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ドロシーが戻って来たのは、翌朝になってからだった。さし迫りすることもないので、王宮で職人たちに混じって復旧の手伝いをしていると、ふわりとエクスの前に舞い降りた。
「申し訳ありません。黙って行ってしまって」
「ああ、いえ」
戻って来るなり深々と頭を下げるドロシーに、かえって恐縮してしまう。
「その、何か、理由でも」
まさかエクスの存在を忘れていたとは思えない。仮にうっかりしたとしてもドロシーならばすぐに引き返せるはずだ。
「それは」とためらいがちに目を伏せる。何か言いにくいことがあるのか、と返事を待っているといきなりスネを叩かれた。
「おめ、聖女様に頭さげさせるでねえ。何様だ、ぼけが」
置いてくればよかったのに、ドロシーはクリスティーナ婆さんも連れてきていた。王宮の中でもこの婆様の傍若無人は健在であった。
「ささ、ドロシー様。こんなぼんくらの表六玉は放っておいて、お着替えするだよ。まずは旅の汚れを落とさねえとな。……ほれ、そこのおめ、とっととご案内するだで。もたもたしてたら日が暮れちまうだぞ」
王宮の侍女に杖を振り回しながらこき使おうとするのだから心臓に悪い。ちなみに、クリスティーナ婆さんが命じた侍女は、行儀見習いで上がっている伯爵家の子女である。
結局ドロシーは理由を言わずに、クリスティーナ婆さんに連れられて王宮の中へと入っていった。
数日後、謁見の間には王都中の貴族が詰めかけていた。
すでにロングホーン侯爵家の断絶と、ドロシーの侯爵叙爵が発表されている。それを聞きつけ、王宮内に与えられたドロシーの部屋には毎日、大勢の貴族が押しかけていた。
美しき聖女様と、少しでも縁を結ぼうという目論んでいるのは明らかだった。祝いの品と称した貢ぎ物で部屋は満杯になり、急いで別の部屋を用意せねばならなかった。婚姻の申し込みも貴族から豪商まで届く一方、仕官の申し出も山のように来ていた。
婿入りの当てもなく、部屋住みの次男三男四男はどの家も一人は抱えている。累代の家来を持たないドロシーは、彼らにとっては新たな大口の仕官先であった。
特にロングホーン侯爵家が滅んで無職になった家臣たちは死活問題である。再雇用が叶わねば、住む家すら失うのだ。親類縁者を仲介し、新たな主への仕官を願い出ている。この際、エイト家への忠誠心など二の次である。滅んだ家では土地も給金ももらえないのだから。
ドロシーはやんわりとそれら全てを断っているのだが、それでも後を絶たない。特にしつこい輩を追い払うのがクリスティーナ婆さんである。何せ遠慮という文字を母体に捨ててきて久しい老婆である。高貴な血筋の方々をそれはもう、きっぷのいい啖呵とともに紙屑かホコリの如く外へ放り出す。いっそ清々しいくらいだ。
無論、そこで無礼だ僭上だ処刑だと剣を抜いたり、家来を差し向ける輩はエクスが丁重にお帰りいただいている。
とはいえ王宮はまだ静かなものだ。王宮内には胡乱な人間は勝手に入れない。代わりに狙い撃ちされたのがエクスである。所用でしばしば王宮の外に出るのだが、エクスの姿を見るなり仕官願いの騎士見習いや傭兵が押し寄せてくる。
どうもドロシーの側近と見なされているらしく、ワイロや色仕掛けまで匂わせる者もいた。それだけならまだしも、仕官願いの者たちがピークマン家にまで押しかけたのには閉口した。
結局、騒動の収拾のために、新たな侯爵家のための人材を広く募ることを約束させられた。
「大変ですね」
なのに、ドロシー本人は涼しい顔だ。もうすぐ叙勲式だというのに、クリスティーナ婆さんの淹れた茶を優雅に飲んでいる。金糸の入った白のローブという、この日のために新調した聖女の礼服だがこぼして染みが出来ないかと見ていてハラハラする。
「他人事みたいに言われては困ります。ドロシー様にも選んでいただかないと」
下級役人ならともかく、騎士団長に家令といった重臣は適当に選ぶわけにはいかない。特にドロシーの侍女はめったな者を雇えないので、口が硬く、身分の確かな者を選別する必要がある。
そもそも、エクスの公式な立場はまだ王家直属の騎士であり、聖女の護衛任務に就いているだけだ。ドロシーの危機であれば命を賭して守る所存だが、事務処理や人材登用などエーメス侯爵家の運営は、能力的にも立場的にも身に余る。
騎士団長のキューゴを通じて騎士爵の返上を願い出ているが、受理されたとの報告はまだ受けていない。生涯の忠誠を誓ったのはあくまでドロシー個人へのものであり、エーメス家に仕官したわけでもない。
「全部お任せします。どうかエクスのやりやすいようになさって下さい」
「いや、ですから……」
「誰が家来になっても、私には関係の無い話ですから」
「え?」
それはどういう意味かと聞き返そうとした瞬間、部屋の扉がノックされた。
「ドロシー・エーメス様。お時間です」
案内の者に促され、ドロシーが立ち上がる。叙勲式の時刻だ。
「それでは行って参ります」
