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「……気づかなかった」
長すぎる沈黙の後、アキがぽつりと零した。
「ごめんね」
堪え切れているはずの涙が、音もなく目じりから流れていった。そのことに自分自身が驚いて隙が出来た瞬間、両目から幾粒も続いた。乱暴に拭っても止まらない。もう随分昔に受け入れた事実だから、今更悲しいわけでもないのに。
「マリア」
暖かい声で名前を呼ばれた。そんな風に呼ばれるのなんていつぶりだっただろう。驚いていると、戸惑いがちな震える腕に抱きすくめられた。あたしよりも細いぐらいの頼りないアキの腕が、背中に回されている。
「打ち明けてくれてありがとう」
頭上から降ってくる声は霧雨みたい。
「……だけどもし初めから知ってたとしても、僕はマリアのことすきになっちゃってたと思うな」
その一瞬、呼吸が止まった。そして身体の奥深くに追いやって視界入れないようにしてきたものが、勢いを持ってせり上がってきた。くぐもった声が漏れる。アキのシャツをぐっと握った。嗚咽も涙も止まらない。アキはそれ以上は何も言わずに、静かにあたしのことを抱きしめていた。
目じりも鼻の下も顎の先までもヒリヒリと痛むほど泣くと、ようやく気持ちが晴れてきてアキの胸から顔を上げた。
「ごめん。鼻水とか涎とか付いたかも」
「コーヒー奢ってくれたら許すよ」
背中に回されていた腕が離れる。また横に並んで座りなおした。だけど距離はさっきよりも近くて、お互いの腕だとか肩だとかが触れたままだった。このまま何も知らないアサコとジンの元へ戻る気には到底なれない。
「あたしさ、アメリカでミドルスクール通ってたときに初めて同級生の男の子にデートに誘われたんだけど、違和感しかなくて。彼はそこそこ人気者だったしかっこよかったんだけど、なんかそれだけって感じで何回かデートして終わったの」
手をつないだりハグをしたりキスをしたりする前に流れる空気感がどうしても耐えられなかった。
「それから高校生になって仲良くなった友だちのお姉ちゃんがレズビアンってことを知って、ハッとしたの。そういうことかもしれないって。男の人のことも普通にかっこいいって思ったりするけど、どっちかというと女の人に対してのほうがドキドキしたりすることがあったから」
アキは何も言わない。あたしの話を聞いていてくれているのかもしれないし、もしかしたら眠っているのかもしれない。
「その友達のお姉ちゃんに、もしかしたら自分もそうかもしれないって相談をしてるうちに気が付いたら好きになってて、でも彼女には別に恋人がいたから叶わなくて、そのまま日本に帰ってくることになったんだよね」
向こうを発つ数週間前にダメ元で告白をしたけれど、彼女は空港に見送りにさえ来てくれなかった。今となっては笑い話にもできる苦い初恋の思い出だ。
「日本の高校は先生も友だちも皆良かったから楽しかったけど、それでも最初の頃はどうしても慣れないし寂しくて、ネットで恋人を募集したの。掲示板みたいなところに書き込んで連絡をくれたなかの一人が、今の彼女なの」
膝を抱える左手に光る指に視線を落とす。アキの顔は確認しなかったけれど、彼もそれを見ているような気がした。
「喧嘩ばっかりしてるんだけどね」
急に一方的に話していることに気まずさを感じて、急いでことばを続けた。
「そっか」
不意にアキの短い声が返ってくる。
帰りたくないけれど、帰ったほうがいいのかもしれない。これ以上彼をワガママに付き合わせちゃいけないのかもしれないと急に心配になってくる。あたしは何も返せないから。
スマホを取り出す。真っ暗なこの場所では液晶が異常なまでに明るく感じる。既読を付けただけで返事をしていなかったらメッセージを開いて、アサコに電話を掛ける。
「ごめん、花火探すのに時間かかっちゃってさ。もう帰るね」
電話を切って立ち上がる。
「帰ろっか」
あたしがそう言って顔を覗き込むまで、アキは立ち上がろうとはしなかった。




