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王宮に池はいくつもあるが、ここの池は天然のものを利用しているため、ほかの場所よりも底が深い。場所によっては大人の背よりも。濁った深緑色の水に飛び込むと、冷たさを感じる。
同時に、わきあがる泡を浴びながらエクスは鋼の鎧とともに底へと沈んでいく。逃がすつもりはなかった。ここで仕留めなければ、またいずれドロシーの命を狙うだろう。
重い鎧はあっという間に池の底にたどり着いた。腐った落ち葉の堆積する泥の中、カーネルが手足をばたつかせてもがいている。鎧の隙間から気泡が立ちのぼり、水面へと消えていく。
やはりか、とエクスは距離を取りながら得心する。刃の通らないほど継ぎ目のない鎧でも隙間がなければ息が出来ない。今頃、鎧の中は水浸しのはずだ。無論、魔法も使えないだろうし、鎧を着たまま泳げるような重量ではあるまい。
動けば動くほど息苦しくなるのだが、混乱しているであろうカーネルは気づかないようだ。そもそもカーネルが泳げるかどうかも疑わしかった。ウィンディ王国の貴族に泳ぐ習慣はない。海や河川付近の住民くらいだろう。
あとは子供の頃から川で魚を捕って過ごしていた孤児か。
カーネルが顔を引っ掻くように兜を引っ掻き始めた。何とかして兜を外そうとしているようだ。このまま溺死するならそれでよし。もし鎧を脱いで上昇しようとするならば、そこを仕留める。腰に差した短剣を後ろ手で確かめながらカーネルの動きを見逃さないように一挙手一投足に目を配る。
呼吸はまだ保つ。
カーネルの動きが止まった。池の底に大の字になって寝転がる。終わったか、とほっとした途端、不意に重力が甦った。
自分の周囲から池の水が消え失せたのだと気づいた時には、泥の中に膝を沈めていた。痛みに顔をしかめながら何が起こったのかと顔を上げると、巨大な黒い鎧が水滴を滴らせ、彫像のように立っていた。
「魔法というのはな、必要に応じて作られるものだ」
兜の目庇が上がる。水が流れ、愉悦に満ちたカーネルの顔が現れた。
「水の中でも呼吸できるようにするような魔法ならば、だ。その様な状況下でも発動できるように開発するのが当然ではないか?」
要するに、空気の球を作る魔法は呪文なしでも発動できると言いたいようだ。それを使っているからこそ、エクスもカーネルも池の底で呼吸が出来るし、すぐ横を池に放された魚が悠々と泳いでいるのだ。
「『大地縛縄』」
カーネルが地面に手を突きながら魔法を放つ。池の底が波打つように盛り上がり、エクスの足首を絡め取る。
足を上げようとしても隙間なく固められている。触れてみると、汚泥は岩のように硬くなっていた。
「随分となめたマネをしてくれたが、これで終わりだ。溺れ死ぬのは貴様の方だ」
高笑いが池の底に響く。カーネルが呪文を解除すれば、再び池の底は水で満たされるだろう。
エクスの体がぐらりと揺れる。足が固定されているため、倒れることも膝を突くことも出来ず、不自然な体勢になってしまう。
「冥界へ先に行って、聖女の先導でもするがいい。このドブネズミが!」
言い捨てて目庇を閉じようとした瞬間、カーネルは絶叫を上げた。
ブーツを脱いで裸足になったエクスが片手で目庇を鷲づかみにし、反対に持った短剣でカーネルの両目を切り裂いていた。
「まったく、身分の高い方はつくづく呑気ですな」
鮮血に顔を染めて身悶えするカーネルの足を取り、仰向けに転ばせるとその上に馬乗りになる。
「弱点を敵の前に晒しながら得意げにべらべらとまあ……」
鎧の中が水浸しになれば必ずどこかから排水しなくてはならない。呼吸もままならなかった状況ならば兜を外すか、目庇を上げるかするだろうと踏んだのは正解だったようだ。なかなか隙を見せなかったのには難儀をしたが、こちらの動きを封じたと勝ち誇ったのが敗因だろう。
「ま、待て! よせ!」
カーネルはせめてもの抵抗とばかりに両手で顔を押さえながら顔を左右に振る。
誰が待つか、アホンダラ!
