マイノリティはつらいー挨拶しないとボコられる社会
さぁ、例のLGBT案件でエッセイランキングも割とそっちがちらちらでていますが。
私はもちっと範囲を広げて「異なるモノ」は生きづらいよね、ということを書いていこうかと思います。
変人や変態は生きづらいということです。
でも、残念ながら「小説家」ってやつは、大抵変人や変態だったりします。
おっと「なろう」の作家さんは、結構普通なのかな。
普通に、普通の娯楽を書けないと、なろうではポイント稼げないもの。
私が話しているのは、いわゆる国語の教科書に載ったり、出版社から出している、小説家といわれる人のことで。
いえ、なろう発小説をディスるつもりは毛頭無いのです。ないですが「本質として、まったくもって別物」だと思っているので、どっちもよいと思います。はい。
いわゆる「文豪」と言われる人達は「先鋭的な変人」であると理系で浅学な私は思っています。
成功したら先鋭的、先見性があると褒められて、失敗したなら愚者とおとしめられるのでしょう。
そして、彼らは基本的に「思考」を止めずにしてきたのだと思うのです。
ひたすら考え続け、見つめ続け。
それを本としてまとめ上げるのです。
ほら、なろう小説とは違うでしょう?
私はなろう小説大好きだし、読んで終わった「あー、面白かった!」で、きっと満足する。
最近のエンタメ作品はほぼこの傾向であるし、「ためになるのが欲しければ、実用書読んどけよ」っていうのもあるとは思うのですが。
それを両立できていたのが、お札になる人達だったりだったのだと思うのです。
国語の授業で疲れちゃっていたとしても、是非とも著作権きれてる作品はネット上にあったりするので、一読していただければなと思います。
さて。そんな変人である私は、「挨拶」というものに、あまり快い感じを持っていません。
挨拶が持つ「機能」は確かに、「融和」であり、「危険でないことの証明」です。
笑顔もそうですね。
私は「元気に挨拶をして笑顔で近づいてくる大人」は危険人物である可能性をはらむと思っていますが、恐るべき事に多くの普通の人はすがすがしいだとか、気持ちの良い青年だ、とかいう評価になるのです。
それは「学生期にすり込まされて覚えるもの」なので、自然にやれる人はたぶんいっぱいいるのだろうけれど。
私は究極的に、反響体なので、自発的な挨拶というものに臆します。
自己というものが幼い頃はほぼなかったので、それこそ自動人形のような状態でした。
挨拶には全面的に返します。
けれども、自分から挨拶をするかというと、「そうする場」でないとあまりしないです。
そして笑顔に関してもそうでしょうか。
私は素直であどけない自動人形であったので、小学生のころ、先生に「笑顔で毎日過ごしましょう」的な事を言われて、努めて笑顔を浮かべていたのでした。
それこそ笑顔の面をつけていたということですね。
それに気づいた人がいて、「いっつも笑顔とかキモい」とか普通に言われて、ああそういうものかと。
「今度は笑顔を浮かべなくなった」のでした。
いや、そもそも、「楽しい事」とか無かったしさ。楽しいと人は笑顔になるっていうけど、だったらあの頃笑顔なんて浮かぶはずはなくて。
今になって思うと、「笑顔が浮かべられない人」というのは寂しい人だということであって。
笑顔が浮かべられないから、悪い人だというわけではないのな、と。
怒っている人、泣きそうな人、疲れている人。
実は笑顔ではない人というのは「悪い人」じゃなくて「体調が悪い人」なのだと思うのです。
逆に「自分の思ったとおりの悪事ができた人」は「笑顔」になるでしょう。
真なる悪人は、しめしめとほくそ笑むものなのです。
けれども、人間って普通は「笑顔を向けられたら悪い気はしない」もので、「警戒をといちまう」らしいです。
さらにつっこめば、私は「笑い」というものが苦手です。笑い声がダメ。
特に男の人の「嘲笑」がダメです。
体が硬直するレベルでイヤです。別に嗤われた記憶ってのはないんだけれど。
いじめ体験だって、ほんの「さわり」のようなもので、他の人に比べれば本当にささいなものでしたし。
笑った方が人は健康になる! みたいな話もあるし、一昔前からお笑いブームですから。
それを否定する気はないのですが。
もうここら辺は「社会が怖い」ってのと連結する、固定された感情なのだろうと思う。
笑顔のない君に、「笑わないでもいいよ」と言ってくれるキャラとか、好きです。
笑わせようとする人より、私はそっちの方が好きです。
さて。話は戻って「挨拶について」です。
挨拶はいいこと、ということで時々私が日々使用している駅で「挨拶運動」なるものがなされています。
学生さんたちが40~50人集まって、「おはようございまーす」と一気呵成に言うわけです。
私は耳を塞いで改札に駆け込みます。
参加者は男女比8:2くらいです。
学生の教育のためだというのであれば、私はそれに抗議をするわけにもいかないわけで。
本当にそそくさと、改札に入ります。
野太い声で大量に大声で挨拶されたら、すくむわっ!
