"業"
ああ、本当に、私は運がいい。
エヴォリューション・レイ現象に出くわしてからもう四日、命の危険も僅かに感じたがどうにか小型艇で脱出には上手くいった。イージスにしか効かないものなのだから普通の機械には無力だ。
もちろん、ただ私は命からがら逃げたわけではない。しっかりとした成果を持ち帰った。IVとアニマを鹵獲出来たことは大きな収穫だった。
方舟内部、シャングリラにおけるほんの一部の上流階級だけが入ることを許される都市。その中心地、最も奥深くには我々人類を母星から導き続けてきた元老院がある。たとえ話ではない。元老院議員は母星を旅立ったその日から今現在まで確かに生きているのだ。
ある者は自らの肉体を脳髄のみにして生き長らえ、またある者は肉体の大多数を機械へと置き換え、そしてまたある者は冷凍睡眠を何度も何度も繰り返し、現代まで生を引き延ばしている。議論を行うことだけに生き続ける彼らは人と言うよりは人類種の決定装置と言った方が適切だろうか。
「それでも、私は人の肉体を捨てた者よりは人であると思っているがな。」
私の声。私が歳を重ね、生きることだけで限界に近づいている声。
私は今元老院にいた。アイン・エーデルシュテイン元老院議員。彼に会うためだ。最も私から見て"彼"と呼ぶのはいささか抵抗がある。
「計画は順調だ。貴方が考えた当初の予定からは少し変わったが代替手段も確立した。その手段も、思わぬ収穫で早く進みそうだ。」
「そうか、流石は君だ。苦労して舞台を整えただけの甲斐があった。この肉体ではもう人と言葉を交わすだけで精一杯だからな。あと数分も会話できず、また冷凍睡眠をしなければならない。」
「私を信頼してくれ、いや言わずとも出来るだろう。なぜなら私がニール・ツヴァイクだからな。」
自分自身とは己が最も信頼を置ける存在だろう。いくら意志を共にした仲間であれ、全く違う人格の全く違う考え方の方程式を持つ全く違う存在だ。どこかでほんの少しずつズレが生まれ、そのズレはいつか意志を切り裂く大穴となる。だからこそ、最も信頼できる存在にアインは計画を託した。
全く同じ細胞にそれまでの全ての記憶を埋め込んだ私に。
ニール・ツヴァイクは生まれながらにしてその運命を決められた男だ。
アイン・エーデルシュテインのクローンとして生まれ、彼の過去の記憶を全て移植されたニールはアインと完全な別個体の人間でありながら若返ったアインと言っても過言ではない存在であった。
クローンの製造はノアの憲章に反する。しかしそんなことはどうだってよかった。アイン・エーデルシュテインはそれを破ってでも成すべき計画があったのだ。人の肉体は長く生きるにはあまりにも大きな枷だった。しかし、人であることに絶対的な意義を感じる彼に人の肉体を捨てるという選択肢は生まれなかったのだ。
「さて、例のデータを提供した…これでVの血清も完成したはずだ…。」
元老院を出たニールは薄暗い研究所を歩く。元老院のように厳重なセキュリティが掛けられたその区画は相当な機密事項があることを匂わせる。
奥へ奥へと進み、金庫のように重厚なドアに虹彩や指紋や、声紋、何重にもかかった生体認証をかける。ようやく扉が開くと、黒く武骨な手術台のようにも見えるベッドに退屈そうに座る少女がいた。
「やあV、久しいね。」
「ニール!会いたかったわ!」
ニールを見るや否や花が咲くように笑顔になる少女。Vと呼ばれるその少女はIVと同じくらいの年頃で、穏やかな印象を受ける彼女とは異なり少し活発でつり目気味の強そうな女の子ではあったが体格や顔立ちにIVと重ねられるような点がいくつもあった。
「少し、忙しくてね。血清が出来てから体の調子はどうだい?」
「とてもいい感じだわ!いつもの"おもちゃ"の実験も順調でお菓子をくれるから最近は楽しいわ!でもニールが全然来てくれなくて凄く寂しかったの。」
「それはすまなかったな。まあ調子がいいのはいいことだ。」
楽し気に話す少女に優しい笑顔を浮かべながら耳を傾けるニールの姿は傍から見れば歳の若い父親のようにも見えたが、この研究所にいる研究員は決してそうは見えなかった。知っていればこんなもの、作り笑いや演技でやっているものなんてのは分かるのだ。彼が彼女のことを人として扱っているかどうかなんてのは分かり切っている。それでもニールを実の父親のように接する彼女を見ると、研究員達は少しばかり心が痛んだ。無理もない。生まれてこの方、彼女が接した人間は研究員と彼だけなのだ。最初に出会った生き物を親と勘違いする動物のように、彼女もニールを父親と思い込んでいるのだろう。
「もうすぐ君も新しい体験が出来る。こんな鬱屈とした狭い空間から出て、外の世界で飛べる日がくるんだ。もう少しさ。それまで元気にしてくれ。待っているよ。」
「うん!ニールも!待っててね!」
背を向け手を挙げ挨拶をしながらVの部屋を後にする。
「アレの調整、少し感情的にし過ぎではないのか?」
「いえ、どうにも基礎学習の際にIVよりも随分色々なものに興味を持ち始めまして…」
「そうか…あまり目的から逸脱させるなよ。また破棄処分としてダスターに送るのは勘弁だ。」
「はい、少し教育プログラムの見直しをしておきます。」
ニール・ツヴァイクが彼女をどう思っているか。それは部屋を出て彼女を指す言葉として用いたものがすべてを物語った。ニール・ツヴァイクにとっていくら人に近いものであっても人でなければそれはニンゲンではないのだ。それは元が人であっても人という存在を逸脱した者たちに対してもそうだった。人の体を捨てた元老院議員たちに思うことがまさにそうだろう。
「さて、となれば"カルマ"の完成ももうすぐか、」
広い工房のような場所へと移る。そこにいたのは新型のイージス。まるで人間の手術をするように大量にドールに繋がれた管は機械の整備をしているということを思わせない。
その機体の名前はNSA-000 "KARMA"。"業"の名を持つそのイージス。漆黒の装甲に包まれたそのイージスの外見は最古のイージスにして、かの少年少女の乗機。
XSA-0 "ANIMA"と全く同じ外見をしていたのだ。
ニール・ツヴァイクはアイン・エーデルシュテインのクローンであり、生まれつきアインの記憶が植え付けられています。なので彼は自分自身がクローンであるという事実を知っていますが、記憶を受け継ぐ上に人格が全く同じものである為、ニールは自分自身がアインであるという風な感覚を覚えています。自分自身と会話をするというのは正直気持ち悪いでしょう。
人間のクローンの作成はノアの憲章でダメです。理由としてはシャングリラに到着したノアが母星を出発した時点で定められた「最優先で守らなければいけない事項」に「人類種の保持」があるからです。これはノアではどんなルールよりも優位に立ちます。クローンというのは真っ当な人類の増え方とは言いにくいために憲章によって禁じられていました。ちなみに家畜などのクローン作成はOK。シャングリラにおいては一般家庭で普及する肉類の大多数は培養肉です。天然ものは高級品。