エクスは片手でその頭を固定すると短剣を逆手に持ち替え、指の隙間を縫うようにしてカーネルの顔面を刺し貫いた。黒い鎧が二度痙攣し、そのまま動かなくなった。刃をひねって脳もえぐったので、死人返りとして甦ることもあるまい。ほっと息を吐いた途端、頭の上から大量の水が覆い被さってきた。エクスの目の前が真っ暗になった。
水圧と水の冷たさに一瞬、意識が遠のいたものの、どうにか手足で水をかき、水の底から這い上がる。ゆらめく水面に顔を出し、水しぶきを上げる。
池の縁まで泳ぎ、疲れた体にむち打って這い上がると、大勢の人間が待っていた。ぎょっとしたが、よく見ればいずれも国王派の貴族や騎士たちであった。どうやら決着は付いたようだ。
「カーネルはどうなった?」
誰かが聞いた。
「池の底で寝ております」
振り返ると、水面に油を落としたような赤い染みが広がっていた。
歓声が上がった。
誰かが英雄だ、勇者だと持ち上げるが、エクスはまるで他人事のように聞いていた。
「見事であった」
国王陛下からもお褒めの言葉をいただいた。
反逆者であり、敵の大将を討ち取ったという高揚感などなかった。むしろ、なんてザマだと自嘲の笑いが込み上げてきた。
まったく誇り高き騎士とはほど遠い戦い方だ。ずぶ濡れの上に服もボロボロ。剣もなく、満身創痍で、物語の騎士とはほど遠い。
けれど、それが己のやり方だった。これしかなかった。戦場で生き抜いたものの、所詮は凡人である。ドロシーのような魔力は勿論、天賦の才も人並み外れた身体能力も頭脳も持ち合わせていない。
身分も低く、正統な教育も武術も習っていない。そんな男が真っ当なやり方で戦ったところで誰を守れるというのか。かつては剣さばきで鮮やかに敵を討ち果たす姿を夢見たこともあったが、それは己の才にはなかったというだけの話だ。
ならば泥臭かろうと浅ましかろうと小ずるくて見栄えが悪かろうと構わない。守れずに後悔するよりはるかにマシだ。それが騎士でなき者の、騎士としての生き方だった。
「道を空けて下さい。どいて!」
ドロシーが貴族どもをかき分けて現れる。エクスに駆け寄るなり、必死の形相で傷の治療や解毒に解呪といった魔法をかけまくる。
その姿をエクスはどこか冷めた気持ちで見ていた。ドロシーからの好意を疑ったことはない。旅の間もこうしてことあるごとに必要以上の魔法をかけていただいた。感謝はしている。だからといって、何でもかんでも受け取れるものではない。
「失礼します」
体が動くようになると立ち上がり、ドロシーの手を取る。
「申し訳ございませんが、少々用事がございますので。叙勲式はまた後ほど」
一方的に言い残してドロシーを引っ張ってその場を離れる。
「エクス、どうしたのですか?」
早足で歩いているので、前のめりになりながら質問してくる。
「ドロシー様におうかがいしたき儀がございます」
人目に付かない場所を探して、やって来たのは庭園にある四阿だった。
エクスは懐から濡れた紙を取りだした。池の中に浸ってどうなるかと思ったが、良い紙とインクを使っているためだろう。字も一字一句正確に読むことが出来た。
「これは一体、いかなる所存でございましょうか」
ドロシーの顔色が変わった。
「私はあなたを母と呼ぶつもりはございません」
文官が持って来たのは、養子縁組手続きの届け出だった。