と、毎回思うわけですが、他の人はどう思ってるのだろうか。
ああ、若い子が挨拶運動なんて、素晴らしい! とか思ってるおじいちゃんとか結構いそう。
おばちゃんとかも結構いそう。
「挨拶を返さないほうが悪い!」とか思われそう!
はい。つまりは「感覚が違うと社会で生きにくい」ということを言いたいのです。
この社会はマジョリティによってある程度「まっとうな感覚」というものができあがっています。
それを作り出すのは、三歳までの幼児教育であったり、そのあとの高校まででの人格矯正となります。
いじめなんかも「異物をあぶり出す」ための機能なのかもしれません。もちろん「あぶれちまった人」のケアができてない今の教育制度では、あってはならないこと、なのですが。
ああ、マイノリティは死ねよって大人も思ってるってことなのかな、これは。はは。
なんにせよ、学校に行くという行為は「マジョリティの中での作法を身につける」ということであり、当たり前な価値観を醸造する場所なのです。今時ネットで授業受けられるし、大検受ければ大学もいけるよ、だから学校はいらない、というのも「こういうマジョリティになるための修練という意味合いで、ほどほどに重要」だと言えます。
死ぬほどイヤなら、学校行くのやめてマイノリティとしての野生を手に入れるしかないのですけどね。
また。
「保護を必要とする」レベルの違和、と、「ささいな違和」という問題があります。
養護学級にいれるかどうか、明らかに「いじめたらいじめたほうが加害者としてバッシングされるような」状態と。
「保護を必要としない、荒波には自分で対応しないといけない」状態があります。
王道を無邪気に進める人は、うらやましいものだと私は学生期からずっと思ってきていて。
なんとか蛇行しないように努力をしないとその道にいけない、その道を歩いていると極度に疲れる身としては、マジョリティに迎合するのって、ちょー疲れますわ! と思って生きてきました。
まあ、こういう人はうつ病になりやすいのだと思うし、「正解」を求めて頑張りすぎる傾向にあるように思います。
特異であろうと「周りからそういうもの」という、例えば「病名」や「障害名」のようなものがつけられて、ああだから「おかしい」なのねと納得されれば、ある程度なんとかなったりします。
あとはマジョリティに益がある、特異存在ならばOKです。
「サトラレ」という映画が昔ありましたが、あの設定の中に「天才であること」も含まれていました。
有益であれば、多少の「違和感」には目をつむろうというものです。
あーあ。人と違う道を行くなら、優秀で有益じゃないといけないのかぁ。しんどいなぁ、とほほ。
LGBTなんかは、保護を必要としない「個性」です。
Tに関しては援助は必要なんだけれどね。
さて。今回のLGBTの生産性うんぬんの話を受けて、私はどちらかというと「その記事に対する反応」というやつを注視していました。
日常生活をしていて、LGBTにたいして「面と向かって差別発言をする」人というのは、滅多にいません。
トランスに対してだって、まだ教育が進んでない中学生くらいまでなら、「やだーきもーい、へんたーい」とか普通にいうかもしれないけれど、「しっ、みちゃいけませんっ」と親に教育されれば、そういうもんかとなるってなもんです。
(いや、見ちゃいけません、自体が差別だろっていう意見は、納得はするけれど、違うものを警戒するのは防衛本能みたいなもんだもの。村社会の日本だと特に)
ネットだとどうしても検索のワードでいくらでも「自分の主観的な情報」を得やすくなるから、純粋にいろんな意見が見れたのは、おぉーってなもんです。
それで、結果としてはフォビア感はやっぱり、ちらほらあるのねー、という風には思いました。
さすがに、俺の尻があぶねーー! みたいな過剰反応は減ったとは思うのだけど。
生産性に関しては、「子供を」という意味合いでは「まあ、生理的にそうだよな」っていう意見がちらほら。
あとは、発言についての疑問だったり、あとは逆に、ぎゃーぎゃー騒いで利益得ようとすんな、みたいなLGBTバッシングみたいなのもありました。
正直、「ヘイトが強いわけではないんでない?」とかなり思っちまったんですよね。
まあ、情報をとった場所が、というのもあるのだろうけれど。
無記名な掲示板だったらもっと荒れてたのかもしれないけれど。
え。お前のこの記事に対しての意見表明しろって?
