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あたしは静香のことが心配だった。
自己主張が苦手で、引っ込み思案で、流されやすい。そんな静香が心配だった。
でも、ヒロとだったらきっと上手くやってけるって思った。
最高の親友に大切な幼なじみを任せて、あたしはそんな二人を笑って見守る。
ずっとそんな関係でいられたらいいって思った。
ずっとそのまんまでいられたらいいって思った。
本当に、そう思ったんだよ。
◇
飲食店を始めとして多種多様な店が並び、若者を中心に雑多な賑わいを見せる大三條通り――には特に用はなく、寄せては返す人波を自転車で強引に割りつつ細い路地にすべり込む。すると広がる、表の騒々しさとはまるで無縁の別世界。 営業してるのかどうかも怪しい古くさい店から、マニア垂涎(らしい)の稀少品を扱う店まで、ある意味では表通り以上に様々な店が並ぶ薄暗い細道。
人呼んで裏三條。
入る道進む道を一つ間違えると危険とスリルがいっぱいのこの路地を正しく奥へ入ると、そこにはこの異世界の雰囲気には似つかわしくない、妙に小綺麗な店が姿を現す。
それがあたしの今日の目的地――ダバダカフェ。
場所が場所だからそれこそまさに「知る人ぞ知る」という店で、本当ならあたしだってここに足を運ぶどころか店の存在すら知るはずはなかったのだけど、なんの因果か。あたしはすっかりここの常連さんになってしまった。
乗ってきた自転車を店の前に置いてドアを開けると、ほどよく涼しい空気とふわりと鼻をくすぐるコーヒーの香りがお出迎え。
カウンターの向こうで食器を棚に戻していたヒロが、あたしの方を振り向いた。
「らっしゃい」
「ちょりっス」
決して広いとは言えない店内に他に人はいない。書き入れ時だってのにこんなんでやってけんのかと心配にもなるけど、周囲に気を使う必要もなくのんびりできるから、あたしにはありがたい。
まー、そもそもこの店は経営の心配がいらないらしいんだけどね、ヒロ曰く。
「今日もあっちぃね」
家からここまで来んのにもう汗だくだよ。この時期は汗でブラが透けない服を選ばなきゃいけないから、めんどいったらないね。あたしの透けブラで良けりゃいくらでも見せてやるよッ、と言えたらかっこいいんだけど、あたしだって人の目は気になる年頃さね。
それはさておき、差し出された水とおしぼりが輝いて見えるぜ。
「久しぶり。忙しかったのか?」
「んまー、期末もあったしね。つかほら、こう暑いとね。外出も億劫になるっつーか」
日焼けとか汗じみとか気になるよねー。だって女の子だもん。
「花の女子高生のセリフじゃねえな。せっかくの夏休みなんだから青春しろよ」
「青春ねぇ……はて、青春ってなんじゃろな。青い春と書いて青春……夏に青春とはこれ如何に」
くだらねえ冗句は置いといて。別に好きな男もいないし、部活だってやってないし。友達とダベったり遊び行ったり、なんてなぁ別に休みでなくてもやってるし。夏休みになったからって別に何か特別なことがあるわけでもないしね。あれか、海でナンパでも待ってりゃいいのか?
「つーかコーヒー、いつもの。アイスでね」
「こないだとは違う豆だぞ」
「あーオーケーオーケー。アンタの舌は信用してるから」
ヒロのオリジナルブレンドコーヒー。
メニューには載っていない、いわゆる裏メニュー。常連を名乗れるくらい店に通って、ヒロと仲良くなって初めてその存在を知る。まさに幻のコーヒー……というのは少しばかり大仰だけど。中学時代からの仲良しであるあたしは常連になる前から飲ませてもらってたんだよね。うへへ。
豆の配合も、一杯のお値段もヒロの自由。
ただの一従業員でしかないヒロにそんな勝手が許されてるあたり、いかにコイツが店長から信用されてるか分かるってもんで。
さすがはあたしの親友、てか。
きゅい、とおもむろにカウンター奥のドアが開いた。
「らっしぇ」
「ででーん、魔物が現れた」
もとい、店長が現れた。
「ぐははっ、よくここまでたどり着いたな勇者め! よかろう。ならばこの魔王自らが引導を渡してくれるわっ」
間抜けな笑みを浮かべながら両手を振り上げ、地下世界を支配する某のようなポージングを取る店長。
あまりの唐突さに、毎日顔を合わせているヒロさえもコーヒーを淹れる手を止めて、未知の不思議生物を見るような目を店長に向ける。気のせいか店内の温度が二度ほど下がった気もする。
「ごめん店長。ちょっとそのテンション分かんない」
「え、あ、いや、だってマーコちゃんが魔物が現れたって言うから」
「確かに魔物とは言ったけど魔王とは言ってないっスね」
「なん……だと?」
「うるせえ」
ダバダカフェ店長、ゾーマ……じゃなかった田畑治。裕福な家の息子らしく、多少遊んだところで生活に困ることがない程度にお金を持ってるそうで。カフェも生活目的ではなくて道楽でやってるとかなんとか。
なんともまあ羨ましいというか妬ましいというか、色々と人生ナメくさったオッサンだよね。三輪車にでも轢かれてしまえばいいのに。
「悪意満載の人物紹介どうもありがとう」
「どういたしまして。あ、サンキュ」
ヒロからコーヒーを受け取って、一口飲む。うん、程よい苦味がするりと喉を下って、美味い。ホントは酸味がある方が好きなんだけど、これはこれで飲みやすい。
おいちょっと待て。今店長あたしの心の声に応えなかったか?
