世界のギャップと思考のギャップ
俺はあの後からただ一つ、『美奈を外の世界に連れ出す』を目的に壁を叩き回って、割れたり音が反響したりと言ったところを探し回った。
「なんか無茶してないかな?大丈夫?」
おれの視界の端で、背もたれを胸に当てて座っている彼女が心配そうに言った。
「いや、正直に言うと大丈夫じゃないかな。でも、大丈夫だよ」
虚勢にならない虚勢を張ってみる。実際はとうに限界を迎えてたけど。
「もう。何言ってるのか分かんないよ。とにかく休んだほうがいいよ」
「いや、もう少し頑張ろうかな」
意地を張り続けたのが流石にバレたのか、彼女は椅子を足で動かしながら重い息を落とした。
「休んだほうが良いって。別に私たちまだ先長いんだから、焦んなくても良いって」
「いやもう少し」
「休んだ方が良いって!」
彼女は珍しく大声で叫んだ。その音は激しく部屋を反響する。俺の耳に何重にもなって届いた。
「......ごめん」
流石にダメだと思ったのか、すぐあとに彼女は背もたれに顔を隠して小声で謝った。
彼女の忠告を無視してまで彼女のことを考えた結果、返って彼女を傷つけてしまった。深く、傷つけてしまった。
「大丈夫だよ。ごめん。美奈ちゃんの言う通りに少し休むよ」
これが、俺に出来る精一杯の謝罪だった。
俺は床を見続けながら、彼女の向こう側の壁にもたれることになった。
その後は少し、いやかなり重たい空気が流れていた。時の流れが遅くて辛い。
お互いだんまりを決め込んでしまい、我慢することのない我慢比べのようになってしまっていた。
この空気はなんとかして変えなければならない。......手段があるとすれば食事の時間くらいか。彼女も食事の時は笑顔だったし、仲直りをするならここが最初のチャンスであり、最後のチャンスなのかもしれない。
じっと、双方とも微動だにしなかった。永遠とも取れるその流れを、無機質なあの音が変えてくれることを期待して動けなかったのかもしれない。口こそ動いてないものの、脳だけは動いていた。しかも、かなりうるさく。
静かにしようとしてみる。だけど俺の思考は罪悪感は全てを邪魔して一人勝手に暴れてしまう。
だいぶ待ってようやく、あの時のように、何かが開く音がした。その音を聞いて彼女は背もたれから顔を出して真顔で食事を取りに行った。
先手を取られた。これは俺が後手に回るという証拠でもあったけど、俺はなんか心の底から安心した気持ちにもなった。
もしかしたら、俺はまだ人に何とかして欲しいって思ってるのかもしれない。
彼女の重々しい足音は俺をさらに困らせた。
彼女は食事を取って、そのまま俺の方へと歩み寄る。あの時の笑顔なんてものはないが。
最初で最後のチャンスだった。外したら終わり、狙わなかったら終わりの一発勝負。そして、俺の心臓はネズミのように速く、細かく震える。
単純な勝負ほど、人は返って深く考えてしまうのかもしれない。
そして彼女は俺の目の前に来て、食事を置いた。彼女はそれっきり、俺そのものが居なかったように振る舞い始めた。
機械のような無表情で、箸を手にとって「美味しい」なんて一言も言わずにただ口の中に食べ物を放り込む。
何か、見たくないものを見たときのような感情が俺を襲う。
その様を目の当たりにした俺は、美味しそうな料理しか目のやり場がなかった。
そのまま、俺は食事を終えて二人ともトレイに箸を置いた。
可愛らしかったゲップも、もう聞こえなかった。あれを期待していなかった、と言えば嘘になる。
あのゲップで、お互い笑い合えると。そして、仲直りができると。だけど、そんな小さな小さな期待は実際起きるはずがなかった。
そのまま彼女はその開かれた壁の中にトレイを返して、丁寧に閉めた。そして、そこに横たわった。
その真向かいに俺は横たわって、そのまま逃げるようにしてまぶたを閉じた。
俺はダメだと、人生で一番思い知らされた。
しょうもないことで幼女と喧嘩もどきをしてしまった、心が幼い俺は第三者から見るとどう見えるんだろうか。きっと醜く見えるんだろう。
自分だけの大罪にもがき苦しまされながら、俺はゆっくりと浅い眠りについた。
目を開ける前に『実はこの世界は夢でした!』なんてことを思いながら目を開けてみた。
だけどやっぱり、暗い暗い独房に入れられたままだった。
時間という存在そのものがここに来ると薄れてくる。今は何曜日だろう、何時だろう。そんな物も分からなくなってきている。
そんなことを考えながら、ぼんやりとだが太陽が出てきた今日の夢を俺は脳にもう一度再現させた。
身体を起こして座る。寝違えたのか、はたまた硬い床で寝たせいか、首が痛い。
彼女はちょこんと座り、ゆっくりとご飯を食べていた。箸の動きが最初の食事に比べて遥かに遅い。亀のように慎重に食べている感じがする。
今日しっかりと寝たことによる成果か、俺は心の整理がしっかりとついていた。そして、太陽を見ないと精神的に狂ってしまう、なんて第六感が囁いてくる。いや、もうとっくのとうに狂っているのかもしれない。
俺は真っ直ぐに、一歩一歩着実に近づいていった。根強い足音だけが部屋にほんの少し響く。
足音が完全に止まって、俺はあぐらをかいた。相変わらず彼女は無表情で料理を口に入れている。
「なぁ、美奈ちゃん」
「なに」
彼女は箸を止めて、俺の方をじっと向いてきた。『なに』とは言ったものの、これから何を話すかは想定が付いているような顔だった。
「君の忠告を無視して頑張ろうとしてた俺が悪かった。許してくれ」
「......なんで私の忠告を無視したの」
「君のことを思って、だ」
「私も、康太くんのことを思った。だけど逆効果だった」
そうなんだ。お互いがすれ違っていたんだ。身体が一番の彼女、外に出るのが一番の俺。目的は一緒でも、そこまでのルートは一緒ではなかったんだ。
「お互い思い合ってたんだね......」
「そうみたいだね」
「俺はこの一件で反省した。もっと美奈ちゃんの気持ちを考えないとって」
「私も反省したよ。もっと康太くんの気持ちを考えないといけないなってね」
お互い、改善点は同じなんだ。人の『表』を尊重しすぎていて、『裏』は尊重しきれていなかった。いや、考えてすらなかった。
「だけど、これからはダメだと思ったらダメだって言うから。......そこだけは守ってね」
彼女の小さな声が部屋を歩き回る。
「大丈夫だよ。そこはしっかりする」
この言葉に、嘘は無い。
「じゃあ、ご飯を食べよっか」
「うん」
もうここから抜け出せる気しかしなかった。その勇気は表裏一致していて、お互い汲み取ることができていたはずだ。
そう、信じてる。