07
昼食を終えてトレイを片づけるころには、食堂内の混雑具合は落ち着きつつあった。アサコがカウンターからダスターを借りてきて拭いたテーブルの上にジンとマリアがそれぞれのラップトップを開く。
アキナリも自分のラップトップは持っているが、古くて重いうえにバッテリーが寿命をとっくに過ぎていてコンセントを抜くと十分以内に電源が落ちるから家でしか使うことができない。スピーチ本番ではヴィジュアルエイドとしてパワーポイントを使う予定だから、恥を忍んで事情を話すとマリアはまるで気にしないと言う様子であたしのパソコン使えばいいじゃん、とだけ言った。マリアのラップトップは薄くて汚れや傷が無いし、さくさく動く。正直に頼んで正解だった。
「ガーナの結婚っていっても何から調べればいいのかねえ」
マリアが両耳に髪を掛けた。
「とりあえず基本事項調べてみん? 人口とか位置とかさ。既にそのへんからはっきりわからんくない? ガーナって」
「確かにー」
グーグルを開いて検索バーに軽やかに文字を打ち込んでいく。外務省のページを開くと、使えそうな基礎的なデータが出てくる。それをアキナリが隣でルーズリーフに控える。
そうしてしばらくペアに分かれてそれぞれの担当の国について調べていると、マリアが時計に目をやった。
「ごめん。あたしバイトあるからそろそろ行かなきゃ。また続きは今度でもいい?」
隣のテーブルのジンとアサコも顔を上げる。
「いいよ。え、てか何のバイトしてるの?」
「カフェバー的なとこ」
そう言いながらインターネットを閉じてシャットダウンする。完全に電源が落ちるまでの間にジャケットを羽織って、画面の暗くなったラップトップをリュックに滑り込ませる。
「また連絡するね! じゃあみんな、またね!」
マリアが手を振る。彼女がくるりと回ってこちらに背を向けた瞬間にスマートフォンを覗きこんで、指を細かく滑らせるのをアキナリは見た。
「じゃあ私もそろそろ行こうかなー」
「アサコちゃんも何か用事あるの?」
「私、今日部活の見学行こうと思ってて」
アサコがスマートフォンのホームボタンを押して時間を確認した。
「うん、まだ間に合うし」
「どこ見に行くの?」
ジンもベルトがレザーの腕時計をちらりと見た。
「ESCだよ」
「ESCって英語のやつ?」
アキナリの質問にアサコが机の上に広がったルーズリーフや辞書をバッグに丁寧に仕舞いながら頷く。思わずはーっと長い溜息が口から洩れた。発音のレベルこそアサコとアキナリは似たようなものだけれど、意識の差があり過ぎる。ESCとはEnglish Study Clubの略でその名の通り英語のスキルアップを目的とした部活だ。スピーチコンテストに毎年出場しているらしいし、何より活動日や宿題の量が多く厳しいことでも有名だ。他のクラスメイトとの差を悲観して拗ねるわけではないが、それでもそこまでやろうとは思えなかった。
「六時まで見学やってるみたいだから、私行ってくるねー」
ジンくんまた連絡するね。と言い残してアサコはさっさと行ってしまう。マリアとはまた違うけれど彼女は彼女でしっかりとした自分の世界を持っていそうだ。
気が付けばA食は空席が目立つようになっていた。学生たちのほとんどがラップトップで調べ物をしたり本を開いたりしていて、喋り声は通ってしまいそうだ。
「俺たちもそろそろ出るか」
ジンの提案に頷いて、片づけをする。
さっきまでマリアと一緒にいたんだ。静かになった食堂で急にその実感が湧いてきた。そして彼女がもう去ってしまったことも。もっと長く一緒にいたかった。授業に関係無い話もしてみたかった。明日も授業はあるのだから姿ぐらい見かけることはあるかもしれない。だけど彼女は大抵彼女の友だちといるし、アキナリはジンといることが多くなった。挨拶ぐらいは交わせても話をする可能性は低いだろう。
そう考えると急に寂しくなって、このまま地下鉄と電車を乗り継いで真っ直ぐ家に帰ってしまうことが惜しくなった。
そのうえA食を出た瞬間に吹き抜けた強い風が四月の半ばだと言うのに妙に冷たくて、誰も居ない家に帰るという選択肢は瞬く間にどこかへ飛ばされていった。
「なー、ジンもこのあと用事ある?」
「別になんもないけど」
「飯食べてかない?」
「おー」
「あんま大学の周り何があるのか知らんのだけど、何かある?」
「ファミレスならある」
「おっけ。じゃあそこ行こ」
アキナリが通っていた公立高校がいくつかある運動場の一つに収まってしまう程大きなキャンパスは、坂が無駄に多い。そもそもキャンパス自体が坂の上に位置しているから授業で疲れているときにわざわざ歩き回ろうと思えない。のはアキナリが元来インドア派だからかもしれない。だいたい友だちと遊ぶなら地下鉄に乗ってN駅かS駅まで行ってしまったほうがなんでもある。
それに比べて大学の近くで一人暮らしをしているジンは、この辺りの土地勘も徐々に付きつつあるらしい。そんなことを言っているのを聞いた覚えがあるが、実際は知りあって日も浅くて彼のことをあまり知らない。
だけどそのイケメンさゆえに、一つだけ尋ねてみたいこと、あわよくば相談したいと思っていたことがあるのだ。