さっくり言えば「じゃあ生産性を高めるために、人工子宮の開発を、国家プロジェクトで!(笑)」でしょうか。
子供を作ることだけを「生産性」という言葉に込めているのだとしたら、確かにLGBTに生産性は「ほぼ」ありません。
なぜ、ほぼなのかといえば、「レズビアンとFTM×女性」の場合は、精子バンクやら親族やらからの提供を受ければ子供ができるからです。
あとは、自民党の一部で広がっている「少子化やべぇ」「俺たちは無策だが、お前らは子供を産め!」みたいな風潮が、前半はともかく後半の開き直りっぷりは、ちょっとな、というところです。
少子化の理由の大半は、賃金の低さと「今の労働環境で子供が育てられるか?」という不安からきていると私は考えてます。
結婚が遅れるのも、大卒が当たり前になって就職が遅れ、さらに女性のキャリア意識の問題なども合わさっているからで、さらには賃金は年々減っていくという最中で、きちんと育てられるのか、という意識が発生するのは当たり前です。
ちなみにうちの職場はそこそこ生活安定しているから、入社二年三年で結婚して、その後三十前後くらいでぽこぽこ産休に入ります。その穴埋めは子供産めない、結婚できない人間で埋めます。とほほ。
そして、「生産性」がない人に税金を使うのか、という点に関しては、子供ができたら控除される部分の方が多かったよね? と思うのです。
二人より、三人といったほうが、社会的支援は厚かったかと思います。ただその支援が「二人目、三人目を育てる経済負担と釣り合わないと判断される」から敬遠するだけで。
扶養控除はパートナーとの間にも適用されますが、子供を産む前提でできてる税制なのかが疑問です。
私は浅学なため、「結婚することによる税制上のメリット」がどの程度であって、どの程度優遇されているのかを知りません。
確か103万の壁とかで、夫婦関係が「片方ががっつり稼ぎ、片方が家を守るパターン」の場合に適応されやすい制度だったかと思いますが……(共働きで正社員で働いてて300万円×2とかだと別に結婚したことで税金の控除はないってことですよね?)
ただ、だとしたら単純に「LGBTの結婚を認めると同時に、子供がいない世帯の税制上の利益を改正する」というような方向の考えもありなのではないかと考えます。
もちろん、いろんな学者や識者さんの意見をとりまとめてですけど。
独身税っていう発想がありますけど、どちらかというと「子無し税」を採用する方がまだ現実的なのではないかと思います。
「結婚」=「子供を作る下地」という発想がいまだ蔓延していることに、私は恐怖すら覚えます。
テレビを見ていても「結婚報道」におまけとしてくっついてくる「妊娠してるかどうか」みたいなのは、それは重要か? と首をひねってしまいます。
子供ができなければ離婚する! というのはもうカビの生えた古代の考えだと思うのですよ。
そして、その発想は「出産可能年齢が過ぎた女性の存在意義」というものにも悪影響をもたらします。
家族ができるというのは素敵なことだと思います。
けれど、LGBの人達は法律的にそれができない。
養子縁組をすれば、婚姻をしたのと同じような権利は得られますが、「結婚」と「養子縁組」ではそこにある意味合いが違います。
異性愛カップルはまず「俺をお前の子供にしてくれ!」なんてプロポーズしないですよね。
普通に、「普通な」ことをしたいだけなのに、それを「金食い虫だ許せん」みたいな風に言われるのは、そりゃ差別ですよね、ととても思います。
最後にちょっとLGBT関連のお話も、添えておこうかと思います。
さて。私はLGBT関連については、全面擁護派です。
代々木公園のイベントにも、ちらっと参加してきましたし、「あんまりのリア充っぽさ」の空気に当てられてとぼとぼ帰ってきたりもしました!