うん、いや、ま、いいか。それよりそれよりうへへ。
「さてヒロ君。美味しいコーヒーも来たことだし? そろそろいただこうかな、試作デザート、うふっ」
「あー、すまん。昨日ゆかりが食った」
「は? ちょっとあーたッ、ゆかりには食わしてあたしにはないってなによ。ゆかりとあたしとどっちが大事なのよッ」
カウンターをドン。
「どっちかと言われりゃな。そりゃゆかりだ」
ですよねー。さすがのあたしも妹には勝てないですよねー。
「くっそぉ。まあいいや今度は食わしてよね。そぃやあの子、今年卒業だよね。進路どうすんの?」
「お前んとこ行くってよ」
「へぇ、じゃあ進学できるんだ。でも大丈夫なの?」
学力的な意味じゃなくて、金銭的な意味で。
ヒロんとこの家庭事情を知ってる数少ない内の一人として、やっぱりその辺は心配。
「お金の心配ならいらないよ。僕が付いてるからね。HAHAHA!」
「その無意味なアメリカ笑いはともかく、なに? もしかして店長が授業料とか出すの?」
うむ、と鼻高々に頷く店長。
いくら吐いて捨てるほど金持ってる道楽息子だからって、他所の子の学校にまで金を出すのはちょっと違うのではなかろうか。ヒロやゆかりのためにもならない気がするんだけど。
「俺とゆかりが自立したら返す約束だけどな」
「あ、そうなんだ……ってことはアレ? 奨学金だっけ? あんな感じだ」
「僕がただお金を出すのは簡単だけどね。それじゃあ二人のためになんないからね。そういう条件を付けさせてもらったよ。HAHAHA!」
なるほどねぇ。いや、店長ちょっと見直した。ちゃんと考えてたんだね。この場を借りてこれまでの非礼をお詫びしますごめんなさい。ホント。後アメリカ笑いはスルーします、ウザいから。
「あ、そうそうヒロ、静香は今日どっか行ってんの?」
かちん――と、場の空気が固まった気がした。
あれ? えー、あれ? あたし今、なんか変なこと言ったっけ? 静香のことを訊いただけだよね。なんだよこのケツの辺りがそわそわする微妙な心地悪さは。
「いや、知らん」
空気の変化に気付いてるのか否か、ヒロはいつも通りの素っ気なさで言った。
ちらりと横目に、店長にも特に変わった様子は見られない。
うーん、あたしの気のせいかな。うん、気のせいってことで。
「知らんってさ、彼女の予定ぐらい把握してねーの?」
メールとか電話でそういうやりとりくらいはするだろうに。
……昨今のカップルはしないのかしら。
「最近連絡取ってねえからな。なんか用事でもあったのか?」
「や、実は今日一緒に来ようと思ってたんだけどさ。電話にゃ出ないしメールに返事はないしでさ。どうしてんのかなー、と」
期末のバタバタもあってしばらく会ってなかったし、久しぶりに三人で話とかしたかったんだけど。
「あー、ごめん。僕ちょっと用事思い出しちゃった。悪いけどヒロ君留守番してて」
店長がそそくさと奥へと引っ込んでいった。
退場のタイミングがいやに不自然なのが気になるけど、まあいいや。店長だし。
少し、沈黙。
「……マーコにはまだ言ってなかったけどな。静香とは別れた」
「は? 別に今そういう冗句いらないから」
さらりとなんだよいきなり。なんかの伏線かっつの。
「冗句じゃねえよ」
素っ気なく、なんでもない風で。でもその一言には、確かにずしりとした重みがあった。
しんとなる店内に、女性の金切り声が響く。気付かなかった。テレビ付いてたのか。
再放送らしいドラマ。どうやらヒロインとおぼしき女性が浮気をして、それが恋人にバレて修羅場に、という状況らしい。男女の激しく醜い言い争いが耳に付く。
ヒロはなんも言わない。 あたしがなんか言わなきゃと思っても、上手く言葉が出てこない。
「マジなの?」
「マジだよ」
「いつ」
「一週間前」
「なんで?」
「…………」
「なんで別れたの?」
「…………」
「アンタがなんかした?」
「…………」
「分かった。ありがと」
あたしは立ち上がる。
「ごめん。お金後で払うから。ちょい静香んとこ行ってくる」
「……おう」
ヒロは意味もなく隠しごとをしない。理由もなくだんまりはしない。そのヒロがなにも言わないということはつまり、そういうことだ。
店を出て静香の携帯に電話する。
何度かの呼び出し音の後、無機質な留守電サービスに切り替わる。
思わず舌打ち。なにやってんだあのバカ。この分じゃどうせメールしたって無駄だろうし、折り返しの電話だって来ると思えない。しゃーない。やっぱ直接家に行くのが一番か。そういえばここしばらくあの子の家も行ってないな。ついでにおばさんにも挨拶しとこう。
つーかせっかく暑い中苦労してここまで来たってのに、シャツが乾く間もなくまた移動かよ。あたしにここまでさせといて、別れたのがしょーもない理由だったらマジぶん殴ってやる。
などと、いささか毛羽立った心持ちで自転車のペダルを踏み込むあたしであった。