叙勲式に参加出来るのは、男爵以上に限られる。クリスティーナ婆さんはもちろん、エクスも参加は出来ない。
「エクス」
廊下へ出る途中でドロシーが振り返った。
「後のことはお願いします」
「は、はあ」
訳もわからず返事をするエクスに、ドロシーは微笑む。扉の閉まる音が響いた。
何だったんだ、と呆然としているとスネが痛んだ。またもやクリスティーナ婆さんに杖で叩かれたのだ。
「ぼさっとするでねえだぞ、ぼんくらのすっとこどっこいが。おめえにはやるこたあ山ほどあるだでな」
「うるさい」
そんなこと、年寄りに言われるまでもない。
「婆さんこそ帰らなくていいのか?」
旅の間に漏れ聞いたところによると、クリスティーナ婆さんは辺境の生まれである。東のエンドロイド領付近の村で、農婦の娘として生まれた。これまでに四度結婚している。一度目は近隣の農村に嫁として嫁いだのだが、婚家とそりが合わずすぐに飛び出して来たという。実家の手伝いをしながらで次の嫁ぎ先を探していたところで、旅芸人と知り合い、半ば駆け落ちのような形で嫁いだという。
金を貯め、夫と王都に移り住み、子も成したが、すぐに夫の浮気が発覚して大げんかの末にまたも離婚。寡婦となり、幼い子を育てながら小さな金物屋を構えた。そこで知り合った鋳物職人に惚れ込み、妻となった。ところが、流行病で旦那が死亡。最後はとある商人に息子を連れて後妻として入り込んだ。そこで落ち着くかと思いきや、夫は商売に失敗して妻と子を見捨てて夜逃げした。
その後、クリスティーナ婆さんは身を粉にして借金を全て返済した。息子は成人して、王都から南にある小さな町で商売をしているという。
「今更皺だらけの面見せたところで、なあんもええことねえだよ。あっちの嫁さんもらって元気にやっているんだ。それでええ」
息子が嫌がったのだろうなとエクスは見当を付ける。難癖を付けて嫁をいびり倒す姿が目に浮かぶようだ。
「式が終われば、否が応でも仕事がのし掛かってくるんだ。今の間くらい休ませてくれてもいいだろう」
「なっさけねえだな、ええ若いもんが。そんなもったくさしてやっていけると思ったら大間違いだぞ。働けぼけが。じゃなきゃ、くたばれぼけが」
今日はヤケに風当たりが強い。機嫌でも悪いのだろうか。心なしかいつもより言葉に毒が含まれているように思う。
「何かあったのか?」
「おめえには関係ねえ」
とりつく島もない。
「出世するんだから、とっとと嫁でも呼んできて、せいぜい尻でもなでるがいいだ」
「はあ?」
舌打ち混じりの発言に、エクスは首を傾げた。
「俺に嫁さんなんていないぞ」
「ああっ?」
老猫でも踏みつけたような、だみ声が返ってきた。
「おめ、それ、どういうことだ?」
クリスティーナ婆さんが慌てふためいた様子でエクスに食ってかかる。珍しく動揺しているようだ。
「どうも何も。言ったままだ。別れたんだよ」
「いつ?」
「婆さんを雇う少し前だから……半年と少し前だな」
記憶を思い返しながら言う。
「それ、ドロシー様に言っただか?」
「どうして言わないといけないんだ」
護衛の個人的な事情など、わざわざ話す必要もない。
クリスティーナ婆さんの杖が音を立てて床に落ちた。目を皿のように見開き、あごをだらしなく開け、肩もだらりと下がっている。まるで魂が抜けたかのようだ。
「婆さん?」
エクスが呼びかけると、急に肩をふるわせ、ぶつぶつと何事かつぶやきだした。
「……どうした」
「こんの……ばかたれがっ!」
杖を拾い上げるとやたらめったらにエクスを打ち据える。
「おい、やめろ!」
「もう死ねっ! 本気で死ねっ! この底なしのだらすが!」
目を血走らせ、とち狂った様子に、エクスは回避も忘れていた。
ノックの音がした。
「ま、待て。客だ、話は後で聞く」
これ幸いとばかりに扉へ駆け出す。すがりつくようにして開けると、滑り込むようにして外へ出る。後ろ手に閉めながら両開きの扉が開かないように背中で押しつける。扉越しに衝撃と乾いた音が荒れ狂ったように背に響く。
「あの、お忙しいようでしたら後にしますが」
やって来たのは王宮の文官だった。会話こそなかったが、何度か見かけた記憶がある。
「いや、いい。助かった」
「は、はあ……」
切実な口調に、まだ若い文官が曖昧な笑みをこぼす。
「実はですね。エーメス様にご提出いただいた書類に不備が見つかりまして。書き直していただけたらと思いまして」
「書類?」
「こちらです」
返された書類に目を通し、心臓が跳ね上がった。困惑と怒りと眩暈を感じる中、エクスは全てを悟った。ドロシーの発言の意味もクリスティーナ婆さんの激怒も、己自身の気持ちも。
「悪い。行くところが出来た」
書類がまだでも並み居る貴族の前で宣言されたら取り消せなくなる。丁寧に折りたたむと、懐にしまい込む。
「済まないが、少しの間、婆さんの世話を頼む」
文官を扉の向こうに押し込む。あの婆さんの相手をしているヒマはない。駆け出す途中で悲鳴が聞こえたが、気にしない振りをする。
叙勲式ならまだ間に合うはずだ。エクスが駆け出そうとした時、爆発音が聞こえた。
 