なんだよ、おまえら陽気で元気じゃねーか! と、思ったものです。
くっそ、こっち禁酒中だっての、なんで酒売ってて、しかもみんな陽気にのんでんだよ、このー、とも思いました。
まあ、私はLGBTという存在を愛しているし、尊敬もしているし、そして普通に友達にもなりたいと思っているのであって。
けれども、同時に、「たがが外れてしまうこと」に対して、注意はすべきとも思っています。
たとえば、ノンケの人を襲うゲイの人はダメです。
「それは普通の痴漢行為と同じに」だめです。
LGBTだから「許されること」というのは、ノンケの人だから「許されること」だけだと思うんです。
たとえば、LGBであれば、「同性婚が許されること」です。
祝福を受けるかどうかはその周りの関係性なので、がんばって、としか……
あとはレズビアンカップルの貧困対策とかかなぁ。
最近はある程度男女の賃金差、役職の度合いなども是正されてきているので、今後は改善するかもしれませんが。
低賃金の女性同士が結婚すると、世帯収入が下がる法則です。
三十代から女性の平均年収は伸び悩みますからね。
でも、そっちは同一労働同一賃金だっけ? あっちでマジョリティ巻き込んで話をした方が良い問題でございます。
Tであれば、心の性とやらのままに、生活をできるように「折り合いをつける努力をしてもらう」こと、くらいまでだと思います。(歩み寄りが大切です)
子供産めるような技術を開発しろ、国の金でな! 福祉が足りない! だなどと言い始めたら「大バッシング」ですからね。
(生産性を上げたいなら、研究開発してくれでもいいのだぜ? とは思いますが)
マイノリティというものは、「そもそも、大多数に見逃されてるものだ」という大原則は覚えておかないといけません。
怯える必要はないけれど、だからといって「マイノリティ利権」というものを叫ぶことも美しくない。
というか、あまり叫びすぎると、「お前ら何様だ?」とか言われるわけですよ。
一方的に過剰な利益、福祉を得ようというのは「困窮している理由」などもセットで考えねばなりません。「LGBTに税金を投入」っていうのが、ここら辺もさしているのかは不明ですが。
ある意味、同じ言語を話す外国人と触れあう感じに近いでしょうかね。
文化が全然違う。それをすりあわせる時に「話し合う」わけです。
それができずに「一方的にレッテルを貼って迫害」するのならば、それは差別と言えるでしょう。
たとえ、石を投げられなくとも、です。
でも、そこらへんは割とLGBT側も、窮鼠状態にならないで、びびらず、話し合いたいということを伝えるべきだと思うのですよね。
って。まあLGBの場合は、もはや「恋愛絡まなければ言う必要すらない」と私は考えていますが。
今回の事は確かに、「差別発言」だと私は認識しているけれども。
でも、当事者の打たれ弱さにも、私は首を傾げているところです。
「一番自分たちのことをおかしいと思っているのは、自分自身じゃないだろうか」
つまりは、これ。
疑心暗鬼もけっこーはいってるんじゃない?
特にLGBの人達は、思春期になって「人と違う」っていうことを知って、混乱して、周りと話が合わなくて、「しかもそれでも病気じゃないらしい」といわれる。
常識的な学習を済ませた上での、「自分はおかしい」というのは結構な衝撃じゃあないのかな。
保健体育の教科書の上に載っているのは「正常な」ものだけ。記載も無い。
じゃあ、存在しない自分は「おかしい」のか?
なぁんて、考えるものなのでしょうか?
