抱きしめ、背中に腕を回した。ドロシーは一瞬身を震わせたが、やがて満足そうにエクスの肩に顔を埋める。
「その、今更こんなことを聞くのもどうかと思うけれど」
しばらくその甘い温もりを感じた後、気まずい思いをしながら切り出す。
「もしかして、仮面舞踏会の時に、『お慕いしている方がいる』と言っていたのは、私の事で、いいのかな?」
ドロシーは涙の跡が残った目で瞬きを繰り返した。そして、にっこりと笑いながらエクスの手の甲をつねった。悲鳴を上げる。
「今更ですよ」
「いや、申し訳ない」
そうではないかと気づいたのは、養子縁組の書類を見た後だが、自信がなかった。
「ずっと、ずっと前からあなたをお慕いしておりました」
「……」
面と向かって言われると照れ臭い。顔が赤くなるのを感じる。こんな若くもない騎士崩れのどこがいいのだろうか? 問い質したい衝動に駆られたが、それを口にすれば、つねられるだけでは済まないだろう。大人の分別とはこのようなときにこそ使うものだ。
「それで、これからの事なのですが。どうされますか?」
このまま侯爵としてウィンディ王国に居続けてもいいし、また旅に出てもいい。いっそ別の国に向かってもいいだろう。
「君は自由だ。心のままに。今の君にはそれを成すだけの力がある」
かつて後悔した言葉を、今度こそ本心から言った。
「そうですね」
ドロシーがしばし考え込む仕草を見せた。口を開き掛けたその瞬間、けたたましい声が近付いてくるのが聞こえた。
「ドロシィィィィッ!」
どさくさにまぎれた牢獄から逃げ出したのだろう。服も薄汚れ、泥だらけになってはいるが、間違いなくメレディス元・第三王子であった。目を血走しらせ、猿のように歯をむきだしにするその姿は正気とは見えなかった。どこで手に入れたのか、手には血まみれの短剣を握っている。
「私はっ! 無能ではなああああああいっ!」
「とち狂いやがって」
エクスは前に出た。拳を構え、迎撃に入る。前に進み出ようとして、足に踏ん張りが利かず、もつれるように膝をついた。カーネルとの死闘が想像以上に体力を奪っていた。しまった、と舌打ちしながら立ち上がろうとした時には、メレディスは目前に迫っていた。鈍く光る刃を振り上げる。背筋が凍る。自身の名を呼ぶ叫び声が聞こえた。