嫌悪と期待しかない世界
本当にそうだった。信じている友達との喧嘩、愛していた恋人とのささいなズレ、受験勉強、戦争など、本当に全てが合致している。
幸せを掴むと、誰かも分からない人が幸せではなくなる。だけど、それが誰かも分からない場合が多いから、俺たち人間は幸せを掴もうとする。所詮、人間は自分が誰か分からない人が不幸になっても、別にどうだっていいんだ。自分さえ良ければ。
喧嘩なんてダメだ。戦争なんてダメだ。そんなもの誰もがそう思っている。だけど、思うだけでは事態は止まらない。本当に重要なのは『自分が幸せになることをやめる』ということなんだ。
だけど、そんなことは資本主義のご時世、さらに人間の汚い欲が邪魔するからやめられない。幸せになろうとすればするほど、不幸になっていくものかもしれない。
「ん?康太くん、怖い顔してるよ?」
怖い顔にさせた犯人からの暖かい言葉で、俺はハッとした。
「あぁ、怖い顔になってた?」
「うん。とっても怖い顔になってたわ。何かあったの?」
自覚のない犯人ほど、怖いものはなかった。
「いいや。何もなかったよ」
「そう。ならよかった」
彼女はニンマリとした笑顔を見せて、息をゆっくりと吐いた。
「で、その警察さんって頼りになるの?」
「さぁ。でも、頼りにするしかないと思うけどね」
「ふ〜ん。でも、警察さんたちに助けに来てもらう前に私たちがなんとかここから抜け出したいわね」
「相手に迷惑をかけない為、だろ?」
「そうだね。出来るだけ他の人たちに悲しい思いをさせたくないから」
「いい感情だよ」
「当たり前でしょう?本でそう学んだんだから」
俺は感心してささやかな笑顔を見せた。美奈もそれを察してくれたのか、もう一度笑ってくれた。
こうして、二人で微笑み合っていると、いきなり何かが開く音がした。
『助けが来た』という現実的にはとても薄いであろう期待が、俺を支配する。
彼女もそれに期待してか、椅子から立ち上がって音のした壁の方へと歩き出した。
実際はその期待なんてなかった。淡い希望は、この部屋では壁に吸い込まれていった。代わりに、美奈ちゃんがトレイを持ってニコニコしながら、こちらに近づいて来る。
トライの上には、三つのお皿が乗っている。
「食事だよ。どう?食べる?」
彼女はどうぞ、と声にならない声で言って、俺に渡そうとする。
「ん、あぁ、まだいいよ」
俺は舐められないように少し見栄を張ってみる。
しかし、見栄を張ったのもつかの間、俺の空腹に耐えられなくなった腹の虫が騒いで、その音は部屋にエコーがかかったように響く。
俺はとっさに三角座りになって顔を伏せる。その光景を見た美奈はゆっくりと、無防備に口元を緩める。
「ほら。無理してないで、食べようよ」
「でも、美奈ちゃんの食べる分が少なくなるよ?」
「いや、私一人じゃこの量を食べきれないし、一緒に食べよう?箸も二つあるみたいだしさ」
どうやら、俺の分まで用意してくれているようだ。なら、食器も俺の分まで用意してくれたら良かったのに。
「なんで康太くんの分まで無いんだろうね......。まぁいいや。食べようか」
彼女は俺の目の前に俺に対して逆向きにトレイを置いた後、俺に正対するような形で座った。
意外にも料理は美味しそうで、相当栄養バランスが考えられてそうだった。
「はい。箸」
彼女は俺の鼻めがけて箸を差し出してきた。
「お、おう。ありがとう」
そして、お互い黙々とご飯を食べ出した。時計も太陽もないから、時刻が分からない。そんな中出される食事は、たった一つの時刻を推定する材料でしかない。今、俺はこの食事を夕食と定めている。しかし、美奈はこの食事を朝食としているかもしれない。そんな世界だった。
時刻すらも自分で考えてそれを信じなければいけない、過酷な世界だ。
「このご飯、美味しいね」
静けさについ耐えられなくて、俺は声を出してしまった。
少し声を高くして、興味ありそうに質問してみた。もちろん、このテクニックはあの動画によるものだった。
「うん。いっつもの味だけど、やっぱり美味しいよ」
本当にこの料理は美味しい。こんな料理に出会ったのは初めてかも、といったレベルに。まぁ、外食は大手チェーン店くらいにしか行かない俺だからこそ言えるのだけど。
俺はさりげなく、今気になっていた質問をぶつけてみた。
「美奈ちゃんは、今は朝だと思う?昼だと思う?夜だと思う?」
なんか、そこまでさりげなくしてない気もした。まぁ、堂々としても良い質問かもなと自分で正当化してみる。
「それ、気にすることなのかな?」
「どゆこと?」
「そんな『時間』を決めても、やることは変わらないでしょ?なら決めない方がいいよ」
確かに一理はある。けど、なんかこの子にそろそろ反論がしたかった。
「でも......決めておいた方が便利じゃないかな?」
「そんなものなの......?私はそう感じないけど」
「まぁ、価値観は人それぞれだからね」
安パイな言葉で思ってもないことを表現する。
「まぁ、ご飯食べようよ。お腹減ったしね」
「そうだね。ご飯食べてから、抜け出す所を見つけようか」
「うん」
また、この暗い部屋に二つの箸と皿がぶつかり合う音が響いた。
「食べた?」
この部屋が完全な無音状態になった後、聞かなくてもいい質問をした。
「うん。お腹いっぱいになったよ」
言葉を発した直後、美奈ちゃんは俺に聞こえる程度のゲップをした。そのゲップは、俺の意図に反して部屋全体に響き渡る。
俺が彼女を見て微笑を浮かべていると、当事者は不思議そうな顔でこちらを見てきた。
「何が面白いの?」
「い、いや。ゲップしてたから」
ボケを説明してあげるようなツッコミで、いかんぜん恥ずかしくなった。
「外の世界ではこれって恥ずかしいものなの?」
「そりゃあ、マナー違反でもあるからね。破ったら恥ずかしいよ」
「そうなんだ。これで私が外の世界に出ても恥ずかしくならないね」
「ほんとにね」
どうやら、この子には外の世界に出てもまだ課題が山積みのようだ。
「ねぇ、康太くん。外の世界の人って、汚い心を持ってる人が多いのかな?」
不安そうに、俺に訪ねてくる。
嘘を答えて、気分を良くさせようという考えが頭をよぎった。だけどここは、俺は正直にありのままを伝えなければならない。でなければ、彼女が納得しないだろう。
「......うん。だけど、綺麗な心を持つ人もいるよ?」
真っ向勝負だった。だから俺は、全身全霊をかけて反撃しなくちゃいけない。
「外の世界にいて、康太くんは辛くないの?」
「辛い時もある。だけど、嬉しい時もあるんだ。たくさん辛いことが起きた後は、必ずたくさん嬉しいことが起きるんだろ?」
彼女をグッドルートに導くのは、紛れもなく俺なんだ。
俺は、自分の思う正しい道へと、彼女を進めてあげるんだ。
自分に自信を持って、そう言うとしばらく沈黙が続いた。そして、彼女は吹っ切れたような顔で、言った。
「そうだったね。外の世界に行くんだもん。そんなこと我慢しなきゃ世の中やっていけないわ」
俺はこの決意を踏みにじってはいけない。そう、決意した。