あ、トランス? トランスは最初っから足を踏み出すときに、自分がおかしいのわかってるからなぁ。
自分自身で、自分はおかしいと自覚をして、さらには「周りからおかしいと思われる覚悟」がある程度あって、性別いじるわけで。Xジェンダーとかだと「おかしいから悩んで行く感じ」ですかね。
移行途中の「自己嫌悪」と「疑心暗鬼」と、それに加えて「他者からのバッシング」までそろっちゃったら、そりゃあ移行中は気も狂うってもんですよ。
そこの精神的サポートに精神科が関与するかっていうと、うーん。どうなんすか?
いま治療を受けてる人達はどう考えてるんだろうか。
それをどう処理していくのかで、ある程度生き方が変わるわけだけど、うーん、トランスの場合は「トランスがある程度進んでいけば」落ち着く部分もあります。
日々が割れてぼろぼろな石橋を一歩一歩歩いて行って、それで「大丈夫っぽい?」というのを確認して、そしていつしかそれが普通の生活になるわけです。
もしくは「トライアンドエラー」の連続で生きていける道を探して、落ち着くパターンでしょうか。
同性愛の場合は、どうなんだろ。「結婚が認められるように」なれば、いくらか自分たちはおかしくないって思えるようになるんでしょうか。
けれども、個人的には「中高生が触れる娯楽媒体」の中に「大丈夫だよ」っていうメッセージを注ぎ込んで上げたいよなぁと思うのです。
いや、私も超長編で、同性愛者ばんばん出してますけど、なんていうかゲームとかで?
男の娘は割とマンガで「あたりまえ」な存在になったけど、同性愛者ってあんまでてこなくないですか?
BLものとかそっちを除いてですよ。
たとえば、学園ハーレムもの系で、主人公の友人ポジの子が「同性愛者」で、けれどもそれはそのまんまで、「主人公はハーレム状態で女子たちときゃっきゃする」ところで、友人ポジの同性愛発覚からの、「好きな相手がいるし、お前は眼中にない」みたいな話にしていくとかね。そういうのないかな。
私、昨日久しぶりにペルソナ4のアニメを見てたんですが、同性愛の扱い、ぐだぐだだよなぁと、ちょっと遠い目になったんですよね。
インパクトはあんの。すげぇの。
いちおう最後まで見れば、「巽完二」の心情としては正解なのだけど。
いわゆる「ゲイレッテル」から入って、それからの「実はオトメンでしたーーー! そっちの抑圧がねー」みたいな展開で。
おまけにちょっと「認められて嬉しいから」なんだろうけど「主人公にちょっと頬を染めたり」しつつ。
でも、結局、探偵王子のことを好きになるわけです。王子だけど女子です、はい。
(発売されてだいぶ経つし、ネタバレしてもいいよね!)
結局、なんだったのーーー!? みたいなとこが有ったのですよ。
人気作だっただけに、「ああ結局同性愛について扱ってたわけじゃなかったか」と、がっくしきたりして。
なんというか「BLじゃなくて、同性愛を小ネタにつかった作品」がないもんかなーーー! と思ってます。
大事なのは「小ネタ」ってとこで。メインで問題に切り込むのではなく「世界の中に同性愛が共にあること」を示すようなものがあると、疑心暗鬼はちょっとは減るんでないかなぁと。
古い作品だと、セイバーマリオネットJとかは、同性愛エッセンスがあったというか「それが当たり前な世界の中で、マリオネットが好き=女好き」っていうマイノリティ反転ものだったわけなのですが。
えええ、お前かけよーって? そうさな。なろうで同性愛で検索すると1000件くらいしか出てこないわけだし。
でも、めっちゃ調べて、インタビューとかせなあかんし。
やるなら、同性愛者の方々が自分で書いてみるっていうのは、一つありなのではないかと思っています。
ポイントは「同性愛者を社会の中に組み込んで、俯瞰した作品に仕上げる」ってことです。
恋愛だけにピントを絞ってしまうと、もうVS一般社会みたいになってしまうので。
自助活動の一環ってな具合でどんなもんでしょう?
あとは、一般的に読める娯楽モノであるという完成度が欲しいのですが、それが難しいですね。
BLっていう一大ジャンルができてしまっている中で差別化するのが難しいものではあるのですが、でも「あれは創作物」でフィクションなので。そこでそういう社会派なエッセンスが入っている作品って魅力があるとは思うのですが。
いかがでしょうか?